暫くはそうしていたものの、山道を抜け、鬱蒼とした林道に入り、再び視界が開けるとそこは既に城の敷地だった。
「もう直ぐに着く。顔を上げたまえ」
 背を撫で促すと、アルヴィンはゆっくり顔を上げる。
 泣いていると思っていたが、目は腫れていない。
「長旅で疲れたろう。先に君の部屋は用意させてある。少し休むといい」
「……いいえ……直ぐにでも遺品を確かめたい」
 アルヴィンは窓の外を睨みつける。城の尖塔が見え始めていた。
「……いいだろう。あまり……見たくないものもあるかもしれないが」
「構いません。あの子が貴方に何を見せ、何を与え、何を与えられたのか……全てを知りたいのです」
「……分かった」
 冴え渡る様なアルヴィンの表情に、リシャール渋々頷いた。

 外見にはいかにも贅を凝らした最新の様式に見えたが、城内は意外に簡素に造られている。
 物はよいのが一目で分かるが、華美とは程遠い。
 その様がリシャール自身を表している様に思えて、アルヴィンは微かな笑みを浮かべた。
 口と態度と見かけ程、軽薄というわけでもないのだろう。

 まず通された部屋で熱いスープが振る舞われる。
 客を持て成す礼儀として、この辺りでは一般的だ。
 アルヴィンは僅かに口を付け、軽く息を吐いた。
 居心地はそう悪くないものの、変わらず居たたまれない心持ちは続いている。
「あの……リシャール様、ノウラは……このお城の何処で亡くなったんですか?」
「……中庭だ。後で連れて行ってあげよう。今は小さな祠を建ててあるのだ」
「はい。…………あの、ごちそうさまです」
 カップを置く。
「もういいのか。もう少し休んだ方が良いなら、どれ程でも待つよ」
「いいえ。お願いします。僕に、ノウラを見せて下さい」
「少し待って欲しいのは……私の方かもしれんな。心の準備がまだ整わない」
 しおらしく胸に手を当ててみせる。茶化した様子はない。
 アルヴィンは表情もなく頷いた。
「貴方は……ノウラの遺体を見たんですか?」
「遺体……ああ、遺体か。そう呼べるものなら、私もこれ程取り乱しはしないだろう。君……生きながら焼かれ、その後挽き潰された人の姿をまだ身体と呼ぶ事が出来ると思うかね?」
 白い頬から血の気が失せている。
 大の大人が記憶の中の光景に怯える様に、その凄まじさを知る。
 アルヴィンは俯いた。
「君が見なくて良かった。君の様に無垢な子には、とても堪えられまいよ」
「そう……ですか……」
「肌の色、顔立ち、全てが……彼女を異端に見たのだろう。しかし……救い主とて東の出であったろうに」
 リシャールは額に手を当て、上を仰いだ。
「貴方にとって、あの子は……」
「母であり、恋人であり……私の失った物の全てだった」
「貴方は何もかもをお持ちでありませんか」
 これ以上の何を望むというのか。
 しかし、リシャールの表情は言葉とは裏腹に傲慢とは程遠い物だった。
 神妙な面持ちをしている。
「私は十一の時に母を亡くしてな。十五で妹とも生き別れた。妹も最早生きては居まいよ。愛した女も居ないではなかったが、生き別れ、死に別れ……ノウラにはその後に出会った。全てを内包し、母の様に私を包んでくれた。彼女の微笑みはまさに聖母の物だった……と言っては、教えに反するか?」
「亡きお母様は聖母の御許におられます。同じ眼差しで貴方を見詰めている。そのお母様とノウラを同じ様に感じて下さるなら、反しはしないのだと思います。全ての母は、聖母に他ならないのですから」
「鏡を見れば母には会える。絵を見れば聖母の御姿も拝める。しかしノウラは……あの聖堂の硝子絵では、どうにも心許ないのだ。君のその瞳に、私はノウラを見た。一週間と君は言ったが、もう少しいられはしないものだろうか」
 リシャールは身を乗り出し、真摯にアルヴィンを見詰めている。
 鳶色の瞳が揺れた。
 しかし、アルヴィンは一度すっと深く息を吸うと、静かに首を横に振る。
 リシャールは手を離し、どさりと背置きに身を投げた。
「頑なな事だ」
「……僕と貴方では、住む世界が違うのです」
「従僕や小姓など、農民や市民から上がった者など幾らでもいる」
「貴方は僕を従士にと仰有ったでしょう? 無理な話です」
「養子になりたまえよ。私には妻も子もない」
「世界が違うんです」
「君は、何処にいる」
 その一言に、アルヴィン身を竦ませて押し黙った。
 椅子の上に両足を上げ抱え込む。
 その体勢はアルヴィンの癖の様だ。
 リシャールは深く溜息を吐く。
 全く思い通りにならないこの少年が、憎くあり、愛しくもあった。

