食事の後は少々エシェクを楽しみ、何戦してもリシャールが敗北し続けるのを見かねて、寝室に下がることを提案したのはアルヴィンだった。
 リシャールには断る理由など欠片もない。嬉々としてアルヴィンを寝室まで導く。
「君は本当に強いな。私も、これでも君に会うまでは負けなしだったのだがね」
「たまたまでしょう。ノウラとは?」
「したことがないな」
「勿体ない。彼女も、なかなかの名手でしたよ」
 薔薇花弁のコンフィチュールを添えた焼き菓子とともに楽しんだのは、誰かが手土産にで置いていったカルヴァドス酒だ。
 リシャールには少し甘過ぎる取り合わせだったが、アルヴィンはそれなりに気に入った様子だった。
「コンフィ、美味しかったです。残りがあるなら頂けませんか?」
「ああ、用意させておこう」
 アルヴィンの気に入るものなら、何だって用意してやりたい。
 手招きをすると、素直に近寄ってくれた。
 軽く腕を引くと、躊躇いながらもちょこりと膝の上に座ってもくれる。
「もう眠るかね?」
「お祈りをしたら……」
「城内に礼拝堂がある。遺品探しの時に見なかったか?」
「ノウラの遺品のある場所にしか立ち入っていませんから」
「……そうか。行くかい?」
「はい。明日の朝の祈りもありますし、今日は朝も昼も祈っていない」
「案内しよう」
 座ったばかりのアルヴィンを立たせ、手を引く。
 手を繋ぐことは許している。アルヴィンも拒まなかった。

 礼拝堂はリシャールの信仰心の程度を表して、非常に小作りだった。外向きに見える領地内の大きな教会への寄進は並ではない金額だが、見えぬ所は多少掛ける金額を惜しんでいる。
 それでも、金製で宝石を嵌め込んだ十字架と、金の聖母像が置かれているのは、それがいざというときの財になるからだろう。
 微かに手燭の明かりが届くところに、薔薇窓が見えた。
 正面の壇上に掛けられた大きな十字架の脇に、小さな扉がある。
 理由は分からないが心惹かれ、アルヴィンはその方へ近寄る。
「何処へ行く」
 強く腕が引かれた。
 思わぬ強い語気に、リシャールを見上げる。
「ごめんなさい。……あの扉が何だか気になって」
「君が立ち入るところではないよ」
「でも」
「慎み深いのが君の美徳だと思っていたが?」
「…………はい。ごめんなさい」
 蝋燭に揺れる瞳が怖い。
 全ての部屋へ立ち入って構わないと言っていた筈だが、その「全て」には限りがあるのだろう。
 手燭から金の燭台に火を移すと、もう少しはっきりと室内が見えた。
 扉は小さく、リシャールでは身を屈めなくては入れそうにない。
「あの扉の向こうには……貴方が眠って居るんですか……?」
「……何……何だと…………?」
 リシャールの表情が怪訝そうに曇る。
 アルヴィンははっとして俯く。
「いえ……ごめんなさい。何でもないです」
「君は、何を知っているのだ」
「何も知りません」
「私が眠っている、と言ったな」
「……ごめんなさい。そんな気がしただけなんです」
 掴まれた腕を軽く捻り、押し上げる様にして逃れる。
 扉からも離れ、アルヴィンは壇の下に跪いた。
 胸の前で手を組み顔を伏せられては、リシャールも一時黙るしかなかった。

 蝋燭の明かりでくっきりと陰影の刻まれた横顔は、はっとする程大人びて見えた。
 長めの睫が頬の陰影を更なるものにしている。
 壁に映る影が炎と共に揺らめいていた。
 妖しい影だ。
 蝋燭の光の裏に出来る深い影は、形を成して現実に引き出て来そうな心持ちさえした。
「アルヴィン君、そろそろ……」
 アルヴィンはまだ動かない。
 揺らめく影の形が歪む。
「アルヴィン君」
 影の歪んだ部分が翼の様に見え、リシャールは立ち竦んだ。
 影が広がっていく。
 翼が大きく広げられた。
 視界が、黒く、覆われ……。

