「リシャール様、宜しいでしょうか」
 朝日は昇った。
 これで文句を言われる筋合いはない。
 さすがにマリーエの命令通りに前日のうちに届ける程無謀ではなかった。
 扉を叩いて声を掛けてみるものの返事はない。当然期待はしていなかったが、暫く待ってみる。
 しかし、ややあって、ごそごそという音と共に微かに扉が開いた。

「やあ……お早う」
 顔を覗かせたのはリシャールではなかった。少し低い位置に少年の小作りな顔がある。目は少し腫れぼったいが、寝惚けているという様子でもない。
「あの……リシャール様は」
「未だよく寝てる。眠ってそんなに経ってないから、寝かせておいてあげたいな。……僕じゃなくて、リシャールに用事?」
「貴方にも……まだたくさん聞きたいことはありますけど……これをお渡ししないといけないんです。本当は昨日だったけど……待たないと怖いと思って」
「判断は正解かも。僕も一層厭な目に遭ってたかも知れないし。それで……それ、何?」
「書簡です。宮廷からの」
「僕が渡したのでいいなら、受け取るけど」
「一応正式なものみたいなので……」
「じゃあ起こさなくちゃダメかな……入る?」
「い、いや……いい……」
「そうだね。その方がいいか。……ちょっと待ってて」
 顔が引っ込み扉が閉まる。ギュスターヴはほっと息を吐いた。
 リシャールはそれ程寝起きがいいわけではないし、アルヴィンとの時間を邪魔したと思われるのも心外である。不機嫌に付き合うのは最小限がいい。

「……朝早くからご苦労なことだな」
「お休みのところ申し訳ありません。昨日、明日、と仰せでしたのでこの時間まで待ちました。こちらを」
 顔を覗かせたリシャールはそれはだらしのない格好だった。ローブを纏う気すらない様子でギュスターヴの前へ裸体を晒す。
 目も開いていないが、さっさと下がりたいギュスターヴはその手へ書簡を握らせた。
「宮廷からの書簡です。マリーエ殿が、招喚だと申していました」
「宮廷…………ああ…………そろそろ…………ふ、ぁあ……」
 大きな欠伸をする。
「……分かった。後で目を通しておく。お前は下がれ。起きるまで邪魔をするな」
「分かりました。しかし、じきマリーエ殿が来ると思います。程々に」
 リシャールは煩さげに手を振る。
 ギュスターヴは胸に手を当てて深く頭を下げた。どれだけ我が儘でも、主君は主君だ。
 頭の上で扉が閉まる音を聞く。
 確実に閉まったことを確認してから、ギュスターヴは大きく溜息を吐いた。

「……まったく、無粋なことだな。朝食後まで控えていればいいものを」
 寝直すには少々気が削がれてしまっている。
 それでも、書簡を手近な台に放り投げると、アルヴィンを腕に抱き込んで寝台に上がり直した。
「昨日来たものらしいよ。昨日邪魔しなかっただけ、賢いんじゃないか」
「そうは言うがね……」
「っ……ん……」
 首筋に唇を押し当てられて身を捩る。
 その反応に気をよくして、リシャールは益々擦り寄った。
 人に似る様に取り繕うことを止めたアルヴィンの身体はひどく冷たく、汗ばむ季節には心地よい。
「まだ殆ど眠っていないぞ」
「疲れは取れてないんだろ? もういい年だものな」
「君が言えたことか」
「僕は、ずっとこのままだから」
「……ああ…………」
 謝罪の代わりに唇を合わせる。
 聞くべきではないことはたくさんあるのだ。それは、これから覚えていくしかない。
「宮廷からお呼びだ、って言ってたな」
「気が進まないな。……君とここでこうしている方が余程楽しい」
 腕の中のアルヴィンに甘えて転がる。
 しかし、アルヴィンは身を捩って逃れた。
「行かなくちゃいけないんだろう?」
「そうだな。……あの一家に取り入ることは、重要だ」
「気付かれていないのか」
「どうかな。……皇太子や皇女は気付いているかも知れないが、私に手を出す不利益もまた、理解していることだろう」
「……思ってたより、貴方って凄いのか?」
 意外そうに問われ、リシャールは微笑んだ。率直な物言いは好ましい。
 首根を擽り、頬を寄せる。
「消すにも手順が必要な程の名はある。それに……貴重な戦力だからな、今は。この国が西の国に潰されるのは、私も困る」
「戦になるって言ってたな」
「ああ。……私もそのうち出ねばなるまい」
「……貴方が居なくなったら、帰れるな」
「君が待っていてくれたら、私は無事に生きて帰る確証が持てるのだがね」
「……なら、ずっと監視していればいい。置いていかないで」
「……アルヴィン?」
「…………貴方が居ない城に居られる筈がないだろう? よしんば僕が待っている選択をしても、追い出される」
 マリーエはアルヴィンやシリルをよく思っていない。それは、よく分かる話だ。
 アルヴィンはリシャールの腕から抜け出て、水差しから水を飲んだ。
 腕を伸ばしてくるリシャールの口にも水を与える。
「……辛いぞ。戦場は、地獄の様だ」
「知ってる」
 更に腕を伸ばしてアルヴィンを再び抱き込もうとしてくる。アルヴィンは、数歩退いて逃げた。
「シリルは巻き込みたくないけど……僕が貴方に付いて行ったら、シリルも付いて来るんだろうな」
「遊びではない。子供を幾人も連れて行くわけにはいかない」
「侮って貰っても困る。シリルは、強いよ。剣でも、槍でも……手綱捌きもね。トーナメントでもあれば、見せてあげられるんだけど」
「…………あるぞ。多分」
 投げ出していた書簡を取り、広げる。

