力を少しばかり取り戻したノウラは、僅かながら自由を手に入れた。
 アルヴィンの側に居るばかりではなく、城の中を自由に動き回る。
 そのことが分かるのはアルヴィンにリシャール、シリル、ギュスターヴだけなので問題にはならない。
 ただ、少しばかり勘の鋭い人間には何かしらの気配は感じる様だった。
 アルヴィンが人付き合いがそう得意ではないことは十分に分かっているし、一人の時間というものがなくてはならない質だということも知っている。ノウラは、どちらかと言えばリシャールと共にいることを選んだらしい。
 アルヴィンも、それでよいと思っていた。ノウラに何時でも会えるというだけで、十分だった。

「ネージュ、ってどうかな」
「雪……か。君の馬だ。好きに付ければいい」
 馬房に一室貰って獣を入れる。ノウラが居る限り、大人しくしているつもりではある様だった。
 馬体を洗い、丁寧に鬣や尾を櫛で梳くとそれは輝かんばかりの美しさになる。確かに、雪の様だった。
「君には似合いの馬だな、確かに」
「そうかもな…………」
 鼻面を撫でる。
 ネージュは大人しく撫でられた。ノウラの存在が半端であること、そしてこの中でアルヴィンが一番強い力を持っていることが分かっている様だった。自身よりも。
 魔物とはいえ、獣の基準はそれだけだ。強いものが正義であり、全てである。
 ノウラもネージュのことは気に入った様で、乗る真似をしたり、首に腕を回す様にして擦り寄ったりなどしている。
 可愛く愛しい者達のそんな姿を見ていれば、リシャールの気も緩むというものだった。何処か鼻の下が伸びている。
「馬具を作らせねばな」
「……貴方に任せる、それは」
「白銀が似合うな。……ああ、それがいい。銀はこの白い馬体に美しいだろう」
「駄目だ! それは!!」
 目を細めてネージュを眺めたリシャールに、アルヴィンは思いの外強い口調で咎める。
 ノウラは口元に手を当て、心配げにアルヴィンを見る。
「……どうした?」
「……ぁ…………いや……その……」
 銀の何が不都合だというのか。リシャールは首を傾げてアルヴィンを伺う。
 アルヴィンは青褪めた顔を俯かせていた。
「銀は嫌いか?」
「…………あ……ああ……余り好きじゃない……です……」
「そうか。……まあ、曇りやすいかな。では、白金でどうだ」
「それなら…………いい、です。他は、任せるから」
「そう言えば銀には魔を払う力があると言うな。この獣は魔物だから、困るか?」
「えっ!? あ……ああ、そう……そう、だな。そうかも……」
「煮え切らないな。君らしくもない」
 肩を抱こうとする手からあからさまに逃げる。
 逃げたことに自分で狼狽して、アルヴィンはリシャールを見上げた。
 酷く傷ついた顔をする。
「どうした?」
「何でもないです。あの……失礼しますっ」
「っ、待ちたまえ」
 逃げ去ろうとするアルヴィンへ腕を伸ばす。しかし、寸での所で手は躱され、アルヴィンは走って行ってしまった。
「……何だというのだ……」
──アルヴィン……素直すぎるのよ、貴方──
 口元の動いたノウラをリシャールは窺った。
 視線に気付き、ノウラは小さく首を横に振る。
 言えることは、なかった。

 アルヴィンは、誰とすれ違ったかも記憶にない程一目散に走り、礼拝堂へと逃げ込んだ。
 祭壇の前に跪く。
 動悸がしていた。胸元を掴み、蹲る。走ったことに依るものではない。ただ、苦しい。
 床に手を付いて身体を支え、肩で息を継ぎながら十字架を見上げる。
 形は重要なものだ。礼拝堂の形を取っている所へは、何もなくともそれなりに聖なる力が蓄積されている。
 それ以上に、この礼拝堂には暖かな空気が満ちていた。主によるものではない、優しく温かく、揺るぎない力が。それがアルヴィンを包み守ってくれる気がした。
 昼間だが色硝子の嵌められた薔薇窓から入るだけの明かりはひどく頼りない。
 蹌踉めきながら立ち上がり、燭台の蝋燭へ火を灯した。僅かにほっと息を吐き、置かれている長椅子へと腰を下ろす。
 縋る様に十字架を見詰め、胸の前で手を組んだ。
 閉ざした瞳から一筋透明な涙が零れ落ちる。
 そこへ、扉が軋んだ音を立てて開いた。
 弾かれる様に振り返る。

