「まだ……痛むか?」
──いいえ。……貴方が触れて下さったから…………──
 頬を薄紅く染めそう伝えるルシェラは例えようもなく愛らしく美しい。
「もう……無理しちゃダメだからな」
 床に伏しているルシェラを軽々と抱き上げ長椅子の上へと戻す。
「それにしても……何なんだ? 陽の光で火傷をする人が稀にいるのは知ってるけど……それ、火傷とかじゃないよな」
「諦めの悪い男が絡んで来ているだけだ。ルシェラ、考えるな」
──っ…………は……はい……──
 ルシェラとリファスの中に割って入り、サディアは二人を交互に睨んだ。
「少しは浮上しただろうが…………今ので戻ったか?」
──いいえ。……まだ……落ち着いております──
「それは良かった。先程の素晴らしい上演が無に帰しては申し訳ないからな」
──ええ……まことに……──
 エルフェスは手拭いで額を軽く抑えながら、側に置いてあった飲み物に口を付けていた。間が空いて、放心状態から抜けている。
 空の神殿の巫女が舞う舞には振りがない。ただ音楽を身体に入れ、身体が動くままに舞う。舞っている間は神に身体を明け渡しているのだとも言われる。
 終わった後には必ず放心状態が待っていた。
 ただそれが途中で切れ、更には放置され、直ぐに意識が引き戻されている。もどかしさと物足りなさが身体の奥底で燻っていた。
「リファス、いい加減手を放しなさいよ。みっともない」
 つい口調がとげとげしくなったところで、仕方のない事だろう。
 促されて引いた手を、ルシェラが取り返す。
──……行かないで下さい…………──
「ああ……」
 髪を撫で、額に口付ける。
「姉貴」
「……仕方ないわね………………全く……」

 手で風を送り火照ったままの顔や胸元を僅かに冷ます。
「……あたし、神殿に戻るわ」
 もう少しなのだ。最後まで舞いたい。
「ああ……姉貴、まだ仕事残ってたんだろ。こっちは、俺とサディア殿下で何とかなるから」
 ルシェラと頬を合わせながら鬱陶しげに一瞥する。
「申し訳ない、エルフェス殿。私もルシェラも貴女の舞には本当に感服している。またいつか拝見させて頂きたい」
「ええ、いつでもお望みのままに」
 深く膝を折って美しく礼を取る。
 そうしてひらりと服の裾を翻し、エルフェス部屋を辞す。
「エルフェス殿には、後ほど礼をしたいと伝えおいてくれ」
「礼なんて。姉貴も、どうせ好きでやってることだし」
「私の気持ちだ。今は何も持ち合わせがないから、後ほどな」
 ルシェラの頬を手で撫でながら、サディアはエルフェスが出て行ったばかりの扉を目で追う。
 艶やかに美しく、自由に舞うエルフェスが羨ましい。
 口に出さずとも、サディアとルシェラに共通する思いだった。
 細い指が伸びサディアの服の端を摘む。
 サディアを見上げる瞳が、悲しげに微笑んでいた。
「分かっている。……美しくも自由な空の民……エルフェス殿は真実、空の神の妻となるべきものだろう」
「そんなご大層な」
「分からないか? まぁ……身内ではそうなのかもしれないが」
 ルシェラと手を繋ぎゆらゆらと揺らす。
「ルシェラ、もう休むか?」
──いいえ。……………………もう一度…………お外に挑戦してみたく思います……──
「ほぅ」
 サディア思わず目を細めた。
 こうまで前向きなルシェラというものも、非常に珍しい。
「今日はもう疲れてるだろ。無理するなよ」
「ルシェラがこう言っているのだ。叶えてやらず何とする。……次は、私と手を繋いでいよう。いきなりだったから、慣れぬお前は傷ついたのかもしれない」
──……はい…………──
 俯き加減に頷くその額と頬に触れ、リファスは首を横に振る。
「前向きなのはいい事だけど……今日はやっぱり無理しない方がいいんじゃないか? まだ少し熱があるし……その割にほっぺたも指先も冷た過ぎる」
「今直ぐにというのは私も感心しない。人々が寝静まる頃まで待ってはどうだろう。夜なら気温以外には気を遣わなくて済む。敷地の外でも月の光がお前を守ってくれる。そこから始めてはどうだ」
 二人に……殊に論理的にサディアに諭され、ルシェラは渋々頷いた。

