街まで戻り、まず立ち寄ったのは大聖堂だった。
 リシャールのエスコートで中に入る。
 今日は天気がよい御陰か、ステンドグラスを通した陽の光が鮮やかに堂内を染め上げている。
「アルヴィン君、上を見てみたまえ」
 最奥の祭壇前で跪いたアルヴィンの傍らに立ち、そっと肩に手を置いて促す。
 祭壇の背後にある壁の高い所に、この聖堂内で最も大きく、最も美しいステンドグラスが嵌め込まれている。それは乳飲み子の救世主を抱いて微笑を浮かべる聖母の姿だった。
 しかし、何処か一般的な物とは異なっている。
「これ……ノウラ……?」
 呟くアルヴィンの肩に置かれた手に力が籠もる。思わずアルヴィンはリシャールを仰ぎ見た。リシャールはアルヴィンを見下ろして、穏やかすぎる微笑を浮かべた。
「……ああ……せめて、と思ってな……」
 やや濃い色の肌。緑色の瞳。そして漆黒の髪……。面立ちも何処か東洋風で神秘的だ。
「ノウラはここに眠っている……そうは受け取って貰えまいか」
「……………まだ、少し…………待って下さい…………」
 やっとの思いでそれだけを呟き、アルヴィンは項垂れた。手を胸の前で組み、祈りを捧げる。
「……主よ…………」
 鳶色の双眸から溢れる涙が頬を伝い、床を濡らす。
 リシャールは祈りを妨げぬよう、少し離れたところの長椅子に座って、アルヴィンを眺めた。
 ノウラを引き取りに来たにしては幼すぎる。生きていれば十九歳になっていた筈の少女だ。アルヴィンはずっと幼く思える。
 親族の様なものだといっていた。弟か許嫁か……それにしては似ても居ないし許嫁を持つ程の生まれ育ちにも見えない。
 だが、この哀しみ様は、彼女を知る者でしか表す事の出来ないものだろう。それは、肌で感じる事が出来た。
 初めてだった。
 彼女を厭わず、彼女に対しての好意やその他、正の方向へと振れる心を語れる相手に出会ったのは。
 それだけの事で、この少年を手放したくないとさえ思った。
 五年の月日は、それでも、そこまで人を変えるものではない様だった。
 涙に濡れる目元は紅く染まっている。唇も紅い。しかし頬は透ける様に白く、この薄暗い室内では青みを帯びてさえ見える。
 美貌とまでは言えないものの、小作りに整った顔立ちは愛くるしいの一言に尽きた。身体を包み込む黒の外套は、アルヴィンを余計小柄に、儚く見せている。
 そういった外見でしか、今のところこの少年を知る手段がない事を歯痒く思う。
 もっと深く知りたい。
 そう思える事がリシャールにとっては多少なりとも驚きだった。
 ノウラが死んで以来、特定の人間に興味をそそられる事はなかった。誰と付き合おうとも表面上のものでしかなかった。それが。
 五年引きずった想いというものは、やはりそれだけの深さと重みを持っているものなのだろう。どれだけ謎に秘められていようとも、アルヴィンはまたとない存在だと思えた。

「ありがとうございます」
 アルヴィンは涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
「彼女は……ここに眠っているのですね。…………ここにいて貴方を見守っている。そんな感じがします……」
「そう言って貰えると助かる」
「ここまで彼女を愛してくださって……ありがとうございます」
「なに、人の心はなるようにしかならない。全ては主のお導きだ。そう……君に出会えた事も」
 リシャールも立ち上がり、アルヴィンに歩み寄る。そして頬を包み込んだ。涙の跡を親指で軽く辿る。
「いつでも自由に立ち入れるよう、司祭に申し渡しておこう。気兼ねなく参ってやって欲しい」
「お気遣いいただいてありがとうございます」
 ほっとした様な笑みを滲ませる。その表情は未だ幼い。
「次は私の館へ……。今日はこの街の館に滞在し、明日は君を我が城へ招待しよう。今から行くのでは、遅くなりすぎるだろうからな」
「はい……」
 再びエスコートされながら、何度となくステンドグラスを振り返る。
 描かれたノウラは、いつまでも悠然とした微笑を湛えていた。