「分かった。もう何も言わんよ。……ノウラの遺品もこの城の中から好きに探したまえ」
「…………え?」
 アルヴィンは顔を上げる。
 リシャールはにっこりと笑って見せた。
「君には、城内全ての扉を開ける鍵の束を渡そう。君の部屋は、ノウラの使っていた部屋を用意してあるから、それ以外に……君が好きに探して、遺品を見つけるといい。全てを探し出したら君を帰してあげよう。それでどうだ?」
「妙な事を考えつくものですね」
「条件は……そうだな。食事は私と一緒に摂る事と、夜は私の寝室で眠る事。これだけだ」
 暫く呆れた様に、得意げなリシャールを眺めていたが、ふっと一度息を吐き出すと表情が変わった。
「飲みましょう、その条件。一週間が来なくても……ノウラの痕跡を全て見つけたら僕は帰らせて貰う」
 きっぱりと宣言し、笑みさえ浮かべてリシャールに応える。
「一通り城内を案内しよう」
「いいえ。時間が惜しい。鍵を下さい。それから、その、部屋へ」
「私の寝室と食堂は案内せねば困るだろう?」
「別に構いませんけど……それくらいは付き合いましょう」
 さっさと立ち上がる。
「……自信がある様だな」
 続いてリシャールも立ち上がり、さっと上着を整える。
「さぁ……勝算もない争いを受けるつもりはありませんけど」
 挑発的な目だ。
 リシャールは背筋が震える様な興奮を覚えた。
「良かろう。言い出したのは私だ」

 それでも多少の有利を与えるつもりでリシャールは態とに遠回りをしながら自室と食堂を教え、アルヴィンを部屋まで案内した。
 部屋の扉を開けるなり、アルヴィンは立ち尽くす。
 その背を軽く押して、室内に入る。
「遺品は城内の何処にいても私が彼女を感じられる様、あちらこちらに置いてある。この部屋にあるものは一部に過ぎない」
「え…………ええ……そうでしょうね」
 東洋風の敷物に窓かけ。
 アルヴィン室内を見回し、悲しげながら微笑んだ。
「……明日にはここを出られそうだ」
「大した自信だな。食事と、私と共に眠る事だけは忘れないでくれたまえよ。…………さあ、これが鍵だ。重ければ分けて持ち運ぶといい」
 三十以上はありそうな鍵束を手渡す。殆どが鉄で出来ているそれは、ずっしりと重い。
 大小様々に連なっている鍵には、札なども付いてはおらず何処のものかは分からなかった。一つ一つ確かめていくしかなさそうだ。
 しかしアルヴィンはそれを受け取ると、輪の繋ぎ目を外して室内にあった机の上に鍵を広げてしまった。
「君、何を」
「必要なものだけ持って行きます。これじゃあ重くて仕方がない」
「必要な、とは……」
 無視して多数の鍵の中から十個程を選び出す。
 不審気に傍観していたリシャールの顔色が変わった。
 輪に鍵を戻して繋ぎ止めようとしていたアルヴィンの手を掴んで止める。
 鍵が幾つか、弾みで床に落ち派手な音を立てた。
「何ですか?」
「き……君は、一体……」
「僕は早く帰りたいんです。貴方とは長くはいられない」
「だからといって、これは……」
 軽い仕草で手首を捻り、リシャールの手を外す。

