妙な気配だ。
居たたまれず、ルシェラはサディアが車内に居る事を望んだ。
代わりに、逃げる様にリファスが馭者台へと移る。
ルシェラは縋る様な視線で追ったが、引き止める事は出来なかった。
絶望感に打ちひしがれ、顔も上げられなくなる。
サディアには、掛けてやれる言葉が思い浮かばなかった。
――…………サディア…………このまま、貴女のお祖父様の所へは……参れませんか……――
そんな消え入りそうな言葉も、サディアには肯定も否定も出来なかった。
行こうと思えば行けないわけでもない。
今からなら、急がせれば何とか深夜には着けるだろう。
だが、この馬車はリファスの家のものであるし、馬は長距離を走るものとしては借りていない。
大体、リファスから離れる為に言うのでは、このまま旅立っても意味がない。
その上、そんな無理な行程に、ルシェラの身体が堪え得る筈もなかった。
「リファスと馬車を返し、ジェイ殿に全てを借り直して発つと?」
――……そう……出来ますでしょうか……――
「この馬車の速度が上がった上で、丸一日乗り続ける事がお前に出来るのか?」
ルシェラははっとして身体を震わせた。
サディアは溜息を吐く。
「……どのみち本気ではあるまい。本当にリファスから離れられるのか?」
――……リファス殿が……そう、望まれるのであれば……――
「馬鹿な」
思わず吐き捨てる様になる。
リファスがそれを望む事など、サディアにはとても想像できなかった。
「お前達は、共にある事を望んでいるのだろう?」
――わたくしは……勿論…………けれど……――
「リファスもそうだろう」
――存じません…………側にいて下さるとは、誓って下さった……けれど…………それが、私の望む形であるかは、分からないのです…………――
「何故」
――…………何故……何故でしょう…………リファス殿は、わたくしに何も仰っては下さらない……わたくしは、あの方に全てをお伝えしておりますのに……わたくしが生活上の理由などで求める場合以外に……わたくしに触れても下さらない…………――
細い指が自分の上腕を掴む。
――……先程も……わたくしに手を伸ばそうとなさったのに、結局は触れて下さらなかった。何も仰ってもいただけない……わたくしは……あの方に無理を強いているのでしょう。リファス殿を思えばこそ、わたくしは……あの方のお側にいてはならないのではありませんか……?――
サディアならば理解してくれる。そんな根拠のない信頼があった。
ルシェラは潤む瞳をサディアに向ける。
――……サディア…………どうか、貴女のお祖父様の所へ…………――
膝を詰める。
サディアは眉を顰め、思案する風を見せる。
リファスが恐れているのはルシェラと同じものだ。
ただそれは、ルシェラと共にある時のみに発揮される。
陽の光の元は、ルシェラに対する並々ならぬ執着はあるものの、単品としてのリファスには何の興味も持ち合わせては居ない。
ルシェラと共に外に出た事で、その恐怖に気付いたのだろう。
サディアにはそれが察せられたが、当の本人達には全く分からない事なのだ。
不安に苛まれ今にも涙を零しそうなルシェラを見詰めていると、口の中が苦くなってくる。
このまま……そう、このままルシェラの言う通り、祖父の城へと二人きりで辿り着いても構いはしないのだ。
リーンディルで最終的に合流し神の国を目指す事が出来るなら、その途中からリファスと共にある必要はない。
リファスを必要としているのは、他ならぬルシェラだ。
ルシェラがそう言うのなら……。
サディアは軽く頭を振った。
ルシェラは本心ではない。リファスもまた……本心ではないだろう。
互いに気遣いが行き過ぎている。
「私がとりあえず、リファスに確かめる。その後でも遅くはないだろう?」
――…………はい…………――
我ながら人の良い事だと、サディアは自嘲気味に吐息を洩らした。
