ぐったりと、それでも何とかアルヴィンが目を覚ますと、視界と身体が揺れていた。
 緩慢に顔を上げると後ろから抱き寄せられる。
「起きたかい?」
「…………これは……」
「まだ遠い。休んでいて構わないよ」
 曇った窓外へ視線を向けると、木々が茂っているのが分かった。
 それなりの速度で進んでいる。
 馬車の中の様だった。
「済まない。君がこれ程弱いとは思わなかった。私の半分の歳にもならないのに」
「僕じゃなくても……堪えられないと思いますけど」
「ふむ……確かに、これ程一人に続けて挑みかかったことはないな。ノウラにも…………だから、君は特別だと言っている」
「あの、暑いんですけど」
「ああ! 済まない」
 腕が緩んだ隙に、許される限りぎりぎりまで離れる。
 キッと睨むと、リシャールは嬉しげに微笑んだ。

「君が中々目を覚まさなかったのでね。勝手に運んでいる」
「ええ…………無理をなさるから」
 違和感を感じて手首に触れる。ちりちりとした痛みが走った。
 目を遣ると、酷く擦り切れて血が滲んでいる。
「……何……これ……」
「覚えていないのか? 君があんまり厭がるから、私もつい本気になってしまった」
 手が取られる。
「っ」
 傷に唇が押し当てられる。
 アルヴィンは痛みとそれ以外の何かに顔を歪めた。
 だが逃れはしない。
 様子を見て、リシャールはちろりと舌先で傷を舐めた。
「覚えてないです」
「昨夜より、諦めが悪かったぞ。楽しかったが……何せ、時間がなかった。許してくれ」
「何を許せって」
 厭な気がして、アルヴィンは顔を曇らせる。
「頭痛がしたりなど、していないか?」
「特には…………まだ少し、呆としますけど……」
「それは良かった」
 リシャールはにやりと笑った。
「僕に、何かしましたか」
「問題がない様なら構わないだろう?」
 答えは、肯定だ。
 アルヴィンは皺がそのまま残りそうな程に眉を寄せた。
「何をなさったんです」
「少しばかり、嗅ぎ薬をね。私も良かったが、君は尚のこと良さそうにしていた。……後で記憶が残らないのでは面白くないな」
 絶句する。
 自分がどんな痴態を見せたものか、全く記憶にない。
 壁に追い詰められ、手首を容易く戒められたのは覚えている。
 足を踏んでもリシャールは動じず、それから……それから。
 甘い口づけを拒みきれなかった。
 顔や首筋に繰り返され、そして、甘く、強い香りが。
 薔薇に似た、甘く強い芳香がした。
 アルヴィンの記憶はそこから途絶えがちになっている。
 性急に求められ、差し貫かれた時の衝撃などは朧気にも記憶にあるが、他はどうにも曖昧なものでしかない。

 アルヴィンは青褪め、唇を震わせた。
 怒りに他ならない。
「あんたって人は、何を考えてるんだ!?」
 最早敬語を使う余地もない。握り締めた拳が震えている。
「何、とは……勿論、君のことを考えているに決まっているだろう?」
「何をどう考えたらこんな事になるって言うんだ!!」
「君をどうしたらよりよく味わう事が出来るか、だとか、君のいい表情を引き出したいとか、私だって何も考えていないわけではないよ」
「それは、あんたが楽しみたいだけだろう!?」
 憤怒の表情も顔色は冴えない。
 狭い馬車の中では、リシャールから逃れる術がなかった。
「君は楽しんでいたよ」
「記憶もなくて楽しいものか!」
「…………ほぅ」
 にやり、とした笑みに、アルヴィンは自分の失言を知る。
 青褪めを通り越して、頬が雪の様に白くなる。
「昨夜から続いて、意識のない間に私が楽しんだのが面白くないのか。それは、済まなかった」
 逃れる仕草を見せるアルヴィンの腕を捉え、簡単に引き寄せる。
 二人がけの馬車は狭い。
 リシャールならもう少しゆとりのある乗り物も用意できた筈だが、そうする気がなかったのは瞭然だった。

