リシャールはそのあまりに不思議な光景に、ただ様子を見詰めるばかりだった。
人の業ではあり得なかった。
この一週間と少しの間のアルヴィンに対する疑問が、埋められていく。
葡萄酒と薔薇茶以外は殆ど口にしない食生活。
年の割に落ち着きすぎた物腰。
ノウラに文字を教えた過去。
シリルより年上らしいが、どう見ても外見は逆だ。
不思議な物言いと力。
しかし、もしアルヴィンが主の祝福を受けない身だとしたら……。
疑問は全て氷解してしまう。
「アルヴィン…………君は……」
アルヴィンは軽く手を払い、リシャールを見て悲しげに微笑んだ。
ただ、顔が強張る。
「これが……僕だ」
「君は……人ではないのか……?」
人……人だけではなく、生きとし生けるものの生気を喰らって生き延びる魔物。
全てが主に反している。存在そのものが許されないもの。
しかしリシャールはそんなアルヴィンに向けて精一杯微笑んでみせる。
人ではないと分かっても、アルヴィンを恐れる気持ちなど微塵も涌いてこない。今まで通り、愛おしい存在であることに変化はなかった。
それより、アルヴィンの悲しげな顔の方が余程に堪える。
「何故もっと早く言わなかった」
駆け寄り、アルヴィンの頬に手を這わせる。
「シリル君が来てから君の顔色が少し良くなったのは、彼から貰っていたからか。血の味に酔ったのも、飲み物以外を口にしないのも、それが原因だったのだね。……彼は君の眷属か?」
「………………あの子は……人間だ。血は……確かに美味だけど、触れるだけでも生気を貰うことは出来る。無意識に奪おうとしたら、殺してしまうかも知れないけど。この前は、それでノウラに止められた。貴方をもう少しで殺す所だったから」
アルヴィンは顔を背けた。
その顔の先へ回り込む。
「君に殺されるなら本望だよ。……シリル君は、私と同じなのだな」
「ああ。…………同じだ。僕を恐れない」
「本当に同じ、と言うことか。君を知っても君を恐れず、君を愛している」
「あの子の感情は、父母に対するものと大差ない」
「では……私の方が想いが勝つのか」
「勝ち負けじゃない」
アルヴィンはもう殆ど聞こえない程小さな声で、呟く様にしか返さない。
リシャールはアルヴィンを抱き締めた。
頬を合わせ、耳元で囁く。
「……何故今まで黙っていたのだ」
「……言える筈がないだろう」
「シリル君は眷属ではないと言ったな。ならば、加減をして生気を吸う事も出来るのか?」
「…………ああ」
「今まで私から摂ってはいないな。……私から好きなだけ摂ればいい。私では不満か?」
「…………いや…………しかし……」
「君の様な存在についての伝承は聞いたことがある。血を吸うのだろう? 好きなだけ飲みたまえよ」
首を覆っていた衣類を引き下げ、生肌を晒す。
「…………………………唇を」
アルヴィンはリシャールと顔を見合わせ、抱き締め返す。そして、意を決して唇を重ねた。
舌を絡め、リシャールの唾液を嚥下する。
積極的なアルヴィンの様子に一瞬戸惑ったリシャールも、すぐに行為を返す。
同じ様な口付けとはいえ、先とは齎される感覚が違う。
ふわりと宙に投げ出される様な浮遊感と共に、酒酔いに似た酩酊感が起こる。
「っ…………ん…………」
薄く目を開けて様子を窺うと、アルヴィンの頬は微紅に染まっていた。瞼にも赤みが差し、いたく愛らしい。
血の気の薄いアルヴィンの紅潮した顔など初めて見る。
「ふ……ぅ……んぁ…………」
抱き締め返していたアルヴィンの腕から力が抜ける。既にアルヴィンの方から舌を絡めては来なくなっていた。
リシャールはリシャールで、アルヴィンの唾液の甘味と、それとは別の味わったことのない感覚に意識が揺らぐ。
