「っ……ん……」
 暖かい。
 ゆっくりと目を開く。
 目に入るのは、穏やかな寝顔。
 死んでいるのではないと近頃には漸く覚えてきた。いきなりでも取り乱したりはしない。
――リファス殿……――
 目を覚ます頃にはいつでも側にいる。こうして、手を握ったまま眠ってしまっている事も少なくはない。
 無理をさせていると思う。
 昼も夜も付きっ切りで看病など、とても出来るものではない。
 その彼に……。

 そっと手を引く。
 触れていてはならない。
 眠る前に、自分は彼に対して何をしたのか。
 全身から血の気が引く思いだった。
 浅ましい。
 客以外に求めてはならないのは基本的な事だった筈だ。
 抑えが効かなかったとはいえ、何と浅ましく厭わしい振る舞いをした事か……どれ程後悔してもし足りない。
 そうは思っても、ただ眠りによって落ち着きを取り戻した身体はリファスの寝息を聞くと共に再び火照りを帯び始めている。
 自由にならない。
 自分の身体の筈なのに、そうではない別の独立したものであるかの様にすら感じる。
「……く……っぅ……」
 身体を掻き抱く。
 震えが起こる。流される……。

「ルシェラ?」
 いつの間にか、リファスの目が開いていた。まだ些か寝ぼけた目が彷徨い、ルシェラの姿を確かめる。
「……ぁ……っ……」
「…………ルシェラ?」
 手がルシェラの頬に添えられる。
 たまらず、ルシェラはリファスの唇に噛り付いた。甘える様に軽く歯を立て、舌で下唇を辿る。
「ルシェラ!! まだ、駄目なのか?」
 無理に引き離そうとはせず、冷静にリファスは問う。
 その声音のひやりとした感触に、ルシェラは我に返った。
「ぁ……ぁ……っ……」
 身を引く。顔を反らせる。薄い肩が震えていた。
 リファスはその手を取り、優しく包む。
「……おはよう。よく眠れた……ってわけではないか。ごめんな。無理に眠らせて……」
 声はいつもの優しいものに戻っている。
 しかし、ルシェラには答えられなかった。
「今は昨日よりは少し落ち着いてるか?」
 反応は返らない。リファスは先を続けることにした。
「…………綿に包んで物を言ったって同じだと思うから……品のない言葉で聞く。お前……自慰とか、真面にした事ないのか? 許して、いかせて……って、普通は、人に頼むことじゃない。自分の手じゃ……いけない?」
 激情を抑えているのが分かる。ルシェラは抗えず、小さく頷いた。
「……何をされて来たんだ、お前」
 首を横に振り、リファスの手から逃れようと藻掻く。けれど、逃れられなかった。リファスの手が力強かった事もあるが、それ以上にルシェラは心の奥底で全てをぶちまけてしまいたい衝動に駆られていた。
「話してくれ。受け止めるから」
 秘め事とそうでないものの区別はなくとも、セファンは国の恥と言っていた。この存在そのものが恥となる。吹聴してはならないと、言い含められてもいる。
 心が再び均衡を失い始める。
 セファンの言葉が一々ルシェラを掻き乱す。

「……客を取ってた事は聞いたよな。客の許しがないといけない、とか?」
 しかし、我慢しろと言われて我慢し切れるものだとも思えない。
 ルシェラは震えながら、微かに頷きを返した。
「出来るもんなのか、そんな……我慢なんて……」
――…………分かりません……分からない………………自分の手で……どうすればよいのか……――
「したこと……ないのか……?」
――収まりがつかず…触れた事はありますが…………それ以上は…………それに、自分の手では、届きませんし…………足りない……――
「届かない? 足りない??」
 言葉の意味を捉えきれず、リファスは小首を傾げた。
 しかし、少し考えて思い至る。思い至るに連れ、耳や首筋まで紅く染まった。
「……え、えっと…………その……前、だけじゃ、無理か?」
 今度はルシェラが首を傾げる番だった。
 ルシェラにとってそれは不可分の事で、どちらにも触れなければ達せない様な気がしているし、真実、どちらかだけでは刺激が足りない。
 「普通」を知らないルシェラに、リファスはそれ以上何をどう伝えればよいのか分からなかった。
「ごめんな……助けてやれなくて……」
――…………いいえ……。無理を申しているのはわたくしです……通常、性的な交渉は男女の間で持つものだという事は、書物や配下のものの言で存じております。貴方にそういったご趣味もございませんでしょうに、申し訳ございません……――
 逃れる様に身を捩る。しかし、リファスは放してくれなかった。