「昂じても変わらず血の気が薄いな……。最中にも、あまり肌を染めてくれないから気になっているのだよ」
 柔らかな頬を男の骨張った手の甲で撫でる。
 アルヴィンは怒りが過ぎて今にも泣き出しそうに顔を歪める。
「この肌の冷たさも、これからの季節には心地よいのだがね」
 リシャールの手はアルヴィンの二の腕を回っている。
 掴まれた腕、触れられた頬。アルヴィンは唇を強く噛んでリシャールを睨む。
「そう怖い顔をしないでくれ。君に悪い様にはしないから」
「もう十分に悪い! 下ろしてくれ」
 肘を使って扉の鍵を外す。
 さっと強い風が差し込んだ。反動で扉がばたばたとうるさい音を立てる。
 しかしリシャールは動じずアルヴィンから手を離しはしない。
「ノウラの遺品はどうするね」
「後で送ってくれればいい」
「君の居所(きょしょ)が分かるのか。それはいい」
 腕を強く引き、アルヴィンを車内深くへと引き込む。
 身を乗り出して扉を閉め直した。
「危ないことをする」
「あんたの側程の危険はない」
「言ってくれるな……」
 警戒心剥き出しの様はやはり猫だ。
 リシャールは苦笑して、その髪を撫でた。
「君は仔猫の様だ」
 思ったままを口にする。
 きりきりと吊り上がる眉が見ていて面白い。毛を逆立てる猫そのものだ。

「触れているだけだ、ここでは。それくらい許してくれてもいいだろう?」
「厭だと言っても逃げられない」
「ああ、そうだな」
 ぱっと腕を放す。
 一瞬掴まれていたところが赤くなったが、直ぐに色味は失せた。
「可愛げのない口の利き方が可愛い……不思議なものだ」
「…………失礼を致しました」
 言葉遣いを改めると共に、表情がすっと冷気を帯びる。
 しかし、もう遅かった。
 リシャールにはその改め方さえ愛らしく思える。
 にんまりとするリシャールを一瞥して、アルヴィンは体勢を立て直して顔を背けた。
 窓の外を眺める。
 横顔が完全に拒絶していた。
 リシャールは面白くなかったが、これ以上機嫌を損ねたくもない。
 軽く肩を竦め、様子を伺いながらも今のところは諦めることにした。

 馬車は森を抜け、山道に入る。
 アルヴィンが座っている側は切り立った崖の岩肌が見えるばかりで、景色が面白くない。
 リシャールは軽く腕を引いた。
「っ、や」
 可哀想になる程驚いて、アルヴィンは咄嗟にリシャールの手を振り払う。
「そこまで警戒されては傷つくな……」
「…………何か用ですか」
「そちらでは景色が面白くないだろう。私の膝の上においで。こちらなら、素晴らしいものが見られる」
「結構です」
 にべもない。
 しかし、リシャールはめげなかった。
「そう言わず。何もしないよ。君には、私の領地の美しい事を見て貰いたいのだ」
 穏やかに微笑むさまに、アルヴィンは恐る恐るリシャールの向こうの窓を見る。
「ああ…………」
 目を細める。
 片側は岩肌でも、もう片側の視界は果てしなく開けていた。
 森を抜ける間に、緩やかな勾配になっていたのだろう。もう随分高いところまで来ている様だ。
 ただ、空が見えた。
「おいで。もっとよく見える」
「……ええ……でも……」
「何もしないと言っている。少しは信じて貰いたいな」
「信じたくても……そうできなくしたのは貴方でしょう」
「申し訳なく思っているよ」
 殊勝そうな表情に多少絆され、膝には座らないもののリシャールの方へと身を乗り出す。
 リシャールの膝に手を付き、窓に顔を寄せる。
 髪が、リシャールの鼻先に触れていた。
 いい香りがする。
 リシャール思わず顔を埋める様に擦り寄せた。