「あ……あの、走っていくのが見えたので」
 顔を覗かせていたのはギュスターヴだった。
 驚いたアルヴィンの顔を見て、決まり悪そうに顔を伏せる。
 アルヴィンは慌てて手の甲で目元を拭い、柔らかな笑みを上塗りしてみせる。
「済みません。邪魔をしました」
「いや……いいんだ。君はここが厭じゃない?」
 軽く手招きをする。ギュスターヴは僅かな逡巡の後するりと室内へ身体を滑り込ませ、扉を閉めた。
「少し、落ち着きません」
 招かれるまま、アルヴィンの隣に座る。下から見上げられ、思わず顔を背けた。
 その反応に小さく笑う。ギュスターヴはシリルと同じでまだまだ若い。

「君は、僕が気になる?」
 椅子の上へ膝を抱え上げ、ギュスターヴを眺め続ける。
 ギュスターヴはアルヴィンの方を向けないながら、小さく頷いた。
「聞いてみた? 君が契約しているものに」
「いいえ。未だです」
「それ、リシャールは知っているのか?」
「知っています」
「君に勧めたのが、リシャール、とか」
「いいえ。それはマリーエ女史が」
「マリーエ……ああ、あの女の人。仕事の出来そうな人だったけど、そっち方面も詳しいのか」
 腕に抱えた膝の上へ顔を伏せる。
 何処か幼げな仕草の中に漂う色に、ギュスターヴは鼓動が跳ねるのを感じた。
 アルヴィンは見た目の年に似合わない表情や仕草をする。

「それで……君は、リシャール様の為に?」
「いいえ。あんな人。今は拾われた義理を返しているだけです」
「……過ぎた義理だよ。そんなの。解約は難しいだろうけど……出来ることなら今すぐ止めた方がいい」
「何であんたがそんなこと気にするんだ」
 顔を上げ、ギュスターヴに向けて微笑む。
 アルヴィンは得体が知れない。気持ちが悪い。
 親しげに肩に触れようとしたアルヴィンから逃れ、腰を浮かせる。
 アルヴィンは酷く困惑した様な表情でギュスターヴを見詰めた。
「人が、自ら選ぶべき道じゃないよ、それは」
「それでも、俺には力がいるんだ」
「力を得て、どうするんだ?」
「俺が覇者になるんだ、この世界の! リシャール様の下は、その為に一番近い」
「覇者……」
 思わず微笑みを深くする。
 若過ぎる気負いが可愛らしい。しかしそれを見てギュスターヴは口を尖らせた。
「馬鹿だと思ったろ」
 睨む目線が何処か照れている。余りにも大きなことを言った自覚はあるらしい。
 アルヴィンは目を細める。
 そんな野望を抱ける程純粋で真っ直ぐなのだ。その事を羨ましく思う。
「いや。いいなと思って。だけどそれなら、リシャールの下じゃなくて皇帝陛下の下の方がいいんじゃないのか?」
「身寄りも身分もないガキが、どうやって皇帝に取り入るって? それに、リシャール様は……そのうち、皇帝を倒す」
「あの人……そんな大それたことを考えてるのか?」
「マリーエにそう聞いた。リシャール様なら本当にやると思う」
「そう…………そう、だね。それで……君は、この世界を制した後、どうする」
「戦争を失くす! 戦災孤児が生まれない世の中にするんだ」
「そう…………いい子だね、君は。君が成就しそうなら、手伝って上げるよ、僕も」
 戦争を厭うているのは、アルヴィンも同じ事だ。
 権力、金、そんな話なら諫めもするが、ギュスターヴの野望は心地いい。