「……皇帝の末子、ジェラールの誕生祝賀への招待状だ。トーナメントも舞踏会も晩餐会もあるな。君達の参加表明をしておこうか?」
 窓から差し込む朝の光はそろそろ確かなものになってきている。十分に文字は読めた。
 討つ、と簡単に言いこそすれど、その為の根回しを欠かしてはいない。リシャールは、皇帝の末息子であるジェラールと歳が同じ事もあり、懇意にしていた。誕生日ともなれば、当然呼ばれるものである。
 目を通し、再び書簡を台へと投げ捨てた。周りの人間はリシャールとジェラールを友人だと見ている。そう見える様に振る舞ってはいるものの、苛立たしい。
 アルヴィンは書簡を手に取って中を見た。
 招喚の文言の他、簡単な祝賀会の予定が書かれている。
「……僕達が皇帝の目に止まるのが、貴方の利になるならね」
「余程自信がある様だな」
「……まあね。シリルは強いけど、未だ若いから咄嗟の判断力では僕に分がある。戦えばまず僕は負けない。貴方とやり合ってみてもいいよ」
「……本当に大した自信だ。一度見せて貰いたいものだな」
「ネージュを使っていいなら尚更ね。……装備を揃えてないけど」
「防具鍛冶を呼んで作らせる。君も戦いたいというなら、君の装備も調えねばなるまい。銀以外で」
「ああ……銀以外で」
 書簡を丸め、落ちていた紐で括り台に戻す。
 しかしリシャールの側には戻らず、アルヴィンは窓辺に寄った。朝の光が眩しい。
 赤茶色の髪が光に透けていた。
 その光景の不思議にリシャールは小さく首を傾げる。伝え聞く伝承では、魔物は陽の光を厭うものの筈だ。
「君は恐れないのだな。吸血鬼は陽の光を恐れるものだと聞いていたが」
「……そういえばそうだな。……怖くなんかないよ。……この金色の光は、嫌いじゃないな」
 アルヴィンはリシャールを振り返った。
 窓から差し込む光は、リシャールにも当たっている。豪奢な髪がきらきらと輝いて眩しい。
 思わず目を細め、息を呑む。
 リシャールの持つ色合いも、その放つ雰囲気も、太陽によく似ている様に思った。
 さりとて、そう言える筈もない。目を逸らす。
 故の分からない不安感を覚えた。
「……やっぱり、あんまり好きじゃないかも。金色は」
「そうか。そうだな……君には金はあまり似合わない。もっと清純な色が似合う。銀が駄目なら……仕方ない。鉄を磨き上げるか」
「十分だ。防具も武器も、鉄が丈夫でいいよ」
「重いぞ」
「苦にはならない。……そろそろ目も覚めた? 葡萄酒が欲しいんだけど」
 まだ起きようとはせず寝台の上で転がるリシャールを上から覗き込む。
 リシャールは手を伸ばし、その頬を包む様に触れた。
「君は少し飲み過ぎではないかな」
「血の代わりだから。教会でもそう言うだろう?」
「私から飲めばいい。体力は戻っている」
「……駄目だ。貴方からは、口付けだけでいい。貴方の血は甘過ぎて……飲み尽くしてしまいそうになる」
「溺れる君を見てみたいものだが」
「見る前に、貴方死ぬよ」
「だろうな。それは未だ困る」
「……未だなんて言うな」
 触れて来る手の方へ顔を向け、その指先に軽く歯を立てる。
 あと僅か力を込めれば、血が滲むだろう。アルヴィンは唇を震わせた。