「お帰りなさいませ、リシャール様」
 扉の両脇にずらりと使用人達が並び、リシャールを迎える。アルヴィンは気後れしてリシャールの外套の陰に隠れた。
「この子の身体を拭いて、着替えを用意してやってくれ。それと、仕立屋だ。呼んでくれ」
 アルヴィンの様子に苦笑しながら、そっとその背を押す。
「はい。しかしリシャール様、拾いものも大概になさいませんと」
「分かっている。この子は特別だ」
 姿勢の良い、金茶の髪の女が押し出されたアルヴィンの身体を引き取る。
「明日この子を連れて城に戻る。その準備も頼む」
「了解いたしました。……少年、こちらへ」
「は、はい……」
 思わずリシャールを振り返る。
「心配はいらない。彼女は優秀な私の側近だ」
「はい……」
 不安げな様子は消えないが、それでも促されるまま女について屋敷の中へと入った

 リシャールとは別室に通されたアルヴィンは、湯に浸した布で綺麗に身体を拭われ、どう用意された物か、上等な衣類を出された。
 何人かの女中にてきぱきと身なりを整えられては、抗う術もなかった。
「閣下がお待ちでございます」
 丹念に髪に櫛を通され、そしてすぐ、息を吐く間もなく更に別の部屋へと導かれる。
 そこは日当たりのよいテラスだった。
 石膏で出来た美しい彫刻を施された柵に、淡い芳香を放つ小薔薇が絡み付いている。
 同じく石膏のチェアとテーブルのセットがそのテラスのほぼ中央に設えられており、そこにリシャールが座っていた。
「おお。身綺麗にして貰ったかな?」
「……はい。あの」
「やはり少し大きいか。すまんな。君が来る事は予測不可能だったのでね。私の昔の物が残っていてよかった」
「これ……閣下の?」
 半分程しか袖口から覗いていない手で胸の当たりに触れる。
 リシャールはいとおしそうに微笑んだ。
「他人行儀な。リシャールでよいよ」
「リシャール……様……?」
「天気がよいから、ここで食事をしよう。君の知るノウラの話も聞きたいしな」
 招き寄せ、自分の向かいにアルヴィンを座らせる。
「朝食も食べていなかったのだろう?」
「………………ええ…………まぁ……」
 目の前のテーブルに食事が運ばれてくる。
 子豚に詰め物をして焼き上げたものとパン。それが切り分けられる。
「食べたまえ」
「はい……」
 そうは言われても、アルヴィンはなかなか手を付けない。
「腹は減っていないのかね?」
「ぁ……いいえ……」
 パンを千切り、豚肉と詰められていたものを乗せて漸く口に運ぶ。
 開ける口も小さい。
 愛らしいものだと、リシャールは一人悦に入っていた。

「君は、どの様にしてノウラの死を知ったのだね?」
 リシャールも同じ様にして腹を満たしながら尋ねる。
 アルヴィンは少し俯く様にして言葉を探していた。
「言えない、か?」
「いいえ…………手紙を、受け取りました。あの子から……なかなか、僕の手元まで届いてくれなかったから、こんなに遅くなってしまって……」
「手紙?……君は、文字が読めるのか? ノウラが何故か文字の読み書きを出来た事は知っていたが……」
「なんとか。……ノウラに文字を教えたのは、僕ですし」
「君が?」
 訝しげなリシャールの聞き返しに、アルヴィンははっとして口を噤んだ。怯える様に視線を床に彷徨わせる。
「何でも……ないです。……あの子から手紙を貰って、ここに来ました。自分は、もう死ぬだろうから、って……最期に…………あの子には、僕達しか身よりはありませんし、貴方が、ちゃんと埋葬できるとも限らないから……だから、あの子の遺体を引き取って、来るべき審判の時まで……眠らせてあげたかったのに……」
 パンを持つ手が震えている。
「手紙に……私の事も書かれていたのだな?」
 こくりと頷いて応える。
「……何と」
「素敵な方だと。……あの子は、貴方を愛していました。だから…………僕を呼ばなかった。僕も、彼女を救えなかった」
「うむ……」
 大口でパンを口に入れる。

