「美しい子だったな」
「ええ……」
「それに、少しノウラに似た感じがする」
「とても繊細な子なんだ。傷つけないで下さい」
「私がそんなことをする様に見えるかい?」
「手なんて出さないで下さいよ」
「君が居るのにか? 君以外の何を私が求めるというのだ」
ごろりとアルヴィンを腕の中に抱き込み耳の裏の辺りへと唇を押しつけた。
鬱陶しげに身を捩り、アルヴィンはリシャールを軽く睨む。
一週間の内に、かなり態度も口調も砕けてきていた。呼び捨てにすることも珍しくなくなっている。同い年で同格の相手な対する様な物言いだった。
リシャールは厭うどころかそれを喜ぶので、アルヴィンも馬鹿馬鹿しくなった結果だ。
「大事な子なんです」
「分かっているよ。彼もノウラを?」
「いや、あの子は……ノウラが僕の所を去ってから、僕と暮らし始めたから。だから、ノウラのことは……僕が話したり、家に残っていた痕跡で知っているだけの筈。ただ…………」
「ただ?」
「僕の部屋に来れば、あの子には分かるだろうな。全部」
「そう、なのか?」
「はい。そう、です」
「ふむ……悔しいものだな。私には君が居ないと分からないというのに」
「あの子だって同じだ。僕が居ないと、ノウラとは繋がれない。シリルは、ノウラを知らないから」
「そうだ。……君、ねぇ、あちらこちらに散らばっているノウラを集めて一つにするとか、言っていなかったか?」
「結局貴方は沼に連れて行ってくれないし、もう一度街の聖堂にも行かなくちゃいけないし……それでもまだ足らない。何処かな…………宮廷とか?」
顔を無理に後ろへ向け、リシャールの目を見る。
その様があまりに猫の様で、リシャールは苦笑しながら額に口付けた。
「ノウラに聞けば分かるのではないか?」
「ここにいる彼女に分かるのは、死ぬ前の事と死んだ後にここで起こった事だけだから」
口付けを生温く感じて、アルヴィンは眉を顰める。
直接に触れているリシャールの体温も、何処か不快だった。
温もりは、嫌いではない。季節柄暑いには暑いが、そういう不快さではなかった。
ただ、何処か居心地が悪い。
「だから出来ない」
「そうか……」
また口付けだ。今度は頬に。
どうにも厭になって、アルヴィンはリシャールの腕から擦り抜けた。
「何処に行く」
「暑い。水を」
「私にも飲ませてくれ」
自分が飲む前に、水差しをリシャールの前に突き出す。リシャールは、受け取らなかった。
意図が分かって、アルヴィンは仕方なく水を注ぎ、口に含むとリシャールの腕の中へ戻る。
そして腹の上に乗り上がると唇を合わせた。
水が唾液と混じり合いながらリシャールの口の中へ落ちる。
喉が上下して飲み込んだのが分かる。それでも、唇は離れなかった。
生温い。
軽くリシャールの舌を噛んで逃れる。
「まだ?」
「もう一口貰いたいな」
リシャールに口付ける前に自分でも一口飲み込む。
生温い。
何時からこの部屋に置いてある水なのだろう。
「汲み直してくる」
「構わないだろう? もう一口」
水差しの中身をぶちまけてしまいたい。その衝動を抑えつつ、もう一口口に含んでリシャールと口付ける。
水が、移動していく。
絡む舌の感覚も生温い。
気分が悪かった。
「不機嫌だな。シリル君と一晩過ごしたかったのか?」
「……別に」
「彼は随分と君のことが好きな様だったが」
「兄の様に慕ってくれている。それだけです。僕も彼のことが弟の様に可愛い」
「……君の方が年若く見えるが」
「そうですか?」
「……ああ。……いや、目を見れば分かるな。君は……時折私の倍以上の歳にも見える」
「貴方の観察眼は嫌いじゃないけど」
水をグラスに注ぐのも面倒になって、アルヴィンは水差しに直接口を付けた。
もうあまり残っていなかったそれを飲み干し、行く所もなくリシャールの待つ寝台へ戻る。