軽く起こった眩暈が、生気を失った所為なのか快楽の為か判別できなかった。
「……素晴らしい手段だな…………」
「…………ごちそうさま…………」
ほぅっと熱い息を吐く。
リシャールの生気で身体の隅々までもが潤っていくのが分かった。
シリルの生気ではここまでの充足感は得られない。
身体を構成する細胞の一つ一つに至るまで生気が行き渡り、熱く火照る。
この身体を作り上げているものと、リシャールとがとても近しいものに思えた。
アルヴィンはリシャールに寄りかかり、ただ熱く荒い呼吸を繰り返す。
その身体が人ではないものだとは、リシャールには到底信じられなかった。
「君の、本当の年は?」
「分からない…………頭に残る最初の記憶は、もうこの姿で……ただ、いつの世も血腥いことばかり……」
必ず何処かしらで戦火の上がる時代。
血の匂いを思い出したのかふるりと震えた身体を、リシャールはより強く抱き締めた。
「その中で良く生き延びてこられた。その記憶から、どれ程経っているのだ?」
「さぁ…………昔はいろいろ旅もしたけど……ここ暫くは、ずっと森に籠もりきりだったから」
「どの辺りの?」
「前に教えた家の位置は、嘘じゃない。ここよりは随分東だ。山間の深い森に」
「眷属はいるのか?」
「…………いないよ」
一瞬戸惑った言葉の嘘を感じる。
リシャールは殊更慎重に尋ねた。
「押し掛けるつもりも、吹聴するつもりもない。君は孤独なのか、それを知りたいのだ」
真摯なリシャールの言葉を受け、逡巡の後に口を開く。
「………………籠もっていた場所とは全く違うけど、同種の者だけが住まう村がある。貴方みたいに、主に反しない生き物では、迷い込むことすら出来ない。シリルだって、入れない」
「その村と君との交流は」
「…………尋問されているようで気分が良くないな」
あまりに深く追求されるもので、アルヴィンは逃れようと試みる。
だがリシャールはそれを許さなかった。
「済まない。だが……君に関することは、何一つ逃さず知っておきたいのだ。情報は、君を守る術の一つとなり得るのだから」
「…………その村から毎年、薔薇の苗を貰ってきていた。今年も……ここからの帰りに受け取って帰るつもりで…………だから、あまり長居をすると、村長にも心配される。帰りたいって言ったのは、そういうこともある」
「便りを出すことは出来ないのか?」
「誰が、どうやって届けるっていうんだ」
「君のように外で暮らしている者に言伝ることは?」
「僕はとても特殊な存在だから」
「特殊?」
アルヴィンは再び俯き、黙り込んだ。
「教えてくれ」
「……僕のような存在は通常、その村の出身だ。その村に住まう者だけが、眷属を増やし、村を存続させていく。けれど、僕は……その村には依らず生まれ出た者。何故この世にこんな形で生を受けてしまったのかすら、分からない者……だから、受け入れては貰ったけど、結局……僕は眷属ではないんだ」
肩が震えている。
言った事を意識したくないのだろう。
リシャールは息を吐き、それ以上の問いを止めた。
「話し辛かっただろう。済まなかった。だが……もっと早くに話して欲しかったな。私を過小評価して貰っては困る」
指の背で頬を撫でてやる。アルヴィンの頬は柔らかい。それに、何処か血が通っている様な印象を受ける。
アルヴィンは擽ったそうに小さく首を竦めた。
「…………良く信じる気になるな」
「ノウラだの、ネージュだのを先に見てしまってはな。ただの魔女などではないと思いはしていたから、予測の範囲内だよ」
「僕を教会へ突き出さないのか?」
「何故。そんな必要が何処にある」
「魔物だよ。人を食らう。我慢しきれなくて、街で少し貰っちゃったし」
