朝焼けの始まる前の広原だった。
 冷たい霧が覆い、地面の様子を隠してしまっている。
 数時間後には、目にも鮮やかな下草の様子が分かるだろう。
 春の草花の時期が終わり、続いて萌え出た若葉が初々しく、そして、夏に向けて新緑と色とりどりの花々が咲き誇り、よい香りを漂わせる。
 ラーセルム王国中北部に位置するここ、アウカ・ラダームの郊外は、今まさに百花繚乱の頃を迎えていた。
 この広原には薬の材料となる植物が多く自生しており、アウカ・ラダームの主要な収入源の一つにもなっている。

 十四歳も終わりに差し掛かった季節を謳歌しているアウカ・ラダームの町医者の息子リファス・グレイヌール・アトゥナは、医者である母に頼まれ、こんな早朝から薬草摘みに来ていた。
 十四という齢にして手に幾つかの職は持っているものの、未だ定職には就いておらず、親の手伝いは日課である。
 この際医者か薬師を目指そうかとも考えており、勉強も始めている頃だった。
 今日も大きな籠を片手に、様々な種類の薬草を採取しようとしていた。

 まだ夜が白み始めたばかりという時刻の所為か、薬草の売買を生業としている者達も来ていない。
 この時間にだけ採れる特別な植物があるのだが、傷みが早く売買には適さない。
 リファスはそれを頼まれて来ていた。
 空には未だ月も星も、視認できる程の姿を止めている。

 初夏に差し掛かっているとはいえ、この時間は未だ肌寒い。
 リファスは外套の前をきっちりと合わせ、空を見上げた。
 星が瞬いている。
 その側に光が生まれ、斜めに空を落ちた。

 流星だ。
 幾筋かが続いて落ちる。
 いい物を見た様で気分がいい。
 ……が。

「……?」
 続いて落ちた星が、何だか大きくなっている様に見える。
「…………?」
 どんどん近付いてくる。

「うわぁっ!!」
 リファスは思わず首を竦めた。
 流星が地上の何処かに落ちるのだろうという推測をしたことはあるが、まさかこの目で間近に見ようとは思っていなかった。

 思ったよりは大きくはなく、リファスの等身とほぼ変わらないくらいの大きさの光は、頭上を越え、広原の向こうに落ちた。

 地面が揺れる。
 学校で習った流星の様とは、何かが違う様な気もするが、好奇心が勝り、リファスは様子を見に行くことにした。

 地面が微かに焦げて、草の焼ける臭いがする。
 熱の所為か霧が晴れ、薄暗い中に何かの姿が見える。

 それは石の筈だった。
 天からの贈り物の、石の…………。

「っ!!??」
 広原の向こうから、漸く朝日が昇り始める。
 丘陵の緩やかな曲線の向こうから、金糸の様な光線が差し込んだ。
 焦げた地面のただ中がはっきりと映し出され、リファスは息を飲んだ。

 ……人、だ。
 蹲っている。
 長い髪は煤けて黒ずんで見えたが、どうやら銀髪か……極淡い金髪の様だった。太陽の光を受けて、煤けていない部分が輝いている。
 そして、これもまた黒く汚れているが、身体に布を纏っていた。

 それはまだ自分の置かれた状況に気付いていない様で、じっとただ蹲っている。
「あ……」
 何と言えばいいのかも分からず、リファスの口から擬音が洩れる。
 そこで漸く、その人型のモノはリファスの存在に気が付いた。
 互いの間にはまだ、聞こえたとも思えない距離があったが、空気が動いたのだろう。

「!」
 敏捷な動きで何歩分か飛び退る。
 乱れきって顔を覆う髪の間からちらりと瞳が見えた気がしたが、暗くてよく分からない。生き物らしい視線は感じなかった。
 人なのか、人ではないのか、リファスには判別できない。
 それは、遠目にも分かる程小刻みに震えていた。
 手負いの獣の様だ。
 リファスは護身用に帯びていた小剣の柄に軽く手を掛けながら、一歩近付いた。

 リファスの動きに合わせ、もう数歩後ろに下がる。
 けれども、今度は地面を這う様な動きだった。
「……何もしないぜ」
 柄から手を外し、両手を軽く上げる。
 そのモノは聞こえてもいない様に、更に酷く震えているだけだ。
「あんた……人間かい?」

 暫くの間。
 答えはない。
 人の形に見えても人ではないもの。それは、この世界では珍しいものではない。
 ただ、人型の生物は知能の高い場合が多く、大体が人語を解する。
 そうでないものは……。
「……死者の入れ物…………?」
 遺体を魔術や霊術で操る術がまず脳裏を過ぎる。
 しかし、そういったものは夜から朝方にかけて動くもので、日が昇り始めるような時間から行動をするものではない。
 髪や肌も枯れ果てて、この様に煤けていても光を受けて輝く様なものではない筈だ。
 また、生命体を見れば襲いかかるのが常で、逃げる仕草というものが理解できなかった。

