「え、あ……あの……」
驚愕と恐怖、そして憎悪の籠もった目で睨まれ、リファスは戸惑った。
本当に、何がいけなかったのか分からない。
口にした音は、それ程気に障るものだったのだろうか。
それとも……。
「もしかして、図星?」
触れていなければ睨む事も出来ない。びくびくと手を引こうとしながらも、ぎりぎりのところで離れない。
「今のは、ただの勘というか、何というか……浮かんできたのを口に出しただけなんだけど……」
それでも、再び起こったらしい警戒心は薄れてくれない様だった。
「…………ごめん」
何処かから逃げてきた、という予想が正しいなら、ただの勘だろうが何だろうが、名前を知っている相手を警戒するのは当然の事だろう。
「どうすれば……信じてくれるかな……とりあえず、あんたの名前はルシェラで合ってるんだな?」
まだ睨みながら、微かに頷きが返って来る。
「それが分かればいいや。俺の事は追々信じて貰えればいいし」
髪をそっと撫で付け、微笑みかける。
人を信じられないのは悲しい事だ。
子供の理想論ではなく、リファスは知っていた。
「何処から来たのか、とか、家は何処だ、とか聞きたいけど、答えてくれるわけないよなぁ…………」
ちらりとを顔を見ても、ただ睨まれているだけで答えはない。
リファスは大げさに肩を落として見せた。
「お金とかも持ってなさそうだし……金目のものって言ったって、その腕輪くらいだもんな」
そう今すぐに困っている問題でもないが、話題が尽きてそう切り出してみる。
ルシェラは少し困った様な表情になり、首を傾げていた。
「何か分からない事でもあるか? って、答えられないんだよなぁ……声はまだ出ないんだよな?」
「……ぁ…………ぃ……」
擬音の様なものは発せられるがそれだけで、ルシェラは首を緩く横に振った。
「字は書ける?」
今度は小さく頷きが返る。
そこでリファスは、先に自分が使った書き物をルシェラに渡してみた。
手を繋いだままでは文字は書けない。
リファスはルシェラの肩を支えるように抱き、書き物をしやすい様に体勢を作ってやる。
触れた身体はひどく熱かった。
再び熱が上がっているらしい。みれば、じっとりとした汗が額に滲んでいる。
ルシェラはまだ警戒する様を解かなかったが、背を支えて貰う他文字を書ける状態にはなれない。
諦めて身体を預け、手にした紙に何かを記そうとした。
しかし、洋筆を持つだけの力はない様で手が強張り、直ぐに落としてしまう。
仕方なく、リファスは後ろから手を重ね、洋筆を支えてやった。
そうして、漸く紙に文字が記される。
「えっと……何々……名はルシェラ、出自はティーア、ここは何処ですか、お金とは何ですか……か……」
決して上手いとは言い難い字だったが、何とか判読する。
「そっか、ティーアから来たのか。ここはラーセルムの中北部にある、アルカ・ラダームって小さな田舎町だ。お金……って……えっと…………何て言えばいいのかな……」
それを尋ねられるとは思っていなかった。説明に戸惑う。
「国が発行する紙や金属で出来たもので、それに記された数字に見合った他の物と交換できるんだ。えっと……あ、これこれ。こんなの」
服を探り、小額の白銅貨を幾つか出してみせる。
「これ一枚で、ロント(こぶし大で汁気が多くしゃりしゃりした食感。甘酸っぱく美味。庶民の果物)一つくらいかな」
ルシェラは目を瞬かせ、白銅貨を物珍しそうに見詰めている。
紙を置き、恐る恐るそれへ手を伸ばした。
一つを摘み上げ、目の前まで持ち上げてじっと見入る。
「初めて見たのか?」
尋ねてみると、繰り返し頷かれる。
しかし、そのうちに再び首が傾げられた。
白銅貨をリファスに返し、その手がそのまま、左手首の腕輪へ触れた。
赤い石に指先が触れている。
指先と石が淡く輝き、その光が薄れるや否や、金貨が数枚転がり出た。
寝台の上に転がったそれを一枚取ってリファスに渡し、見詰めて首を傾げてみせる。
リファスは渡された金貨を光に当て…………息を呑んだ。
「こんな……物凄いのじゃなくていいんだけど。……これ、古アーサラのアンティミア金貨だろ? これはお金じゃなくて美術品だよ……」