リファスの存在がなければ、ルシェラはもう少し自分を見てくれる筈なのだ。だというのに……これでは敵に塩を送るようなものだ。
全てを理解しているが故に、サディアは強引には出られなかった。
ルシェラが想うのはただ一人、それを知らなければ……これほどに苛ついたりはしないのだろう。
サディアは神の国での事も、この地に来てからの事も、殆どを知っている。
ルシェラが心の底から微笑みかけるのは、ただ一人、リファスだということを痛切なまでに感じていた。
当人達だけが知らない。
当人達だけが、覚えている事を許されない。
サディアはより顔を曇らせる。
「もうこのまま、アトゥナ家へ戻るか?」
――……いいえ。もう少し、街を……体調に問題はありませんから……――
「そうか。…………街の、市場の方へお願いします、ジェイさん」
馭者台へと声を掛ける。
軽い返事と共に、馬の足が動き始めたのが分かった。
揺れるに任せ、俯いたルシェラの髪も揺れる。
微かな声がサディアに伝えられる。
――……わたくしの想いは……リファス殿にとって、枷になっているのでしょうね……――
「考え過ぎだ」
――……わたくしには名づける術がないので分かりませんが……この感情は…………陛下が私に向けたものと、似ているのではないかと思うのです…………醜い……理性を曇らせるもの…………側にいたい、側にいて欲しい、それは束縛……陛下が、わたくしに与えたもの……――
ルシェラははっきりと身体を震わせ、身体を抱え込む。
セファンの感情に苦しめられ続けてきた。同じ事をリファスには出来ない。
自分の中に芽生えた感情が恐ろしかった。
――…………明日、早朝、リファス殿が起きる前に出立したい。用意をして頂けませんか――
「お前達は共にあるべきだと思うがな」
――…………リファス殿のお顔をご覧になりましたでしょう? あの方は……わたくしを拒んでいる。拒まれてまで……無理にお側にとは願いません。わたくしの事で、お顔を曇らせて頂きたくない…………――
ルシェラは顔を上げられない。
せっかくの外の景色も、もう見られはしなかった。
――…………かつての事は存じません。大使や貴女の仰る事が真実であったとしても……今のわたくし達は、そのかつてとは違う…………――
「何が違う。無駄に想い合っているだけではないか。互いを思いやり過ぎて身動きが取れないなど、滑稽だ。馬鹿馬鹿しい」
――……何と仰有られても……リファス殿がわたくしを拒む限り、共にある事など出来よう筈がない…………――
ルシェラは頑なに拒み続け、サディアから逃れる様に椅子の端へと身を寄せた。
サディアは溜息を吐き、窓の外を見遣る。
街の門を潜り、道は大きく開けていた。
街道を挟んで両側に開けた街である為、街道を利用した大通りはかなり広い。
有事の際には軍事的にも重要な道である為、田舎とはいえ道は美しく舗装されていた。
門近くは公的な建物が多く、人通りはまばらだ。
「……人心を感じるか?」
――ええ……しかし、大丈夫です……――
僅かに顔を上げ、透かし編みの窓掛けの隙間から外を窺う。
――これは……この馬車に張られた結界の故なのでしょうか――
「いや。煩雑ではあるが、恐ろしいものではないのだよ。ことに、こういった田舎の街はな。ここから慣れていかねば、人の多い都市へは出られぬし、伏魔殿である王宮へは更に行く事など出来ない。ここが恐ろしくないなら……少し窓を開けてみるか?」
――大丈夫でしょうか――
「今のこの状態に無理がないならな。駄目なら直ぐに窓を閉ざし、私と手を繋いでいれば問題はないだろう」
――ええ……そう、ですね…………では、お願い致します――
かたり、と小さな音がして窓の枠が浮く。軽く押すと、嵌め込んだ硝子が垂直になり、風が入り込む。
「寒くはないな」
――ええ……大丈夫です。何か……変わった匂いが致しますね……――