枕元の台に置いた蝋燭が小さな音を立てて燃えていた。
「側にいてくれるのだね」
「今だけだ」
「部屋に戻っても構わないのに」
「そうしたら、あの部屋で貴方に触れられる。それは一番堪えられない」
「ノウラが居るからか?」
「ノウラが居るからです。それとも、大人しく寝かせて貰えるのか?」
「それは……君次第だな。君が愛らしくなければ、抱くことはないかも知れない」
顔を見合わせる。
蝋燭の温かくも色の濃い光が、アルヴィンの比較的凹凸の少ない顔を今だけ掘り深く見せていた。
天井に伸びる暗い闇が、アルヴィンのその背から広がっている気がする。
蝋燭の光に濡れる瞳は、美しかった。
「………どうも無理の様だな。君は愛らし過ぎる」
「期待なんてしてないよ。シリルが来て、貴方が僕に何もしないなら……僕はこんな所にいる必要なんて、っぅ」
悪態を吐こうとした唇を塞がれる。
アルヴィンは目を閉じた。
明け方近く。
アルヴィンは自分を抱いて眠るリシャールの腕から抜け出し、寝台を降りた。
忍び足で部屋を出、シリルの眠る部屋へ向かう。
その途中、ぴたりと足を止めて周りを見回した。
起きている人の気配がする。
リシャールは眠っていたし、それを起こすほどの下手はしていない。
かといって、働き者の下働きとも違った。
アルヴィンが気配に非常に敏い質でなければ気づくことはなかっただろう。
リシャールもそれなりの地位だし、諜報専任の配下ででもあるのだろうか。
「……誰?」
柱の陰へ呼びかける。
誰も出てきはしない。
だが、アルヴィンの感覚は的確に人の気配を捉えていた。
「……リシャール様のご命令ですか? ご苦労様です」
害意はなさそうだ。ぺこり、と一礼して、アルヴィンは再びシリルに与えられた部屋へと向かう。
ついてきているのが分かった。
宵闇の中に、アルヴィンが恐れるようなものは何もない。
呆れながらも、するりと目当ての部屋の中へ身体を滑り込ませた。
リシャールといると、自分が不安定になるのが分かる。
目覚めたときに朝日の中で対峙するのが厭で、シリルの寝台に潜り込もうと決めたのだ。
リシャールの与える生温い熱が落ち着かなかった。
どれだけ執拗に抱こうと、リシャールは何処か温い。その温さが気持ち悪い。
いっそのこと、荒々しく穿つだけ穿って終わらせてくれた方が余程楽だというのに、自身の快楽は横へ避けてアルヴィンを弄ぶ。
そんな、半端な優しさなど要らない。
それに引き比べてシリルは本当に、優しかった。まだ若すぎることもあるのだろう。しかしやはりそれだけではなくて、生来の性質もある。
夜目の利くアルヴィンには、シリルを起こさず密やかに忍び込むことができた。
自室に戻ってもよかったが、気分的にシリルの側を選びたかった。
久々だからだろう。
そっと身体を寄り添わせ、軽く手をシリルの背に回す。
優しい温もりだ。リシャールとは違う。
否。リシャールも、優しくないわけではないのだ。ただ、いろいろと履き違えている。それが居心地の悪い原因なのだろう。
シリルの真っ直ぐで強い思念は、アルヴィンにとって心地よいと同時に切ないものだ。
「ん…………」
身体を密接させると、しなやかな腕が身体に巻き付いてきた。
胸元に顔を寄せ、アルヴィンは小さく溜息を吐く。
子供のような体温だった。
リシャールより皮膚も随分柔らかく、瑞々しさに溢れている。
可愛い、可愛い子。
見た目の年は大きく離れていなくとも、アルヴィンにとっては弟か、下手をすれば息子のようにさえ感じるほど、シリルは可愛かった。
シリルもまた、ノウラと同じように、アルヴィンが養っている子供だった。
と言っても、ノウラのように年端もいかない頃に拾ったわけでもない。
三年ほど前にアルヴィンが大きな都市へ買い出しに行っていたとき、処刑場で一組の罪人を睨み付けていた子供、それがシリルだった。