 重苦しい沈黙が流れる。
 アルヴィンはすっかり食べる手を止めてしまったし、リシャールはリシャールで、自棄の様に口に食べ物を詰め込んでは、鉛の杯に入った香草入り葡萄酒で流し込んでいる。
 アルヴィンはとうとう手にしていたパンを置き、両手で杯を持って口を付けた。
 血にも似た味わいが口に広がる。
「蜜酒の方が口にあったかもしれんが」
「いいえ…………」
「ノウラも……好きだったな」
「ええ。…………でも、本当は、蜜酒の方が好きな子でした」
「そうか…………。君も、ノウラも、そう家柄がよいとも思えんし、男女の事があるから修道会育ちでもなさそうだし……よかったら話して貰えまいか? 君達はどの様な関係で、何故読み書きが出来る? 学べる様な場にあったのか?」
「…………ごめんなさい……」
 杯を置いて、アルヴィンは俯いた。
「答えられない、か。……まあいい。では質問を変えよう。君を待っている子、というのは?」
「……僕の弟の様なものです」
 緊張したまま答える。リシャールに対する警戒心で一杯だった。
「ここに、呼べるか?」
「…………何故です?」
「君を帰したくない。君を私の側に置くためには、その子も呼ばねば、君が納得しないだろう?」
 アルヴィンは大きな目を更にまん丸く見開いてリシャールを見詰めた。
「私の従士になりたまえ。その弟分込みでも構わん」
「そんな……無理です」
「学のある子が欲しいと思っていたところだ」
「無理です。……僕、帰ります」
 慌てて立ち上がったもので、椅子を倒す。
「ゃ……離してください!」
 立ち上がった瞬間に、リシャールの手が伸びてアルヴィンの腕を掴んでいた。肘に近い辺りだというのに、十分にリシャールの手が回っている。
「君を帰したくない、と言っただろう? それに、君だってまだ、ノウラの遺品も確かめていない。帰れるかな?」
 にやりと笑ったリシャールの表情に、アルヴィンは絶望感さえ覚えて立ち尽くした。

「まあ、落ち着いて座りたまえ。聞きたい事はまだ沢山ある」
 手首を掴む力が有無を言わせない。
 アルヴィンは渋々椅子を起こし、リシャールの向かいに座り直した。
 漸く手を離す。かなり強く握っていた為痕が残る事を懸念していたが、そこは白く頼りないままだった。
「君、年は?」
「…………分かりません」
「何故?」
「…………理由を問われても…………誰に尋ねる事もできませんし」
「教会に記録があるだろう」
「………………もう、ありません」
 アルヴィンは決してリシャールと視線を合わせようとはしなかった。
「……君は、どう多く見ても十五、六にしか見えない。その程度なら、記録がない筈がなかろう?」
 自分の失言に気付き、アルヴィンは唇と肩を震わせた。答える言葉が見付からなかった。
「……やれやれ。また答えられないのか。……いい。では、君は、どうやって文字を覚えた? そんなによい生まれにも見えないし、教会育ちでもない様に見受けられるが」
「……自分で勉強しました。難しかったけど……どうしても、自分で聖書を読みたかったから……」
「一朝一夕で学べるものではないが……君は敬虔な教徒なのだな」
「時間は、たくさんありましたから。………………お食事、ありがとうございました。……あの、お城に上がるまで、一人にしてください…………」
 アルヴィンはリシャールに対してすっかり怯えている様で顔も上げず、消え入る様にそれだけを告げた。
 リシャールとしても、手放したくないとは言えアルヴィンを怯えさせるのは本意ではない。
 まあ、まだ時間はあるだろう。城に入ったら、それこそ出さない手は幾らでもある。

 リシャールはにっこりと微笑んで、アルヴィンの杯に少しばかり酒をつぎ足した。
「分かった。まだこの街に着いて経たぬと言っていたのに、無理をさせてすまない。今日はゆっくりと休みたまえ。君の休むベッドには、新しい干し草を入れさせよう。もう少しだけ、ここで待っていたまえ」
「ありがとうございます……」
 勧められては口を付けるしかない。アルヴィンはもう一度だけ、微かに杯に唇を付けた。
「ノウラは……君にとって、どんな存在なのだね?」
「…………とてもいとおしい……僕の分身です……」
 強い酒を飲んでも顔色一つ変えず、アルヴィンはそう答えた。
「私は、君とは仲良くなれそうな気がするのだが。君はどう思うね?」
「………………ノウラを通じて?」
「今のところはそうだな」
「………………仲良く……なれればいいですね」
 アルヴィンは明らかに社交辞令だと分かる様子で呟くようにそれだけを告げた。表情は完全に凍り付いている。
「君は笑っている顔が一番愛らしいな」
「……みだりに笑うことは主の御意志に反します」
「君は修道士か?」
「いいえ。僕は修道会には入れない。…………ですが、主を信じる者であることに変わりはありません」
 一瞬、アルヴィンの表情が歪む。それを見逃すリシャールではなかった。
「不愉快そうな顔をするのも、主に反する。主を信ずる者だと言いながら、何故その瞬間に顔を曇らせる。偽りもまた、主の許すところではない」