「君は、何者だ」
 アルヴィンが選び出した鍵は正確なもので、一つとして間違いがなかった。
 多過ぎる事も、少な過ぎる事もない。
 部屋も鍵も全てを知っているとしか考えようもないが、アルヴィンがここへ来たのは真実初めての筈だ。
「何故正しい部屋と鍵を知っている」
「勘ですよ。これで合っているんですね」
 アルヴィンはにっこりと笑った。
 その愛らしさの裏に何か昏いものを感じて、リシャールの背筋に冷たいものが落ちる。
「今日中に全て見つけたら……どれか一つを頂いて帰っても構いませんか?」
「今日中でなくても、君が求めるものなら返そうと思ってはいるが……」
「よかった。せめて墓に入れるものが欲しいんです。それと……ノウラの眠る沼へも案内して下さいね。それは、この城内ではないでしょう?」
 部屋に立ち入ってからアルヴィンは何処か元気な様子で、少し昂じてさえいる様だった。
 紅潮した気のする頬に煌めく瞳は愛らしいの一言に尽きはするものの、リシャールは何処か警戒を解けなかった。
「一人で城内を歩き回っていいんですよね」
「ああ、好きに……。ノウラに関係がなくとも、全ての部屋を見て貰って構わないよ。その為にも鍵束を渡したのだから」
「貴方は付いて来ない?」
 小さく首を傾け、上目遣いにリシャールを見る。その表情にやっと落ち着いて、リシャールは苦笑を浮かべた。
「これでも完全なる暇人ではないのだよ。少しばかり雑務はあるからな。夜を君と楽しく過ごす為に、僅かだがせねばならぬ事もある。もう、今日も短い」
 手を伸ばしアルヴィンの髪をくしゃりと掻き混ぜる。
 僅かに首を竦めただけで、アルヴィンもそれ以上抗いはしない。
「夕食までまだ少し時間がある。寛ぐといい」
「いいえ、直ぐに」
「…………そんなに帰りたいのか? 帰ると連呼されては、少々傷つくな」
 悲しげな表情を見せると、釣られてアルヴィンも申し訳なさそうな顔になる。
「すみません。貴方をどうしても嫌っているというわけではないんです。ただ、」
「世界が違う、か」
「………………はい」
 ふうと息を吐く。リシャールは取り敢えず引き下がる事にした。
「分かった。夕食時になれば君を呼ぶ。まず名を呼んで、それで来なければ城内全てに聞こえる鐘を鳴らす。聞こえたら必ず食堂まで来るのだよ」
「はい」

 アルヴィンを残して先に部屋を出、直ぐに下男を呼びつける。
「地下の用意を私の部屋に移してくれ」
「畏まりました」
「これから少年が城内を歩き回る。構えて気取られるなよ」
「心得ています」
 下がりかけた下男を呼び止める。
「移し終わったら、少年の行動を見張ってくれ。彼はどうも隠し事が多い」
「はい」
「行け」
 扉が開きそうな気配を感じて下男もリシャールも足早にその場を去った。
 声が去ったのを見計らったわけでもなかろうが、それ程間を置かず静かに扉が開く。
 アルヴィンはまず顔だけを覗かせ、誰もいない事を確かめるとその隙間から滑る様に廊下に出る。
 そして警戒心を露わに絶え間なく周りを見回しながら、鍵の束を手に廊下の奥へ消えた。

「…………驚いたな」
 食堂の机の上に、様々な品が並べられている。
 服が三着、靴二足、本、髪の束、飾り紐、髪飾り、首飾り、十字架、薔薇の香りがする瓶────。
 リシャールはそれを目の前にして戦慄を覚えた。
 確かに探せとは言った。
 全てを探し当てれば帰っても構わないとも。
 だが、これは……。