「…………そういえば、疫病がどうとか一週間程前に聞いたな。その後の報告がないので放置していたが。若く健康な者が中心に、軽く倒れるとか」
「少しだけね。貪らない様には気をつけたんだけど……旅が長かったから、ちょっと疲れてて」
言ってしまえばもう腹も決まる。
リシャールの胸の痞えも、アルヴィンの痞えも、どちらも取れていた。
アルヴィンを抱き上げ、リシャールは寝台の上へと戻った。
思えばアルヴィン一人がずっと肌を晒している。リシャールも、同じ姿になった。
均整の取れた身体から、アルヴィンは思わず目を逸らす。改めて見るとやはり気恥ずかしい。
「君が危険な存在でないことは分かる。教会は余り好きではないな。宮廷と同じくらいには。あんな所へ君を突き出した所で、何の役にも立たないだろう。あそこは、俗世より穢れているよ」
「突き出したっていいんだよ。誰彼構わず人を襲うかも知れないだろう?」
「なら私は、疾うに殺されているだろうな。君に無体ばかりを強いた」
「そうだな……だけど男はあんまり好きじゃない。美味しくないから」
「味があるのか。そもそもシリル君を側に置いている癖に」
「伝承では若くて綺麗な女の子が狙われることになっていると思うけど? 男でも若ければね、未だ……でも貴方はもういい年だし」
「少し傷つくが……そういえばそうだな……」
「生憎、あんまり女の子を食らったことはないけどね」
「あんまり、とは……」
「厭がる子を無理に食らったことはないよ」
「……羨ましいことだな。私が若い処女でないことが悔やまれる」
「羨ましいって、そっち?」
本当に、馬鹿だ。
アルヴィンは思わず吹き出した。やっと緩んだ表情に、リシャールも笑みを浮かべる。
「泣き顔や険しい顔でも十分に魅力的ではあるが、君はやはり笑顔の方がいい。愛らしいよ」
「褒め言葉にならないよ。そんなの」
「そうか……? そうだな……私より、年上なのか?」
「かなりね」
「そうは見えないな。容姿もだが……表情や性質も、愛らしい」
「取り繕うのばかり上手くなった……そんなところかな。それで? 貴方は、まだ僕を抱きたい?」
「ああ。抱きたいな。たまに君の体温をひどく冷たいと感じることがあった。あれが本来の君か?」
今腕に抱いている身体には柔らかな温かみを感じる。
問いと共に、それが消えた。
「ああ……。体温がある様に、血の流れがある様に……感覚は分かるんだよ。僕にも、そういう頃だってあったから。でも今は……標榜するしかない」
冷気すら帯び始めた身体に戸惑う。肌の色が透ける様に白くなる。だがその皮膚の下に巡らされている筈の血管は浮いて見えなかった。
東からの交易品に見る白磁で形作ればこの様になるのかも知れない。
「……元は、人だったというのか」
「ああ。…………でも、今は……」
「見た目でも……こうして触れていても、君が人ではないものだなどとは信じがたい。君が思う程、君は人から離れては居ないと思うが」
「人は、人を食らったりしない」
「どうかな。古今、例はある」
「伝承が殆どだ。それに……入り交じってるよ。魔物の話と人の話が」
「どちらでも構わないと言うことだ。人でも、魔物でも。私の知る人間には、君より余程魔物じみた者も数多くいるぞ。君は優しく、節度を持ち、自分を律することを知っている。人か魔物かなど、大きな問題ではない」
冷たい頬に触れる。
アルヴィンは目を閉じた。リシャールの言葉は嬉しい。しかし、とても完全に信じることの出来るものではなかった。
長く生きれば、それだけ、多くの人を見てしまう。
初めは同じ様なことを言ってくれても、そのうちに裏切られることなど、珍しくもない。
「口付けで生気を得るのと、血を飲むのと、どちらがいいんだ?」
「え?」
「君の好きな方を上げよう。まだ死んでしまうのは厭だがね」