 生き物だろうが、そうでなかろうが、こういうモノには関わり合いにはならない方がいい。
 リファスはしごく真っ当な判断を下し、くるりと背を向けて駆け出した。
 一体何だったのか、後で気になって仕方がなくなるだろう事は必至だが、それより、厄介事に巻き込まれない事が肝要だ。

 数十メートル走って、漸く振り返る。
 …………そのモノは、地面に倒れ伏していた。

 泣きたくなる。
 関わらないで済めば一番だったが、リファスはどうしようもない性分を持っていた。
 とかく人生の貧乏くじを引きがちだった。
 更に正義感が強く世話好きともなると、最早業(ごう)としか言えない。
 人だったら…………という思いが振り払えなかった。

 ゆっくり、恐る恐る引き返す。
 己の生まれの不幸を呪いたくなる。
 頭の片隅で、親の遣いを果たせなかったことを考えながら、そのモノの側に寄る。

「あ、あのぉ……」
 ソレは、乾いた咳を繰り返している。
 地面に蹲り、まだ身体を震えさせていた。
「大丈夫ですか?」
 反応が返って来ない。
 そのうちに咳は悪化し、口元を被うのが分かる。
 咳の音が、乾いた物から痰の絡んだ様なものに変わり、一際大きく咳き込んだ。
「っ…………」
 呼吸が酷く荒い。

 漸く少し治まり、口元を被っていた手を地面に付く。
 垣間見えた、光に当たる掌は、血に染まっていた。
 真っ赤な、人間の血だ。
「ちょっ……」
 本気で放っておけなくなる。
 医者の息子であり、当人も目指そうかと考えているのだ。
 目の前の病人を放っておける筈もない。

「あんた、病人かよ! 早く言えよそれを!!」
 肩を掴み、抱き上げる。
 その途端、突き放す様に腕が動いた。
 しかし、その腕は極端に細く、リファスは動じなかった。
 皓い腕は、やはり人間のものだ。
 熱でもあるのか、身体も温かいを通り越して熱い程だ。
 生きて、いるのだ。
「じっとしてろって。とりあえず、医者に連れて行ってやるから」
 聞こえているのかいないのか、首を横に振って拒むが、リファスはそれを無視した。
 その人物はより小刻みに震え、自分の身体を掻き抱く。
 逃れようと少し藻掻いていたが無駄だった。
 そもそも、それ程までの体力すらない様に見える。

 暫く何とかリファスを遠ざけようとしていたが、突然静かになる。
 ぎょっとして様子を窺うと、気を失っていた。
 まだ、死んではいない様だった。

 リファスは腕の中に気を遣いながら街まで駆けた。
 背丈は自分より少し低いくらいだろうが、それにしても軽過ぎる。
 たいしたものは入っていないとはいえ、籠を腕に引っ掛けたままでも事足りた。

 街と広原を隔てる小さな森を抜け、街の中心部近くに建つ家まで帰り着く。
 未だ街は市場を除いて眠りから覚めていない。
 家の中も然りで、しんとしていた。
 診療室の台の上にそれを寝かせ、親の寝室に駆け込む。

「お袋、急患だ!」
「ん……」
「急患なんだってば!! 起きてくれよ」
「……きゅう……かん……?」
 母親の寝台を蹴る。
 その振動で、漸く目が開いた。
「急げって。血とか吐いてるんだって!」
「……!? 何処?」
 飛び起き、側に置いてあった上着を軽く羽織って寝台から降りる。
「診察室だ」
「全くこんな時間から……」
「仕方ねぇだろ、行き当たっちまったんだから」
「はいはい」

「……よくやったわ。お前が居合わせなかったら、死んでいたかも知れない……」
 処置を終えた手を拭いながら、漸く息子を振り返る。
「……そんなに、酷いのか?」
 リファスの眉が顰められる。
 まだまだ、そこまでの見立ては出来ない。
 リファスの母、エリーゼはそんな息子以上の渋面を隠そうともせず、診察台の上を見詰める。
「取り敢えず処置はしたわ。全く目は離せないけど……暫くは持つでしょう」
「暫くって」
「絶対安静。病室、作っていらっしゃい」

 街の規模としてはそう大きいところでもない。医家はここ一軒。
 滅多なことでは入院などする患者もない。
 重い病の者も、自宅で療養が基本だ。
 依って、客間と病室はその時々に応じて同じ部屋を使っていた。

 リファスが急いで診療室を出て行くのを見送り、また診察台の上に視線を移す。
 華奢な身体。長い髪。
 纏った布の間から見える身体には、何の丸みもない。
 聴診器を当てた胸にもただ肋骨が浮いているだけだった。
 エリーゼは診断書に所見を記した。
 男。
 歳は、息子とそう変わりはせまい。
 身元を示す様なものは見当たらない。
 痛々しい程細い左の手首に大振りな腕輪が嵌められていたが、刻み込まれた印はエリーゼには分からないものだった。