もう少し顔を上げて更に外を窺う。
「昼時が近い。食事の匂いだろう」
――いろいろと入り混じって……面白い……――
形の良い小鼻がひくひくと動いている。
「気分が悪くなったりはしないか?」
――ええ……今のところは。少し馬車に酔ってはいるのですけれど――
「少し止めて貰った方が良いか?」
――いいえ。それには及ばないと思いますが……――
気遣いが過ぎるというのであればサディアも同じ事だろう。
ルシェラは小さく苦笑を洩らす。
「……ルシェラ、市場まで行って、大丈夫か?」
馭者台から硬いリファスの声がかかる。
リファスの声音一つで、ルシェラは顔を青褪めさせる。再び俯いていた。
苛立ちながらも、サディアが応じた。
「私が様子を見ている。無理の様なら声を掛けるから、近寄ってみてくれ」
「……分かりました」
感情が抜け落ちたかの様だ。含まれる温もりが失せると、美声が冷気すら孕んで聞こえる。
サディアはルシェラの様子を窺い見た。
伏せた表情を伺う事は出来ない。
「いいな、ルシェラ」
――……はい……。人を知る事も、民を知る事も、わたくしにはとても大切な事でございましょう……?――
「辛くなれば直ぐに言え。戻ろうから」
――ええ……――
開けられた窓に近寄る。
街の喧騒が次第に近づいていた。
正午前の程よい時間、食堂や喫茶店の類を中心に繁盛している。
小さな街ではあるが街道の要所である。街道はこの街を挟んで南北どちらも当分小さな村ばかりで街がない。
天気も良く、幾つかの小隊商が街道脇で寛いでいる。
昼食時にも商売心は忘れないらしく、お座成りに広げられた派手な布の上に幾つかの雑貨が並べられている。
ルシェラは庇のお陰で窓から光が入って来ない事を確認すると、透かし編みの窓掛けに手を伸ばして僅かに上げた。
物珍しげに外の様子を眺める。
――人が……たくさん……――
感嘆した声を伝える。
時間的に、僅かに人通りは減っている。これで感動したのでは、夕時などには混乱してしまうだろう。
――ざわざわとはしていますけれど……怖くはないものですね……――
楽しいものばかりではないが、ルシェラは怒気も殺気も知っている。知っている感情より、悪意もない、ただ煩雑なだけのものだ。怖くはない。
怖くない事が嬉しく思えて、もう少し窓に近寄る。
「程々にな。陽に気をつけろ」
――ええ。……あの…………何処か、日陰でお外には出られませんか?――
「いきなりか? 無理はするな」
――大丈夫、だと思います。これが少しばかり膨れ上がっても……堪えられると思います――
「堪えるのではなく、防ぐ術を覚えて欲しいのだが」
――防ぐ…………――
サディアの望みが分からず、首を傾げる。
「心に一枚衣を纏う様なものだ。お前にならその感覚も分かろうと思うが」
――よく……分かりません…………――
「衣類を着ずに外へ出はしないだろう? 今の様に。これ程に社会が成熟していれば裸が破廉恥極まりないという理由もあるが……そもそも衣類は、身体の表面を護る為のものだ。衣類が肌を護り、肌が血肉を護る。理屈は分かるだろう?」
――……ええ……それとなくは……――
考えられた例えに、ルシェラは何となくの頷きを返す。
サディアは続けた。
「並みの人であれば、生まれた時から学ぶ事だし、元々心が厚い殻に覆われていて直接に他人を感じたりなどしないのだが……私達の感覚の殻は薄く作られている。その上、お前は学ぶべき事を学べなかった。今から少々手間があっても仕方がない」
ルシェラは意志も強く、はっきりと頷いてみせる。
――心に一枚隔てるものを置いて緩和させる、その理屈は十分に理解致しました――
「後は感覚で身につけるしかない。かつてのお前は知っていたのだから、感覚を思い出すまで訓練を積めば良いだけの事だ」
――はい――
馬車は繁華街へ入る。