積極的に分けようとしてくれる人間は少ない。
アルヴィンは困惑してリシャールを見た。
リシャールは変わらぬ顔で微笑んでいる。
「血を吸われたら……同胞になれるのだったか?」
「いや……そんな単純な条件で同胞なんて困る。それこそ伝承だ」
「それは残念だな」
心の底から残念そうに顔を曇らせるのを見て、アルヴィンは一層戸惑いを隠せない。
誰が好き好んで人でなくなりたいというのか。
「本当に……貰っていいのか?」
「ああ。君が望むだけ。それから、まだ死なぬだけ」
「殺さないよ。命を奪うのは厭だ。今以上に重いものなんて背負いたくない」
「君に辛い思いはして欲しくないな」
「でも……人を簡単に殺せるだけの力はある。それだけは忘れないでくれ。理性を失くせばどうなるか分からない」
「どうせ死ぬなら、君の手に掛かりたいな」
「……本当に馬鹿な人だな、貴方って」
「それで?」
口付けか、血か。
促され、アルヴィンは溜息を吐いた。
「…………………………血を、くれる?」
「ああ」
首を晒そうとしたのを制し、アルヴィンは緩慢に顔を寄せた。
皮膚の柔らかい腕の内側へ口付ける。
「少し痛いよ」
「構わないさ。…………くっ、ぅ…………」
歯が触れた。微かな痛みが走るが、直ぐにそれは隅へと追い遣られる。
喪失感は絶頂感にも似ていた。
熱を失っていく感覚は、その放出の際の感覚にも等しい。
「ぁ……っあぁ」
痛みなのか、悦楽なのか分からない。ただ堪え難く、掠れた喘ぎが洩れた。
「く、っあ、は……っ!……ぁっ……」
目の前が白く弾けた気がした。実際に達しはしなくとも、それに限りなく近い失墜感に襲われる。
こくり、とアルヴィンの喉が上下する。
顔が離れた。
微かに紅く濡れた唇を更に紅い舌が舐め取る。
「ん……美味しい…………凄く……」
「はっ……ぁは……」
淫靡ながら美しい眺めに、リシャールは重い脱力感に苛まれながらも目を細めた。
「…………ごめん。大丈夫?」
「ああ…………少し身体が重いが……それだけだ。それより、君を抱かせて欲しいな」
「暫く動かない方がいいよ。本当に……美味しかったから、少し飲み過ぎたかもしれない」
「痕は……残るかな」
「消えるよ、直ぐに。……ご馳走様」
点々と残る噛み痕に舌を這わせる。
目眩がした。
「美味しかった、か」
「ああ。…………本当に。大人の男の血なんて不味いと思ってたのにな。どんな処女より…………美味しかった。凄く……満たされた気がする」
未だ名残惜しそうに痕を吸い上げる。
リシャールの背に震えが走った。これ程の快楽は、誰を抱いても、誰に抱かれても味わったことなどない。
「君を満たせたなら……私も本望だよ。それに、こんなにも血を吸われるというのが凄いものだとは知らなかった」
「あまり痛いと途中で逃げられるからな。……そういうことだと思ってる」
「心地よいことは、嫌いではないな。体調が戻れば、また飲めばいい。君を満たした上に私も悪くないとなれば、拒む手はないからな」
「…………ありがとう……。でも……普段は口付けだけでいい。貴方に溺れそうになる」
「溺れてくれないのか?」
「酒と同じだよ。酔いが過ぎると、碌な事にはならない」
「君は自制心が強くていい。私から、飲んでくれと頼むかも知れないよ」
「厭だよ。貴方だって、快楽だけに溺れる人間ではないだろう? それが許される立場じゃないって、分かって居るんだから」
「君は…………その言葉にも、私は酔いそうだ」
どちらからともなく口付ける。
アルヴィンの唇からは未だ血の香りがしていた。
続
作 水鏡透瀏
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