処刑が済み、皆が立ち去った後、片付けられていく遺体をまだ睨みながら、頬を涙で濡らしていた。
暗くなってもまだその場から立ち去ろうとしないシリルに思わず声をかけたのが始まりだ。
その日処刑されたのは、シリルの両親だという話だった。
行く当てがないならと誘い、初めは反発していたシリルも、アルヴィンの真摯さに惹かれて頷いたのだ。
後で聞いた話によれば、シリルの美貌と優れた頭脳に目をつけた役人が手を回し、彼を手に入れるために巡らせた計略だったらしいが、親を殺されてシリルはますます頑なに時の政府を憎むようになっただけだった。
ノウラが去り、一人の身軽さと比例した孤独に物悲しさを募らせていたアルヴィンは、シリルを匿い家族として暮らし始めた。
数年経ち、ノウラからの手紙が届くまで、二人の閉塞した、けれども心地よい生活は続けられていたのだった。
計にはめてまで役人が手に入れようとした人材である。
シリルは大変に頭が良かった。そして、とても鋭敏な感覚を持っていた。
この世界とはどこか別の、美しい世界。
そこまでは役人も知り得なかっただろうが、シリルは特別な子供だった。
ノウラに通じる様な、アルヴィン自身にも通じる様な、その感覚はシリルにとって苦痛でしかないようだったが、アルヴィンと暮らすようになってようやくに落ち着いてきていた。
その矢先に、アルヴィンは手紙に導かれ、家を出てしまった。
不安だったのだろう。眠っていて意識などないというのに、シリルの雰囲気が柔らかく解けていくのが分かる。
届くところにあった頤へと、軽く唇を押し当てる。
可愛い子。
見た目より随分筋肉質な身体を抱き返し、アルヴィンももう一眠りを決めた。
「…………ぅ…………わぁ…………」
腕の中と心がなぜか非常に温かく思えて、シリルは恐る恐る目を開けた。
途端に飛び込んでくるのは、朝日に透ける赤い髪。
ふわふわと綿毛の様な……。
つむじの辺りがちょうど鼻先に来ていて、シリルは思わず口付けた。
アルヴィンの体温は極端に低く、それだけでは温もりと感じることはできないのだが、ただ、男にしては華奢で、シリルやリシャールの様に筋肉の付いた身体ではない為かどこか柔らかだった。アルヴィンの心の温かさが、腕の中の身体が物理的な温もりを持っている様に感じさせるのだろう。
しかし、何故この人はここにいるのか。
あの不遜な男との約束で、ここでは眠らないことになっていた筈だ。昨夜の記憶の中でも、苛々しながら一人で寝たことを覚えている。
リシャールとかいう、あの傲慢な貴族が手放す筈はない。なら、アルヴィンから望んでここへ来てくれた事になる。
あまり朝が得意な方ではない筈なのだが、喜びを隠し切れずに腕の中の身体をぐいぐいと抱き締めた。
「んっ…………」
「アルヴィンさん……」
寝顔がやけに幼い。そもそもが大変な童顔で、本当の年など分からないのだ。三年暮らしても、まだ分からない。
大体、会った時から自分ばかりが育って、アルヴィンの見た目は全く変化がなかった。
変わった人だとは思うのだ。いろいろと。
けれどアルヴィンが微笑んでくれると、聞きたいことも聞けなくなってしまう。
頬擦りをすると薔薇に似た香りがふわりと立ち昇った。
約一ヶ月ぶりの感覚に、シリルは安堵を隠せない。
世情が不安定なのは分かっている。隠遁生活をしながらも、アルヴィンもシリルも情報収集を怠ってはいなかった。情報は、自分の身を守る盾となる。
そんな中で、一見酷く頼りなく見えるアルヴィンが独り旅立ったものだから、それは心配でならなかったのだ。結局、アルヴィンが家を出た三日後には、シリルも家を飛び出していた。
見た目と性質に依らず、アルヴィンはどうやら生きる術に長けている様ではあったが、ただそれだけでは安心できなかった。