慌てて手巾を取り出し、金貨を包む。
リファスの慌て方が分からない。
ルシェラには、もう随分前に貰ったものだが、装飾品に加工する事も出来ず、使う事も出来ず、奥底に仕舞ってあったものだ。
どうでもいい存在だった。
首を傾げたままのルシェラに、リファスは深く溜息をついた。
「ずっと昔のお金だから、今は使われていないんだ。ただ、とても綺麗だし、今残っているものがとても少ないから、額面の何千倍って金額で売買されてるものだ。分かる……かな?」
ルシェラは素直に首を横に振る。
そして、金貨を包んだままの手を握らせた。
リファスは直ぐに手を開き、ルシェラに返そうとする。
「貰えないって。一枚で20年は暮らせるぜ」
ルシェラは困り顔になりつつ、もう数枚転がっていた金貨を全て拾ってリファスに握らせた。
そして、紙に指を這わせ、ものを書く仕草をしてみせる。
リファスは金貨をそっと寝台に置き、ルシェラと手を重ねた。
『わたくしには、不要のものです。全て差し上げます。ですから、わたくしを、許してください』
「…………許す、って、何?」
会話が噛み合っていない。
紙が文字で埋まっている。
ルシェラは書く隙間を探して柳眉を寄せた。
「あんたにこんなもの貰う様な事、俺、何もしてないんだけど」
紙を裏返す。
読みづらいもののまだ開いた場所を見つけ、ルシェラは長々と書き込んだ。
書き込むうちに震え始める。
先程までより、さらにひどい震えだった。
滲んでいた汗が額を伝い落ちる。
呼吸も再び激しくなり、肩が激しく上下していた。
興奮しているらしく、唇などは色の悪いままながら、頬がうっすらと染まっている。
『貴方が何方かは知らない。貴方がもし父上と繋がっているのなら、わたくしがここにいることを伝えて欲しい。許してください。逃げたくて、逃げたわけではないと、伝えてください。どうか、お願いします』
支えている肩ががたがたと震えている。
この文面は本心なのだろうか。
リファスには、どうしてもその様には思えなかった。
「あんたのお父さんなんて、俺、知らないんだけど」
『では何故わたくしの名をご存知なのです』
「だから、さっき言った通り、ただ浮かんできただけだって。あんたに似合う音はどんなのかな、って……ただそれだけで」
澱みなくきっぱりと言い、ルシェラの前に回ってしっかりと目を見詰める。
疑いの眼差しは晴れないが、それでも真摯に見詰められ、ルシェラの瞳が揺らぐ。
リファスはにこやかに微笑みを返してみせた。
「少し落ち着いて、休んだ方がいいぜ。今は苦しいから余計に考えが悪い方に行くんだ」
紙と洋筆を取り上げ金貨を枕元の台に重ねて置いて、リファスはルシェラを横たえさせた。
ルシェラはリファスの服を掴んだまま手を放そうとしない。
「あんたが眠って、起きたって、このままだよ。心配しなくていいから。起きた頃には、食事も用意しておくからさ」
そっと手が開かせられる。
完全に手が離れた時、ルシェラの顔からは再び生気が失せていた。
「どう? 意識は」
「目は覚めた。名前も聞いた。ティーア出身だって」
「……ティーアから、来たの?」
台所に立っていたエリーゼと立ち位置を変わる。
家の中の仕事は、基本的にリファスがする事になっていた。
両親共働きの上に、二人いる姉もそれぞれに仕事を持っている。無職のリファスに家事が回るのは当然だった。リファスの趣味にも一致している為、苦痛はない。
手際よく食事を作り上げ、食卓へと並べていく。
「言ってなかったけど……空から降ってきたんだよ。流れ星みたいに」
「そんな……魔法か何かなのかしら。魔法道なんかじゃなくて、個人で使えるものかは知らないけど」
「多分。……空間転移の魔法は高位だし、早々使えるもんだとも思えないけど……他に考え様がないよなぁ……」
半熟に仕上げた炒り卵を皿に移し、よく焼いた麪包を添える。
「姉貴達起こしてきて。飯出来たから」
「はいはい」
どたどたと階段を駆け下りてくる品のない音が直ぐに聞こえてきた。
そして。
スパーーン!!