「…………貴方のお口から、主の御意志を聞こうとは」
 アルヴィンはほんの僅か、苦笑に口元を歪ませた。しかし、それ以上には表情を変えず、唇と喉を葡萄酒で湿らせる。
「僕は主を信じています。他に何を信じればいいんですか? 何を頼ればいいんですか? 僕には他に、何もない」
 杯に残った酒の面が震える。軸を持ったアルヴィンの手が震えているのに相違なかった。
「私では……役者不足だろうか」
 食い下がるリシャールを、アルヴィンは冷たく一瞥した。口角は上がっているが、決して笑ってはいない。その視線だけでも射殺されそうな程の冷気すら感じる。
 リシャールは戦慄を覚えた。
 少年のする瞳ではない。
「…………主は絶対に僕達を裏切らない。人は、必ず僕達を裏切る……」
 声は何処までも低かった。
 しかしそれは怒りではなく、悲しみに満ちている。
 気を取り直し、アルヴィンを見詰めた。
「絶対と言えるのか? 主に祈っても、叶わないことの方が多い」
 リシャールの手が、未だ杯の軸を握っているアルヴィンの手に重なる。
「主とは心の内のもの。己で己を欺かない限り、必ず裏切ることはない。俗の欲望は主が叶えるべきものではありません。主の存在を思い違えてはいけない」
 軽くリシャールの手を払う。
「貴方はもっとよく主の教えを知るべきです。学がおありになるのに勿体ない。礼拝にはお出でにならないのですか?」
「偶には参加するが」
「閣下程の財をお持ちなら、その内に聖書の写本などもあるのではないですか?」
「リシャールと呼べと言ったろう。確かに、写本は書庫にあるが」
「お学び下さい」
 言葉は、いかにも聖職者が言いそうな盲信的なものだったが、アルヴィンの様子はそればかりではなかった。
 独力で、聖書を読む為に語学を学んだ程だ。それは敬虔な信徒ではあるのだろう。その上先程の台詞からすれば、アルヴィンがアルヴィンとして立つ為の拠り所にすらなっている。
 しかし、本当に盲信者ならば学べとは言わずに得々と語ってくれるだろう。
「君は……賢いな」
「……いいえ……」
「私も心を動かされる程の熱弁だったぞ」
「……貴方がお聞き下さるような言葉を……よく存じ上げている様な気が致しましたから……」
「ノウラの手紙にそこまで書いてあったのか?」
「いいえ…………」
 アルヴィンは俯き、杯から手を離した。
 そしておもむろに椅子から立ち上がり、バルコニーの手すりに寄りかかって庭や、その遠くの山々を眺め始める。
 リシャールもそれに続き、アルヴィンの横に立つ。

「向かいの山の中腹に建物が見えるだろう? あれが私の城だ。純粋に住居として立てたのでな。方々の尾根や谷にあるものよりは居心地も良い」
「この街を臨めば、さぞかしよい眺めなのでしょうね……」
「ああ……楽しみにしていたまえ」
 さり気なく、華奢な肩を抱き寄せる。
 アルヴィンは僅かに眉を顰めたが、されるがままになる。
 肩に触れる手は温かかった。アルヴィンには、とても振り解けるものではない。
 ノウラも受けたであろう温もりが、凍っていた表情を僅かに溶かす。
「…………あの子は……あの城で亡くなったのですか……?」
 山というものは近く見えても遠いものである。
 微かに霞む城を、目を眇めて眺める。
 幾つかの尖塔を持つ城の姿は、実に優美だ。
「……ああ……。私が駆け付けた時には、既に人体の面影を留めるに過ぎなかった…………」
 苦々しげに口元を歪め、リシャールは目を閉じた。アルヴィンの肩に触れる指先に力が込められている。
「未だに忘れられるものではない。…………夥しい量の血液が中庭の土に染みこんで……周りに咲き誇っていた白薔薇も、紅く……染まって…………」
 手を額に当て、何度も唾を呑み込む。
「……すまない。やはり……思い出したくはないな……」
「いいえ……申し訳ありません。あの子は……そんな死に方をしたのですね…………」
 肩に触れたままのリシャールの手に自分の手を重ね、アルヴィンも目を閉じた。
 手を通して、リシャールの記憶が、想いが、伝わってくる。
 優しかった。
 温かかった。
 リシャールがどれ程にノウラを必要としていたのかがよく分かる。
 アルヴィンは閉ざした目の縁を僅かに湿らせた。


作 水鏡透瀏

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