追いかけてきて良かった。
案の定、ろくでもない貴族に囲われてしまっている現状が許せない。
例えアルヴィンが許していても、シリルは納得できなかった。
「…………ぅ…………ん…………」
抱き締める腕の力が強い。苦しげにアルヴィンが唸ったのが分かり、シリルは慌てて腕を緩めた。
「ん……シリル……」
「起きちゃいましたか?」
「ぅ…………」
睫は震えているが目は開かない。
瞼の上に口付けて、シリルはアルヴィンの耳元に顔を寄せた。
「おはようございます、アルヴィンさん」
「……んー…………」
律儀なことに唸り声だけ返ってくる。その反応が面白くて、シリルはアルヴィンの頬に音を立てて軽い口付けをした。
「来てくれたんですね。あんなおじさんは捨てて」
「……ぅ…………ん…………ぁ、シリル…………何で……?」
微かに目が開く。まだぼんやりとした視線でシリルの姿を認め、ふわりと柔らかな笑みを浮かべた。
「……ぁ……あぁ……そっか……昨日、シリルもここに来たんだっけ……」
漸く意識がはっきりしてきたらしい。もう少し大きく目を開けて、アルヴィンは微かにシリルの頬へ唇で触れた。
「おはよう、シリル」
「おはようございます。びっくりしましたよ。起きたら貴方がいるから」
「……ごめんね。でも、君と一緒に眠りたかったんだ」
「嬉しいです。よくあのおじさんが許しましたね」
「…………ああ、多分、怒鳴り込んでくるだろうね。起きたら」
「…………そうじゃないかと思いました」
シリルはアルヴィンを腕の中から解放すると、ひょいと寝台から飛び降りて窓辺に寄った。
雨戸を少しだけ開け、外の様子を伺う。
「酔狂ですね、あのリシャールって人。こんな辺鄙な所に城なんて」
「天気はいい?」
「ええ、随分と」
「今日こそは外に連れて行って貰わないとな。何時までも帰れなくなってしまう」
「帰りたいんですか? 本当に?」
「帰りたいよ。あの人の側は、怖い」
鼻で笑いたいのを堪えて、シリルは寝台に戻る。再び寝はせずに腰掛けて、まだ転がっているアルヴィンの髪に手を伸ばした。
アルヴィンの奥底が、リシャールを拒否していないのは分かる。
「そういうことにしておきます。……身体、辛くないですか?」
「うん……大丈夫。疲れは取れてないけど」
「しつこそうですもんね、いい年して」
「ノウラと繋がってるから、離れ辛く思ってはいるみたいだけどね」
「……ノウラさんなんて関係なさそうですよ。貴方って、本当に……自分のことだけ分からないんですね」
「君だってそうじゃないか」
身を屈め、シリルは言い差すアルヴィンに口付けた。
寝起きから繰り返している軽いものではなく、舌を差し入れて唾液を注ぐ。
「んっ……ぅ……ふ……」
「……っ…………」
「……ぁ、っ……ゃ……」
「足りてないでしょう? まだ」
「ぅ…………」
荒々しい口付けだった。
リシャールに嫉妬しているのだ。それが分かって、アルヴィンは目を細める。
この若々しさが可愛い。だが、それと同時にこの棘がシリル自身も傷つけている。思春期故の青臭い繊細さが、シリルの場合あまりよい様には発露していない。
窘める様にシリルの身体へと腕を回し、そっと撫でる。
それでもアルヴィンから導く様なこともまして抗う真似も見せず、ただシリルに全てを任せた。
深い様でいて、あまり技巧のないシリルではそうまで煽られることもない。ただ、触れ合っていることが心地の良い口付けを楽しんでいる二人の耳へ、遠くからの激しい足音が聞こえてきていた。
リシャールの迫る気配を感じながらも、二人は離れる気もさらさらなくただ口付けを続けた。
続
作 水鏡透瀏
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