「リシャールも……同じ様に考えているのかな」
「そう聞いてるけど……あの人が何考えてるのかなんて、よく分からないから」
「確かに。あまり読ませないね、あの人。だから、僕も信用しきれないんだけど」
「馬鹿だってことだけは分かる」
「あはははは! 主人に向かって、君も良く言うな」
 きっぱりとした……しかしあまりな言い草に思わず吹き出す。
 アルヴィンは足を下ろし、椅子に背を預けて天井を仰いだ。美しい絵が描かれている。
 広く伝わっているこの世界の創世記を図で描いたもので、礼拝堂や教会の天井や壁にはよく使われる題材だ。
「あの摂理だけは、覆らないのにね」
「え?」
「神が全てを作りたもうた。光も、闇も、昼も、夜も。生き物も、全て」
「作り出したもの……主人には逆らうなってことですか?」
「そうじゃないよ。ただ……気をつけないと、食い潰される。君が覇権を手にする前にね。世界は、そんなに単純には出来ていないから」
「分からない程俺は子供じゃない」
「……食われるよ、力に。過信しない方がいいし、頼らない方がいい」
「っ」
 座面に手を付き、見上げる顔を近づけられてギュスターヴは戸惑った。
 瞳の色が薄い様に思うのは、薔薇窓から差し込む光の所為なのか。魅入られる。動けなくなる。
 何処か華奢な感の拭えない手が、頬に触れた。

「人は自然の摂理に逆らうものじゃない。君の目的がたとえ正しいものだったとしても、手段を間違ったら結果も間違ったものになる。覇権を握るなら尚更、その過程も人は見る」
 言い分は分からないではない。
 手を振り払うことも出来ず、困惑してアルヴィンを見詰める。
 優しそうな少年だ。だが……ギュスターヴの力の範囲でなら分かる。
 その形を取っていても、違う。アルヴィンは少年ではない。
「あんたは……」
 言い差す唇に指先が触れ、押し黙る。アルヴィンは微笑んだ。
「自分では言いたくない。好きに調べていいって言ったろう?」
「何でリシャール様に取り入る!?」
「取り入ってなんていない。僕は、嘘なんて何一つ吐いていないから。帰れるなら直ぐにでも出て行きたいよ、こんな所」
「だけどリシャール様はあんたのことばかり考えてる! あんた、魔物なんだろ!? 魔物の力で、操ってるんじゃないのか?」
「あんな人操って、僕に何の利点があるんだ。少し冷静にものを見た方がいいよ」
 すっと瞳が冷気を帯びる。ギュスターヴは半身を引いたが、それ以上身体が動かない。
 意識ははっきりとしているし口も動くのに、ただ手も足も凍り付いた様だった。