 顔を隠す髪を掻き分け、容貌を伺う。
 思わず息を飲んだ。
 煤けて汚れているが、それを補って尚余りある程の美貌が見て取れる。
 繊細で優美な面立ちは、彼がただ者ではないことを匂わせていた。
 迅速な処置の甲斐があり、呼吸は落ち着いている。
 汚れの所為で顔色は判別できなかったが、青冷めているであろう事は容易に想像できた。

 息子が厄介なモノを拾ってきてしまった。
 溜息を吐いて、側の書き物机に向かう。
 心臓と肺、それから気管に重篤な疾患がある。
 素性は知れないが、放っておくだけでも死に至りそうな人間を放置するなど、人道的にも出来ない事だ。

 症状や施した処置などを診断書に書き込む。
 そのうちに、ふと、背後で何かが動く気配がした。
 振り返る。
「何をしているの!」
 思わず叱責が飛んだ。

 台から降りようとして落ちたらしい。
 床の上で、肩で息を継ぎながら震えている。
 処置のお陰で一時治まった症状が、衝撃の所為でまたぶり返した様だった。
 動けず、ただ蹲っている。
「死にたくないなら、じっとしていらっしゃい」
 上に戻そうと肩に手を掛ける。
 条件反射か、手が振り払われ、それは必死の様子で這いながら診察台の下に逃げ込んだ。

 覗き込むと、奥の片隅で自らの身体を掻き抱き、がたがたと震えている。
「何もしないわ。出ていらっしゃい」
 優しく声を掛けてみるが、状態は変わらない。
 歯が鳴る程の寒気があるのか、それとも怯えているのか。
 発熱こそあったが、今の段階では判別できない。
「困ったわねぇ……」
 頬に手を当て、様子を窺う。
 無理に引きずり出す事が出来ないでもないが、この様子では更に悪化するだけだろう。
「いいわ。そうしていらっしゃい。リファスが戻ってきたらそこから出して貰うわ」
 このままの状態であるより、刺激する方が良くないと判断し、放置の形を取って机に戻る。
 そのまま、緊張感を孕んだまま時が過ぎる。

「部屋出来た。……あれ?」
 見回しても姿がない。リファスは首を傾げて母親を見た。
「診察台の下よ。逃げ込んでしまって。早く出してあげてくれないかしら。少し手荒くても構わないから」
「……分かった」
 少し離れた位置から身を屈め、台の下を覗く。
「……おい」
 声を掛けてみる。
 床面に横になる様にして蹲っている。
 反応はない。
 ただ、肩が忙しなく上下している。
 ひゅうひゅうという苦しげな音が耳障りだ。
「お袋!」
「無理にでいいから、早く引っぱり出しなさい」
「分かった」

 問答無用で引き擦り出す。
 拒みはしなかった。
 しなかったと言うより、出来ないのだ。
 殆ど意識がない。
「病室に運んで。口に覆いを付けて、風輝石で空気を送るわ」
「了解!」

 身体から薄汚れた布を剥ぎ着替えさせる。
 病室の寝台に寝かせ、呼吸を補助する装置を口元に取り付けた。
 薄い石の欠片から風が巻き上がっている。魔法石の一種で、風を起こす石だ。
 口の周りを覆い、石の力で一定間隔で肺へと空気を送り込む。

「……リファス。お前、朝っぱらからこんな急患を連れてきて、どうする気なの……」
「だって……ほっとけなかったし……」
 リファスとて、自分の良心が許すのなら厄介事だと知りつつこんなモノを引き受けるつもりはなかった。
「それはそうだろうけど、こんな…………身元も分からない、持ち合わせの一つもなさそうな子なんて……意識が戻らなかったら、ここで看取って、墓地まで送らなくてはいけないかもしれないのよ?」
 人助けは理想だが、理想ばかりでは家業として成り立たない。
 重病人に掛かる金は半端な物ではない。
 いつ命が尽きるかも分からないともなれば、その処理にとて金は掛かる。
 共同墓地に葬るにしても、全く金が要らないわけではない。
 医家であり町でもそれなりの分限者で裕福でもあるが、見知らぬ子供に何処まで尽くせるかはまた別の話だ。
「やっぱり、人だった?」
「人以外の何なのよ」
「いや……話しかけても、全然答えがなかったし……」
「…………言葉が分からないか……耳が聞こえない可能性だってあるわ。だから、厄介事はごめんだって、」
「分かってる。でも……だからって、目の前で苦しまれたら、こうするしかなかったんだって……」
 目に見えて萎れる。
 母親としても、人を助けたのだからそう厳しく叱ることも出来ない。

「暫く様子を見るほかないけれど……」
「俺が出来る限り世話するから」
 懇願され、エリーゼは大きく溜息を吐く他ない。
「そうね。それしかないわねぇ……」


作 水鏡透瀏

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