「私が死ぬ時には、君の手に掛かりたいな」

 その言葉は、何気なく発した筈だった。
 しかし────。

「……アルヴィン?」
 指に触れていた歯から力が失せている。様子を伺うと、目を見開いたまま、アルヴィンは表情を失くしていた。
「……そう深刻に取らないでくれ。ただの希望だ」
 目が何も映していない。リシャールは不安になり、身体を起こしてアルヴィンを抱き寄せた。
「そんな事態は当分来ないよ。心配など無用だ」
「…………リシャール…………」
 微かに震える腕がリシャールの身体に回される。
 何かを恐れている。しかし、それが何なのか、アルヴィン自身にも分かっていない様子だった。
 無論、リシャールに分かる筈もない。ただ、窘める様に背を撫でる。
 力なく抱き返してくる手が弱々しく、リシャールの背を掻いた。
「……貴方は、不用意に死を口にし過ぎる」
「死は常に隣にあるものだ」
「人なんて直ぐに死ぬ。だからこそ……容易く口にするべきじゃない。まして、手に掛かりたいなんて、そんなこと……僕は、貴方なんか背負いたくない」
「そうか。……そうだな。殺した相手の命は負わねばならないが、それを背負うのは……酷く重いことだ」
 労る様にアルヴィンを撫で続ける。
 ぐずるように、アルヴィンはリシャールの胸へ額を押しつけた。
「…………貴方を殺したくない」
「君が辛いなら、私もこの望みは諦めよう」
「……殺したくなかったんだ……」
「……アルヴィン? 私はここにいる」
 ゆっくりと指の背で頬を撫でる。
 アルヴィンは緩く首を振った。
 混乱している様子が見て取れ、リシャールはアルヴィンの頬を両手で包んで目を合わせた。

「どうした? 何か辛いことでも、思い出したか」
「…………分からない。僕の記憶は、完全ではないから」
「長く生きれば、忘れることも多く出てくるだろう」
「……ああ…………そういうことなら、いいんだけど…………」
「違うのか?」
「覚えていたくなくて、忘れたこともある様な気がする」
「成功しているなら、それは君にとって喜ばしいのではないか? 辛いことばかりを覚えていたのでは、いつか破裂してしまう」
 ふわふわとした頭を撫でる。
 望まない相手を殺めてしまったことがあるのだろう。この身で、この時勢を生き抜いていれば、そんなことも起こりうる。
 リシャールも、一度身分を失ってからこの地位に上るまでには、幾人もの人をだまし、また殺めたこともある。アルヴィンを責められる立場にはない。
「ごめん……何言ってるんだ、僕は……」
「私が君の辛い過去を呼び覚ましてしまったのだろう。申し訳なく思う。…………朝食を摂りに行こうか。君は好きな葡萄酒を貯蔵庫から探せばいい」
「うん。……ありがとう」
 手を取る。促す様に引っ張ると、リシャールは微笑んで起き上がった。
 ぐっと伸びをする。

「シリル君もそろそろ起きることだろう。祝賀会の件は、そこで話す。君達を連れて行きたい」
「…………何の作法も知らないよ。僕もシリルも」
「君達を見ていて、特別問題がある様には思えないな。シリル君など、ギュスターヴより品がある様にも思う。簡単な教授でそれなりになるだろう。手放せば、君達が居なくなってしまうなら、当然連れて行くしかないだろう。君達は私の従士だ。いいね」
「宮廷で従士は装飾品の一つだろう? 名のある氏族の子弟でもないし、シリルは綺麗だからともかく、僕なんか……」
「君がいい」
 柔らかな頬に軽く口付け、リシャールは侍女を呼ぶ為呼び鈴に手を伸ばした。
「君は自分が知らないだけで十分に魅力的だ」
「……良く言うよ」
 澄んだ鈴の音を聞きながら、アルヴィンはその間にリシャールの手から逃れ、手早く身支度を調えた。


作 水鏡透瀏

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