街道の両脇に店々が並ぶ。長く庇を作りその下に商品を店頭に並べている店も多く見られた。
色とりどりの果物や野菜が積まれたり、肉を吊り下げている店もあった。海が遠い為に、生の魚を売っている店はなかったが、乾物としては積まれていたりする。
何処を見ても品数が多いのは、街道に沿っているからなのだろう。
その店の並ぶ辺りを過ぎると、今度は長い三階建ての重厚な建物が両側に並ぶ。
一階が奥まって、その手前が二階以上を屋根代わりにした通路になっている。
一つの建物に幾つもの店舗や住宅が入っているらしく、通路を人々が行き交っているのが分かった。
店舗によってはその通路に幾つかの椅子や机を並べ、食事や飲み物を提供しているらしいところもある。
南中時の為、何の店かまでは陰になって伺えない。
「平気か?」
――……ええ…………怖い程のものは…………でも、少し……気分が悪い……――
馬車酔いもあるが、神経がざわざわと無遠慮に撫で回されている。
眉を顰め、僅かに窓から離れた。
青褪めた頬を見て、サディアは咄嗟に窓を閉める。
「離れた方がいいな」
――いいえ。……この辺りで止まる事は出来ますか?――
「無理をするな」
――慣れるものなのか試したいのです。本当に駄目なら、直ぐに申します――
「…………仕方ない。分かった。だが、私が見ていて無理だと判断したら直ぐに戻るからな」
ルシェラの頷きを確認して、馭者台への小窓を軽く叩く。
「この辺りで止まれる所を」
小窓が僅かに開く。
「ルシェラ!!」
リファスが険しい顔を覗かせる。
「少し慣れたいそうだ。私が様子は見ているから案ずるな」
「でもっ、」
「リファス。何の為にルシェラを連れ出したのだ。…………止めろ」
サディアが睨む。暫く二人は睨み合っていたが、リファスが根負けをして勢いよく小窓を閉じた。
馬車は場所を探し、建物の影に足を止める。
「……ルシェラ?」
様子を窺われ、ルシェラは辛うじての微笑みで応じる。
――…………ご心配には及びません…………――
扉が開く。
風が車内を撫でた。
リファスが乗り込んで来る。やはり、自分の目で様子を確かめていなくては心配なのだろう。
「ジェイ殿を一人置いて……」
「今、飲み物を買って来て貰ってます。ルシェラ……本当に大丈夫なのか? お前、馬車酔いも酷いのに……」
抱き寄せ、額に手を当てて顔の様子を伺う。
ルシェラの青白い顔に、驚きと不審感が浮かんだ。
確かに、国にいた時に乗った馬車には酔った覚えがある。しかし、今朝の行き道では気が紛れる事も多く酔いなどしていない。
――…………本日は、まだ……酔ってなどおりませんが…………――
「え、あ…………ああ、それなら、いいんだけど…………」
何故そんな事を口走ったのか、リファス自身にも理解出来ていない。
ルシェラは身を捩り、リファスの腕から逃れた。
――……ご心配には及びません。少し……ざわざわと落ち着かなくはありますが……慣れると思いますから、こうして止まって頂いただけで…………堪えられなくなれば、サディアがお伝え致しますから……――
僅かに尻をずらして後ろへ下がる。リファスから離れる、その仕草がぎこちなかった。
微笑んで見せようとする頬が引き攣っている。
リファスは拳を握り締めた。
――……ジェイ殿が戻っていらっしゃいましょう。お迎えを……――
手指の先がリファスに外を示す。
リファスの唇が噛み締められたのが分かった。
「…………分かったよ。……サディア様。お願いします」
「……ああ」
サディアは軽く肩を竦めて応じる。
名残惜しげながら、リファスは馬車を降りていく。
ルシェラの指先はそれを追い、追いきれずに椅子の上に落ちてただそこを爪で掻いた。
続
作 水鏡透瀏
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