 顔を強張らせるギュスターヴに、アルヴィンはそれでも穏やかな微笑を向ける。
「魅入るって言うのは、こういうものだよ。あんな人を思い通りに動かしたって仕方がないだろ?」
「やっぱり、あんた……魔物なのか。でも……だったら、何で、こんな所……」
 聖なる力の漂う礼拝堂は、魔の力を払う筈だ。
 ほぼ人間であるギュスターヴには落ち着かない程度で済むが、あまり近寄りたい場所ではない。
 魔物の力が強いなら尚更の筈だ。
「平気。いや、むしろ……心地いいかな」
「そんな……じゃあ、魔物じゃないのか? でも」
 微笑む顔は、宗教画の天使に似ている。それでも、感じる力は聖なるものではなさそうな気がした。
 困惑を隠せないギュスターヴの顔へ、口付ける様に顔を寄せる。
「何でだろうね。確かにリシャールよりは、僕の方が信仰心が強いと思うけど」
 掛かる息の香りがひどく甘い。ギュスターヴは目眩を覚える。
「主を……信じてるって言うのか? 魔物が」
「信じちゃいけない? 悪魔だって、主がお作りになったものだ」
「だけど主に反したものだろ? 魔って言うのは」
「何も信じず何も祈らず……生きていく強さなんて、僕にはないよ」
「それなら、悪魔の王を崇めればいい」
「僕は、人だよ。……どんな身体でも、どんな力を与えられても、僕は……人だ。人が祈るのは、主だけで十分だとは思わないか?」
 漸くギュスターヴから手を離す。
 視線を外され、ギュスターヴはその場に崩れる様にして膝を付いた。
「変な人だな、あんた」
「そう思うよ」
「リシャール様は、あんたのこと知ってるんだろ?」
「どうかな。大体気付いてはいると思うけど、君程率直じゃないから、未だ面と向かってはっきりとは言われてない。口では、僕が何であっても気にしないって言ってるけどね……」
 もう一度天井を見上げる。
 美しいフレスコ画だ。こんな薄暗い部屋に置いてあるのが勿体ない程に。
 薔薇窓の明かりも、蝋燭も、天井まではしっかりと届きはしない。見える範囲は薄暗く朧気だ。
 天地の創造に始まり、人が作られていくまで。
 アルヴィンは息を止めて見入る。

「あの輪の中から、出たくはなかったな」
 ふと、呟く。
 ギュスターヴはそろそろアルヴィンの話すペースに慣れ、戸惑わなくなりつつあった。
 アルヴィンの隣に座り直す。
 得体の知れない気持ちの悪さは、次第にアルヴィンへの興味と変わっている。
「あんた、元々人だったのか? 何かと契約して、食われて人じゃなくなったのか?」
「ん……どうかな。人なのは確かだけど、それ以上のことなんて殆ど覚えてないし。けど……食われはした、かな。何にかは、やっぱり分からないんだけどね」
 胸元を僅かに緩める。少しばかり寛げられた首筋は匂いやかだった。
 男だと分かっている。しかし、リシャールやシリルが絆されるのもまた、理解出来る気がした。
 揺るぎないのに儚く、甘やかなのに強い。
「もう、潮時なのは分かってるよ。心配しなくても、僕は去る。さっきも、バレかけて逃げたんだ。ネージュに銀の鞍を乗せるなんて言うから」
「ネージュ? あの獣か。……銀は駄目なのか。ここは平気なのに」
「心は平気だから、ここの空気は心地いい。だけど、身体は別だからな」
 天井を見上げたままの瞳から、一筋零れ落ちた雫が首筋まで伝っていく。
「何で……泣くんだ」
 透明な涙だ。濁りのない表情に、ギュスターヴは益々分からなくなる。
 魔物なのだ。それは今認めたも同然なのに、それ以上に、あまりにも清浄だった。
「何でかな。ここは……とても温かい場所だから。リシャールの信仰心はあんな程度なのに……」
 室内へと目を移す。
 指先で軽く目元を拭い、視線を彷徨わせた。
 祭壇、十字架、聖母像。
 数列並ぶ長椅子。
 細かな彫刻の施された出入りの為の大きな扉の他に、もう一つ小さな扉。

「君は……あの中に何があるのか、知ってる?」
「……いや……ここにはあまり入らないし。物置か何かじゃないのか?」
「この間は、止められたんだよね、リシャールに」
 立ち上がり小さな扉へ近付く。
 アルヴィンの身長なら辛うじて、身を屈めずに入れそうだった。
 重厚な鍵が掛けられている。
「お、おい」
 ギュスターヴが止める間もなく、アルヴィンは鍵に手を翳した。
 かたかたと錠前が震え始める。
「止められた、って、拙いんじゃないのか、リシャール様に知られたら」
「君は来なくていいよ。見なかったことにしてくれると、嬉しいけど」
 金属の擦れ合う音がし、重い錠前が床に落ちる。
 アルヴィンは鎖を外し、扉を押す。
 ギュスターヴは躊躇ったが、アルヴィンが中に入るのを見て慌てて後を追った。


作 水鏡透瀏

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