「な、っ」
 アルヴィンはリシャールを感じた瞬間に直ぐさま身を引く。
「舌の根も乾かないうちに!」
「いい香りがする……不思議な香りだ。変わった香水を付けているな」
「香水なんて付けてません」
「これが……体臭だというのか?」
 アルヴィンの首筋へと顔を寄せ、香りを嗅ぐ。
 身を引いても逃れられない。ただ身を竦ませるだけだった。
「ノウラに送ったことがある。東からの交易品でな、君に似た香りの……そうか、薔薇の香りに似ているのだな」
「……普段家で飲むものが薔薇茶だからかも知れませんね」
「身体から香るものなら、私も飲んでみたいものだ。これ程の香気を纏うなら、香水がいらなくなる」
 それ以上の意は感ぜられず、アルヴィンは僅かに表情を和らげた。
「貴方の領地の中に白い魔女が居るなら、作り方を知っている筈ですよ」
「私自身は気になどしないが、魔女と聞くと余りよい顔をしない者も多いからな」
「僕も魔女だと言ったらどうします」
「驚きはしないな。……吹聴もしないよ。君をノウラと同じ目に遭わせはしない」
 微笑は微動だにしない。
 アルヴィンの言葉を冗談だと受け取っているのだろう。
「さぁ、もう邪魔はしないよ」
 アルヴィンの腕を引く。
「失礼します」
 再びリシャールの前を横切る形で身を乗り出す。

「わぁ……」
 美しい土地だった。
 昨日より高い位置まで来ている為か、随分遠くまで見渡せる。
 天気がよいことも幸いしているのだろう。既に大聖堂は遠くの街のものだった。
 眼下直ぐに立ち並ぶ樅の頭の向こうには、長閑で広大な景色が広がっている。
 小さな村が点在しているのも見て取れた。
「昨日よりよく見えるものだろう?」
「ええ……」
「だが、まだ私の領地の限りではないのだよ」
「そうでしょうね」
 人の目で見える範囲には限りがある。
「向こうの微かに見える山を越えてもまだ私の土地だ。四方全て……な」
 丁度耳元で囁く様になる。
 リシャールの声音には自慢や誇りより何処か苦々しい響きがあり、その低さと艶にアルヴィンは微か、背を震わせた。
「貴方より多くの土地を持つのは、教会の他にないかも知れませんね」
「王を凌ぎ、皇帝も凌ぐ……無意味なことだ」
 耳から声が離れる。リシャールもまた、窓の向こうを見詰めていた。
「無意味……ですか?」
「私とて、その事ばかりに腐心しているわけではないよ」
 意外に思えてリシャールを振り返ると、柔らかな苦笑を返される。
 陰に苦渋を感じ、アルヴィン不思議そうにリシャールを見詰めた。
「領地を広げること、恋愛、教会への寄進と見返り……その他にも、私が考えねばならぬ事はたくさんある。それだけのことだ」
 アルヴィンは席に座り直し、行儀良く手を膝の上に並べて置いた。
 リシャールの真面目な様子をまじまじと伺う。
 アルヴィンがリシャールに全てを見せていないのと同じ様に、リシャールとてもアルヴィンに全てを晒しているわけではない。
 小さく安堵の吐息を洩らした。
 隠し事は、少しあるくらいの方が気が楽だ。
 裏が何もないというのは、表もがら空きか暗闇が過ぎて見えないかで、そのどちらも付き合うには気疲れが過ぎる。

「後どれくらいで着きますか」
「ん……? そうだな……日が落ちる頃には着くよ」
 自分も話せないことが多いなら言わない、聞かない、が鉄則だ。話題を変える。
 陽はもう大分傾いていた。街を出たのが午後を回っていたことを考えればそんなものだろう。
「何故……暮らす為のお城をこんな山の上に……?」
「そうだな……私もたまには一人になりたいと思うこともある。華美な宮廷や街から離れ、思索に耽りたい時もな。この山の上ならそう訪ねてくる者もないし、砦として山の向こうへの睨みも効く。暮らすに少々不便がないでもないが、これで中々利点はあるものなのだよ」
「貴方は宮廷の申し子なのだと思っていました」
「その様には振る舞っている。そう見えていたのなら、私の目論見は果たされていることになるな」
 笑みが何処か痛々しい。
「貴方は……」
「これ以上を聞きたいなら君も私にもっと打ち明けてくれなければね」
「……はい」
 笑みを浮かべたままながら牽制されアルヴィンは開きかけていた口を噤んだ。