「リシャール様。お待たせしました」
 我に返る。
 揺らめく蝋燭の炎。
 壁に投影される影の形は、大きくなり、小さくなりしながら揺らいでいる。
 ただ、それだけだった。
 強く息を吐く。幾度か瞬きをする。やはり、光景は変わらなかった。
「どうかしましたか?」
「い、いや…………」
 何の幻覚を見たのか……。
 顔を人撫でして気分を落ち着かせる。
「もう構わないのか」
「はい。大変お待たせして、申し訳ありません」
 頭を下げる様子は、ここに来る前と全く変わらない。
「は……はは……」
 乾いた笑いが口を突いた。
 何を見たというのか。馬鹿馬鹿しい。
 大体ここは礼拝堂だ。主の為の場に、主と聖霊の他何が入り込めるというのだろう。
「寝室へ行く心構えも出来たかな?」
「主の御前で…………」
 アルヴィンは露骨に顔を顰める。
 やはり、何も変わりはない。
 漸くリシャールも復調する。
「愛を主が許さぬ筈はないよ」
 立ち上がったアルヴィンの手を取る。小さく冷たい。
 手を引いて手燭の他の明かりを消す。闇が深くなった。
「戻るぞ。時間が惜しい」
「はい……」
 まだ気になるのだろう。扉を振り返り振り返り、アルヴィンは手を引かれて礼拝堂を後にした。

「せっかく並んで眠れるというのに、着込んだままでは野暮だろう。脱ぎたまえ」
「貴方に肌なんて晒したくないんですけど」
「次第に暑くなっている頃だ。どのみち着ていなくても構わないだろう?」
 アルヴィンの着ている寝間着の胸元に揺れる紐を引く。
 貸し与えたそれは、考えていたのだろう。ひどく解けやすく、紐の一つで簡単に肌蹴てしまう。
 慌てて布を掻き集めながら、アルヴィンはリシャールを睨み付けた。
 リシャールは既に全裸だ。
「おいで」
 手を握って強く引かれる。
 しかし、手を捻り振り解かれてしまう。リシャールはアルヴィンの腕を掴み直した。
 アルヴィンの身体を辛うじて覆っていた布がはらりと床に落ちる。
「眠るのだろう?」
「手を離して下さい」
「厭だ。手を繋いで寝ることは了承しただろう? また約束を違えるのか? これ以上は、私も我慢がならないぞ」
 掴まれた腕が熱い。
 歪めた顔の双眸から、涙が溢れ出した。
「…………そこまで厭か………………」
 傷ついたリシャールの声に、アルヴィンは強く首を横に振る。
「違う…………違うんです…………」
「違う?……それは、私に都合良く受け取ってもいいのか?」
 力強く寝台の上へ引き倒される。
 簡単に圧し掛かられ、アルヴィンは強く目を閉じる。
「…………やめて下さい…………」
「厭ではないのだろう? 今君がそう言った」
「…………いや…………厭、です。だけど……貴方が、厭なんじゃない…………」
「何を拒んでいる?」
 涙の伝う頬に舌を這わせる。
「君は本当に愛らしい。私はただ君を愛したいだけだ。君は、ただ私に愛されてくれればそれでいい。愛は全てのものの前に等しく美しいものだ」
 リシャールの手を振り払い、腕を顔の前で交差し表情を全て覆ってしまう。
 仕方なくリシャールは耳元へと顔を寄せた。