「お前が本当に……心から、嫌悪感もなく俺を求めてくれるなら……俺は多分、何も考えずに受け入れると思う。でも……お前、本当は人に身体を任せるの厭なくせに……」
 ルシェラの目が見開かれ、リファスを凝視する。
 何故分かるのか……。これ程に求めている、その最中の嫌悪感など……これまで、誰にも気づかれなかったと言うのに。
「……辛いかもしれないけど……ここには、お前を助けてやれる人は誰もいない。自分で、自分を解放できる様に……俺もさ、正しい自慰なんてさっぱり分からないけど、教えてやれることは教えてやるから」
 言った後で、何をどうやって教えればいいのかに戸惑う。
 嫌悪感があるなら触ってやるわけにも行くまい。自身には嫌悪感どころか違和感すら感じないが、ルシェラが嫌がる事は出来ない。
――……自分で……ええ……出来る事は自分で致したく思ってはおります。なれど……――
 満足出来ない身体。しかし、これ以上縋る事は出来ない。
 嫌悪感なく求めるなら受け入れる、そう言ってくれはしても、そして、リファスに嫌悪感など微塵も抱かないにしても、自身に対する嫌悪感が並でない以上それ以上を望めはしないのだ。

 不満を抑え堪えるルシェラの表情を見て、リファスは軽く眉を寄せた。
「届かない、足りない、か…………」
――…………お忘れください。どうにか…………堪えられる様、努力致します――
 目の縁が淡く濡れている。
 親指の腹で軽く拭ってやると、ルシェラは微笑もうとして口元を歪めた。
「………………堪えられなくなったから……昨日、あんなに取り乱したんだろ?」
 ルシェラは口元を引き結び、小さく頷く。
「どれが一番無理だと思う? 堪える事、自分の手で処理する事、手伝う事……」
――………………堪え…………いえ、お手伝い頂く事でございましょう?――
「俺は、構わないけど…………自尊心が痛むか」
――……………………浅ましい自分を、これ以上貴方にお見せしたくないのです……――
「浅ましいのはお前じゃない。お前にそう躾けた人間だ。……受け止めるって言ったろ? 口先だけってつもりはない」
 リファスは揺らぎのない瞳で真っ直ぐにルシェラを見詰めた。
 これ程澄んだ瞳で見詰められる事に堪え切れず、ルシェラは顔を背けて身体を小さく丸める。
 この身は、リファスが心を砕く様な存在ではない。
「やっと、自分ってものを考えてくれる様になったのに……」

 呟きに、はっとしてルシェラはリファスの顔を伺った。
――…………自分?――
「そうだよ。大使がいらしてから、ルシェラ本当に頑張ってる。「自分」って言葉が出て来るようになった。凄い進歩だと思うぜ。ちゃんと自分自身に目を向けられるようになってる」
――申し訳ありません――
 一度は見たリファスの顔から再び視線を反らし、益々身を縮める。
「何?」
――我儘が過ぎました……お許しくださいませ。もう……申しませんから……――
「何言ってるんだよ。褒めてるのに……」
 ルシェラとの会話には言ってはならない言葉が多過ぎて難しい。
 気分を害されはしないが、酷く悲しくなる。
 この程度の自己主張を我儘と言ったのでは、世の中どれ程自己中心的な人間が多く存在するというのだ。
「もっと「自分」ってものを大切にしていいんだよ。俺は、ありのままのお前に会いたい。お前の自己主張は我儘なんかじゃなくて、人として最低限保っていなくてはならない自尊心だ。受け止めるって……言った筈だ」
――……しかし……しかし、陛下が……――
「ここにティーア王はいない。大切なのはお前がどうしていたいかであって、ティーア王がどうさせたいかじゃない。違うか?」
――…………けれど、――
「さぁ、聞くぜ。お前は、どうしたい。俺にどうして欲しい。お前の望みなら、俺は何だって叶える様努力する」