「君は、本当に………………これも勘だと言い張るのか」
 間違いはない。アルヴィンに与えた部屋以外にあるノウラの遺品は、これで全てだ。
「何故分かった」
「理由なんてありません」
「あり得ないだろう。隠してはいないがそれらしく陳列もしていない」
「ノウラの気配がする。それだけです」
 作られた席へ着き、アルヴィンは遺品をじっと見詰めた。
「その飾り紐は、僕が彼女に贈ったものです。貴方の様に、髪飾りなんてあげられはしなかったけど……」
「彼女は、それをとても大切にしていた。父からの贈り物だと…………本当は、君が贈ったのか?」
「あの子……そんなことを…………」
 飾り紐を手に取る。元は藍色だったものが、陽に焼けて色褪せている。
 手に絡ませてくるくると弄ぶ。
「いい子だったでしょう?」
「ああ、とても……」
「僕達は、あの子を守れなかった。同じ罪を負っている……」
「そうだな。……ああ……」
「……僕がいなければ、貴方がいなければ……どちらかが欠けていれば、あの子は死ななかったんでしょう」
「自分を責めても始まらない」
 アルヴィンは食卓の向こうのリシャールを見た。
 蝋燭の明かりしかない。瞳の色まで分からない。ただ、潤んだ様な光が浮いている。
 アルヴィンは目を細めた。
 複雑な表情を浮かべる。
「……これで、帰っても構いませんね。遺品として、この飾り紐を持って帰りたいんですけど」
「構わないよ。好きに持って帰ってくれて。だが、今夜はせめて……泊まっていってくれるだろうね。この辺りは山だけあって狼が出る。せめて、明日の陽が昇ってからでも遅くはないだろう? 君は、初め三日を許してくれていたのだから」
「…………はい。もう一晩だけは……」
 飾り紐を傍らに置く。顔を背ける様に目を反らせた。
 その様が恥じらっている様に見え、リシャールはにんまりと北叟笑む。
「…………貴方の所で、眠ればいいんですよね」
「ああ、そうだよ。それだけのことだ。許してくれるだろう?」
「…………それ以上、何もなさらないのなら」
「難しい注文だな」
「僕はもう……厭なんです。あんな、事…………」
 苦しげに呟く。
「許した男以外には触れられたくないか」
「そんな……僕は、誰にも触れられたくない。貴方であろうが、なかろうが、そんなこと関係ありません」
「私が条件を持ち出した時、君は想像もしなかったというわけであるまい。それでも、呑んだ。言質を取って逃れるつもりだったのか? 逃れられぬのは、昨日から分かっていることだろう」
 アルヴィンは俯かせた顔を覆ってしまう。
「それでも……厭なんです。……無理強いするなら、僕は今日中にここを出る」
「馬鹿な。死にたいのか」
「同じ事です」
 リシャールは苛立ちを隠さなかった。こつこつと指先で食卓を叩く。
「何処までなら許せる。まさか、同じ部屋で、別の寝台でとは言わないだろうね」
「出来れば……その方が望ましいです……」
「私にそうする気がないことくらい、分かっているだろう」
「不本意ですけど……」
「せめて抱き締めて眠ることを許して欲しいな。口付けも……」
 恨めしそうなリシャールの表情を窺って、アルヴィンは困った顔になる。

 こういった表情には弱い。
 約束を違えているのは自分だという自覚はある。申し訳ない思いがアルヴィンを躊躇わせていた。
 リシャールのことは嫌いではない。触れられることも、口で拒絶する程厭だとも思っていない。ただ、自分が乱れるのが厭なのだ。
 繰り返し様々に攻められ、我を失くすのが怖い。
 リシャールに触れられると、自分の身体が自分のものではなくなる様に感じた。
 快楽に屈し、我を忘れ、ただリシャールを求めたくなる。
 まだ、ただ二回抱かれただけだ。
 それなのに、海綿が水を吸う様に、リシャールが心にも身体にも入り込んでくる。
 本当に心地よくて拒みきれない。だから、触れられたくない。
 こんな繋がりを、主は認めない。

「お願いです……厭なんです。どうしても……」
「並んで眠るだけか」
 低い声に滲むのは苛立ちであっても、怒りではない。
 自身が多少手荒なことをしたのは分かっている。拒むのも無理はない。それが察せられない程の傲慢さは、持ち合わせていない。
「手も繋げない?」
「……それくらい……なら……」
 揺らぐ。
 手を繋げばきっと引き寄せられるだろう。そして、その後……。
 アルヴィンは小さく首を横に振った。今は、考えない。
「分かった。それで引き下がろう」
 アルヴィンは了解を受けて顔を上げる。
 今にも泣き出しそうに、顔が歪んでいた。
 手控えるリシャールに追い縋る様な、そんな表情。
 リシャールは目を反らせるしかなかった。
 拒むならば、傷ついた頼りなげな顔を見せられても困る。
 手を叩く。食事だ。時間を少し置くしか考えが及ばない。
「食事にしよう。茶とは行かなかったが、薔薇のコンフィチュールで菓子を作らせた。楽しみにしていたまえ」
「……ありがとうございます」
 出来るだけ優しく声をかけてやると、安堵が滲む。
 その愛らしい様子で、今度こそリシャールは納得することにした。


作 水鏡透瀏

1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12/13/14/15
16/17/18/19/20/21/22/23/24/25/26/27/28/29/30
31/32

戻る