と、いい音が響く。
「いってぇぇぇぇっ!!」
リファスは思わず後頭部を抑えて蹲った。
「何すんだよ!!」
「それはこっちの台詞よ!」
背後には、仁王立ちになった次姉エルフェスの姿があった。
まだ顔も洗っていない、髪も整えてはいない、その状態でこれだけ綺麗な顔というのも珍しいものだと我が姉ながら思うが……。
それと中身はまた別だ。
「朝っぱらから騒ぎまくって、睡眠時間が足りなかったじゃないの! 今日の化粧のノリが悪かったらどうしてくれるのよ」
「エル姉の玉の肌だったら大丈夫だって。仕方ねぇだろ、急患だったんだから!!」
「あたしは誰より綺麗じゃないといけないのよ。分かってんの!?」
リファスの頬が思い切り引っ張られる。とてもよく、伸びた。
「いひゃぃ、いひゃぃっへ!!」
「あー、もうっ。あんた見てると余計に苛々するわ」
強く抓んで横に引っ張り弾く。
リファスは目を潤ませながら赤くなった頬を擦った。
「飯出来てるから早く食えよ……。ったく、黙って立ってりゃ美人なのに……」
「何か言った!?」
「いーえ! 早く食べないと冷めちまうぜ、お姉様!!」
食卓には既に母と長姉が着いている。
父親はまだ起きていない様だった。父と長姉は街の衛兵を務めているが、父は昨日夜勤だった為今朝は遅い。
「お前達、よくもまあ、毎朝毎朝凝りもせず」
長姉のエリファが呆れた視線を寄越す。
「しかし、今朝は本当に慌てている様だったな。何かあったか?」
「広原で急患拾っちゃって。病室に入ってるから静かにしてくれよな」
「そうか……様子は?」
「あんまり良くない」
「分かった」
三姉弟、揃って面立ちは良く似ている。
エリファは澄まして食後のお茶を飲み込むと、席を立った。
「エルフェス、お前も今日は早出だと言っていたろう。急がないと遅刻するぞ」
「はぁい」
麪包に炒り卵と野菜を乗せ、エルフェスは一口に押し込んだ。
「行儀の悪い……」
「寝起きが最悪だったんだから仕方ないでしょ」
お茶で流し込んで、さっさとエルフェスも席を立つ。化粧っ気のないエリファに比べ、神殿勤めのエルフェスは支度に時間が掛かる。
空の神殿に勤めるエルフェスはこの国内でも評判の美貌を誇る巫女であり、また一番の舞姫だった。
空の神殿では週に一度奉納舞を行い、それを一般公開している。
その美しさを聞きつけて遥々他国から訪れる客も引きを切らないらしい。
リファスも知り合い達からよく、恋文だの何だのを言い付かる事があった。
それもこれも、この家の中での惨状を知らないからだと、リファスは見た目に騙された者達へ同情を禁じえない。
「リファス、今朝の稽古はまだだろう。外で待っている」
食堂を飛び出していくエルフェスに比べ、エリファは実に落ち着き払って食器を下げる手伝いをしている。
「ごめん、今日は休む。別で朝飯作んなきゃ」
「ああ……そうか。では、昼にでも、素振りくらいはする事だ。一日休めばそれだけ鈍るからな」
「分かってる」
平和な、とても平和な家庭だった。
エリファとエルフェスがそれぞれに職場へと出かけて行き、ほっと一息を吐く。
残り物で自分も朝食を済ませ、父親の食事を温めるだけに用意すると、次はルシェラの病人食だった。
「お袋、何か気をつける事は」
「……そうね……とにかく栄養価の高いもの。それで、できるだけ塩気が少なくてあっさりしたもの。胃腸や食道には一見疾患はなさそうだったけど……問診してないから、食欲とかも分からないし、日常の栄養状態も分からないけど……まともな食事を取っている様には見えないし……何か言ってた?」
「聞いてないや……聞いてこようかな…………でも、今は眠ってるだろうし……」
「起きたら聞けばいいわ。とりあえず、飲み込みやすいものを作っておいたらいいんじゃないかしら」
「分かった」
茹でた芋を滑らかに裏漉しし、熱を加えながら鶏がらで取った出汁と乳で伸ばす。
そこへ、これもまた茹でて刻み摺って裏漉しした青菜を足す。
塩胡椒、乳酪などで味を調えて出来上がり。後は、細かく刻んだ野菜と鶏肉を上に散らす。
料理はリファスの趣味だ。どうすれば美味しいものが出来上がるかを考えるのは楽しい。
彼は美味しいと思ってくれるだろうか。
笑ってくれるなら、それだけでいいのだが。
「お父さんの事は私がするから、貴方はあの子の側にいてあげなさい。貴方が責任を持つんでしょ?」
「うん……」
部屋を出た時からもう一時間近く経っている。
出来た物を深皿に移して、様子を見に行ってみる事にした。
続
作 水鏡透瀏
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