 どうしたい……。
 そう問われても、ルシェラには答えられる言葉がなかった。
 困惑し、ただ呆然とリファスの様子を窺い続ける。
 どう言えばリファスの気に入るのか……今まで接してきた人間とはあまりに違う思考で、ルシェラには想像がつかない。
「言ってくれ。お前が思う様に」
 再度促される。
 ルシェラは益々困惑し、混乱して泣き顔になってくる。
「ルシェラ……」
 強く首を横に振り、リファスの求めを拒絶する。
「昨日は無理に眠らせて悪かったと思ってる。いきなりで……心の準備が出来てなかったし……お前も、こんなに話し合えるほど冷静じゃなかったし……もう、自分の心の整理もついたから。お前が何を言ったって……お前を傷つける結果にはならないと思う。信じて……くれないかな……」
 突き上げるのはどうしようもない……抑えようもない愛おしさだ。
 伝えるつもりはない。もっと仲良くなりたいが、それが恋人の関係であればとは願わない。
 ただ……側にいられさえすれば。触れられるほど近くにいられさえすれば。
 その為に必要な事であれば、何だってする。
 ルシェラにも、肌を通じてリファスの並々ならぬ決意は伝わっていた。
 しかし、自分にそうまでリファスに思われる資格などないと、頑なに拒み続ける。

「………………無理か。ごめん。一人で……勝手に言いたい放題して……」
 そっと包んでいた手を引く。
 これ以上言い募ったところで、ルシェラを苦しめるだけだろう。
「ごめんな。でも……辛かったらいつでも言ってくれよ」
 そういい残し、ルシェラから完全に手を離す。
 と、ルシェラの手が伸び、リファスに再び触れた。
――………………わたくしには、貴方に応えるべき言葉がない……けれど、悲しくはないのに、涙が……止まらない…………――
「……ルシェラ……」
――貴方は……本当に…………わたくしを、厭わしくは思わないのですか……?――
 一音一音、確かめる様にリファスへ伝える。
 リファスははっきりと頷いた。
「思う筈ない。お前が望む事なら……俺は、どんな事だって、厭わしいなんて思わない」
――……穢れ、貶められ、人の命を殺めて尚、真面に生きて行くことすら出来ない、このわたくしを、それでも……?――
「ああ」
 リファスはもう一度、確かに頷く。
「今の俺なら……受け止められる。昨日は悪かった。あの後、姉貴と少し話して……もう迷わないから……」
 ルシェラの頬に手を沿わせ包む。
 潤んだ瞳と目が合い、鼓動が跳ねる。
 唇が震え、何か言葉を紡ごうとしたが上手くいかなかった。柄にもなく緊張している。
 言いたい言葉はあった。しかし、寸でのところで引っ掛かり出てこない。
 言いたい事と、言っても良い事は違うのだ。
――……リファス殿……?――
「………………………………俺で、本当にいいなら……助けるよ」

 迷わない。
 そう言った筈のリファスの躊躇いに、ルシェラは不安げに表情を曇らせた。
 リファスはルシェラを強く抱き締め、そして、耳元に唇を寄せる。
「……………………助ける。お前の事は……絶対に…………」
 強い決意を秘めた口調に、ルシェラは滲む様な微笑を浮かべた。
 そして軽く顔を反らせ、リファスの唇に口付ける。
 入り込む舌に、もうリファスは躊躇わなかった。


作 水鏡透瀏

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