「私を嫌っていないのなら、約束通り、手を繋いで眠って貰いたいな」
 首を振って拒絶される。
「何もしないよ。まあ……眠っている間に君を抱き締めてしまうかも知れないが。君は小柄で可愛らしいから仕方のないことだ」
 ただ首を振るばかりだ。
 リシャールは困ってアルヴィンの片手を、両の手で包み込む。
「何を拒んでいるのか言ってくれなくては分からないよ」
「……ごめんなさい……」
「謝らなくていい。ただ、教えて欲しいだけだ。朝日が昇れば、君はここから去ってしまう。その前に……君を私の中に刻み込んでくれないか」
「……ごめんなさい…………出来ません……」
「謝罪などいらない」
「ごめんなさい……ごめんなさい………………」
「何を謝る」
 ただしゃくり上げながら謝罪を繰り返すアルヴィンが愛しくてならない。
 何に怯え、何を謝ろうというのか。
 理解は出来なかったが、ただ心が切迫していることは分かる。
 可哀想に思う。幼い胸に、何を溜め込んでいるというのか。それを考えると、切ない想いが込み上げる。
「…………貴方の望む様にはなれない……」
「私は、ありのままの君を望んでいる。ただ、それだけだ」
 優しい声と言葉に、アルヴィンは益々泣きじゃくる。
「君に泣かれては、私も泣きたくなるな……」
 くるくると巻いている髪を指に絡め、軽く撫でる。うなじを擽ると、条件反射で身体が竦められた。
 手を繋ぐだけだと言った。しかし、抱き寄せて慰めたい。
「……許してくれ。君に触れたい」
 低く囁く。
 アルヴィンの腕が、するりと解けてリシャールの肩へ伸ばされた。
「………………リシャール様…………」
 ぎゅっと縋り付かれる。
 リシャールは強く抱き返した。
 愛おしい。
「眠りたまえ。こうしていてあげるから」
「…………リシャール様……ぁ…………」
 唇を寄せ、涙を吸い取る。
「……随分不安定になっている様だな。大丈夫だよ。心配はいらない。約束通り、ただ眠るだけだ。安心して眠りたまえ。私は、君の眠りを守ってあげよう」
 アルヴィンはぐずる様に顔を擦り寄せた。
「…………ごめんなさい……」
「もういいのだよ。……もう……」
 ふわふわとした髪を優しく撫でる。
「何も考えずに眠るといい。私が、君を守る。……明日は、ノウラの眠る沼へ行ってからここを出るのだろう? よく眠りたまえ」
 リシャールに縋る手は頼りなく、けれど力だけは強かった。
 拒みながらもこうして縋る。その矛盾が、アルヴィンの混乱を表している様だ。
 古い子守歌を囁く。
 アルヴィンはリシャールに頭を預け、目を閉じた。
 暫くの間、腕の力は緩まなかった。

 眠りに落ち、漸くに腕の力が緩んだのを見て、リシャールはアルヴィンをそっと寝台に横たえた。
 夜半は過ぎただろう。リシャールにもかなり濃厚な睡魔が訪れ始めている。
 だが、まだ寝るには少々早かった。
 初めからアルヴィンを帰す気などない。

 下男を扉の外にまで呼びつける。
 昼に、リシャールから指示を受けていた男だ。
「彼はどうだった」
「はい……特に変わった様子はありませんでした」
「気付かれたのであるまいな」
「その様な素振りはありませんでしたが……」
「……澱みなく探し当てていたか?」
「はい。殆ど足を止める事もありませんでした。その事が、最も変わった様子です」
「分かった。……下がっていい」
「はい。失礼致します」
 指示を受けて再び男は去る。
 ただの下男にしては、身のこなしに隙がなかった。

 扉を閉めて鍵を掛け、欠伸を噛み殺しながら着実に用意を調える。
 天蓋の枠に空いた穴へ鉄の棒を差し込み固定していく。横向きにも掛け、あれよあれよという間に寝台を檻に変えてしまった。
 一部だけ間を空け、そこには簡単な扉を取り付ける。
 こんな仕掛けをする時には下男に手伝わせるのが常だが、今はそういうわけにも行かない。眠るアルヴィンの姿を、決して余人には見せたくなかった。
 起きればまた、本来はどちらかと言えば柔和な目元をきりきりと吊り上げて睨み付けてくれるのだろう。
 滾る様な、それでいて凍てつく様な、激しい瞳で睨まれると背筋に戦慄が走る。
 今すぐにでも見てみたくなるが、泣き疲れて眠る子を無理に起こす事は多少気が引けた。

 片方の足首に銀製の、傷つけない様に角を真綿と絹布で包んだ枷を填める。繋がる鎖は扉から遠い方の寝台の足に繋いだ。
 これで逃げられはしないだろう。
 アルヴィンは起きなかった。
 リシャール自身も身を屈め檻に入る。
 起きてもアルヴィンには届かない床に檻の鍵を置く。
「おやすみ、アルヴィン君……」
 髪に、額と頬に、少し低めの鼻に、そして唇に。
 優しく軽い口付けを施し、アルヴィンを抱き込んでリシャールも眠りに就いた。
 すっぽりと腕に入る身体が愛らしく、愛おしい。
 顔を埋めたアルヴィンの髪からは薔薇が香っていた。
 もういい時間だ。リシャールの意識は素直に、温かい闇の中へ落ちていった。


作 水鏡透瀏

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