「……君、この国の君主を知っているかね?」
 暫くの沈黙が包んでいた。それを生んだのがリシャールなら、破ったのもリシャールだった。アルヴィンは小さく首を傾けながら答える。
「皇帝のことですか? 名前くらいは……」
「ディートリッシュ1世。彼は、元は皇族の血を遠く引くに過ぎない。先の皇帝の遺志で帝位に就いたとされる。先帝の子は二人いたというのに……今はどうしているのだろうね。それを思えばあまり良い顔をしたいとも思わないのだよ。個人的にはあまり……陛下の事が好きになれないものでね」
「リシャール……様……?」
 一瞬燃え立つ様な気配を感じ、アルヴィンは注意深くリシャールの表情を窺う。
 氷青色の瞳は感情が全て打ち消されたかの様な冷気が漂っている。
 炎気とは正反対の……しかし、冷たい炎とでも称せられる様な色だ。
「僕は……あまり、この国の情勢には詳しくありません。宜しければ、お話して下さいませんか?」
「すまない。君に話して聞かせる程の事はないよ。君とはもっと……神や愛や死について語りたいものだな」
「死を想え……ですか……」
 今度は、アルヴィンの表情に苦みが走る番だった。
 その顔にリシャールは少し瞳を和らげた。
「考えたくはないだろうが……ノウラの事を知ったばかりではな。しかし……いずれその時は来るのだ。疫病でも流行れば、それこそ今日明日の事かも知れない。……そういえば、あの街でも悪疫の兆候があると聞いたぞ。本当なら大変な事だ」
「……それ……大丈夫ではないかと思います。思う……だけですけど」
 倒れたのは若く健康な者だけだと聞く。幼年の者、老年の者、かねてより病の者には何ら起こっていない。その様な疫病など聞いた事がない。
「誰が死に至ったという報告までは受けていないな」
「僕も聞いていません。あの街には、一週間近くいましたけど」
「なら問題ないだろう。旅人の耳に入る程ならもっと広まっている筈だ。……しかしね、その覚悟は常にあってしかるべきものなのだ。君の様に若い子には、中々実感のない事だろうが」
「いいえ……」
 アルヴィン半眼に近い様な表情になってリシャールの話を聞いている。
「肉体など直ぐに滅び去る。その時に私は己を悔いたくないのだ」
「その為に何をなさろうというのです」
「本能に背かぬ事だよ」
 アルヴィンは嫌悪感に眉を顰めた。
「悔いぬ為にはただ教えに忠実に生きるのみ」
「君はどうなのだ。昨夜君は私を受け入れた。自ら求めもした。何故最後まで抗わなかった? 君が自傷する程にでも抵抗したなら止めもしたのに」
「……貴方がそれを求めたからです」
「君は私を欠片も求めはしなかったのか?」
 膝を詰め、アルヴィンの肩に手を回す。
 気の毒になる程に震え、アルヴィンは身体を竦ませた。
「求めていなかったのかね?」
「っ、ぁ、や」
 耳を軽く噛まれ、アルヴィンはリシャールを睨もうと振り向いた。
 その僅かな隙に顎を捉えられる。
 唇を掠め取られ、アルヴィンは顔を青褪めさせた。
「昨夜は君から口づけをくれた。あれは……君が私を求めてくれたからでなかったのか?」
 見る間に幼い顔が強張る。
 強くリシャールの手を振り払うと、アルヴィンは椅子の上に膝を抱え上げ、顔を完全に埋めてしまった。
 薄い肩が小刻みに震えている。
 リシャールは軽く肩を竦め、アルヴィンから手を離して自分の髪を撫でつけた。
 泣かれると弱い。
 仕方なくそのままにする事にした。


作 水鏡透瀏

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