 気が急いている。
 ほんの僅かな事象にも大きく揺れ動いてしまう繊細な精神が、時を待てずに悲鳴を上げている様だ。
 先の衝撃を忘れたわけでは、無論ない。
 冷たい冷たい無遠慮な手が身体の内側を掻き乱す、そんな感覚。
 それは何処か、知っている気のする感覚でもあった。
 自分が国にいた頃には、常に身近で息を潜めていた存在。
 その、「死」と言うものに似ていた。
 似ている気がするけれども、ルシェラの知るそれとは違う。
 それはその頃には求めて止まぬものであった。依って、ルシェラが男達に与えたもの、与えられた感覚とも異なっている。
 知っているものになら、それ程怯えたりなどしない。
 「死」に近く、そして、その無遠慮な様は陽の光にも似ている気がした。
──貴方がたに従います。わたくしが往来へ出た、あの一瞬にだけ強い感情が流れなかったとは言い切れないでしょう。それを、確かめたい。貴方がたは何も感じなかったと仰せなのですから……──
「ああ。……私も、その可能性については考えた。万に一つもないとは言い切れない事だからな」
 言葉を受けて、ルシェラの少し汗ばんだ額にリファスは軽く口付けた。
「じゃあ、夜まで休めよ。俺もちょっとしなきゃいけない事あるし。サディア様、ルシェラをお願いできますか? 部屋とか、晩ご飯の用意をする間」
「勿論だ」

「やはり、リファスと共にあると言うだけで随分安定する様だな」
──貴方からご覧になっても、そう感じますか?──
 頬の血色が僅かに良くなっている。赤面というには血の巡りが悪い。
「ああ……私も安心する。お前が幸せそうな様を見ると……」
──ありがとうございます──
 与えられた病室に戻り、寝台の上に横になっている。
 サディアはその直ぐ脇の椅子に座り、慰みにとリファスが寄越した菓子や果物が山の様に盛りつけられた皿に手をのばしていた。
「手は大丈夫か?」
──ええ。もう痛みは致しませんし。……お陰で、あまり好ましくない事を思い出しましたけれど──
 手を軽く翳す。甲に浮いた鬱血はまだ色濃い。
 鬱血も傷のうちなればルシェラの身体では直ぐに癒えてしまう筈が、何故か薄らぐ気配を見せていなかった。
「忘れろ……と言っても無理か」
──時が満ち始めている。……逃れられない事です。これまで思い出す事など、全くありませんでしたのに──
「お前もそう感じるか?」
──以前より……より一層陽の光を厭わしく思うのはそう言う事でしょう。あの方の力が強まっている。……折角、つい先ほどまで名も顔も忘れていたのに……──
「お前が不用意に手を伸ばしたのも悪い。だが…………この数十年は、お前もの光に当たったところで弱りこそすれど、こんな直接の印を付けられたり、お前がどうにかして忘れ去ってきた記憶を取り戻したりなどこれまでなかったからな……」
 歯触りの良い果物をしゃくしゃくと噛み砕きながら、サディアは冷めた口を利く。

 ルシェルトゥーラ。
 思い出した名は酷く重く心を圧する。
 出来るなら思い出したくはなかった。
 全ての不幸の源。神々の王の名である。
 響きがルシェラに近しいのは、彼が己の名にちなんでルシェラの名を付けたからである。生まれ落ちた瞬間から、ルシェラの運命はその男の手に握られていた。
 三千年の昔、この今居る世界にルシェラ達が降り立った要因、ハルサ大戦の源も、またこの男に起因している。
 神々の王は太陽を司り、この世の全て……この星のみならず宇宙の大半も統べる存在であった。
 地上に降り注ぐ陽の光の全てが彼の目であり、手であり、また唇だった。
 ただ、そのかつての大戦の際に、神々の国の牢に封じられていた筈だった。
 この地上で言う数万の年の間に数千年、太陽の力が陰に入る時がある。その間、神王は反逆者によって封じられている、その筈だった。
 時が流れ、その期間を終えようとしている。
 神々と争い、雌雄を決し、この地上に平穏を築いた、そうハルサ大戦に関する伝承では言われているが、神々の国の話をこの世界に持ち込んだ、と言うのが、ルシェラ達かつてを知るものの認識である。
 神王が復活を遂げれば、再びこの地上は混乱に陥るだろう。
 ルシェラ達が居るが故に。

「今回の生が戻る時なのだと告げられているのだろう。久々に我ら全員の年齢も揃っている事だしな。だからこそ、お前に早くリーンディルへ行って貰いたいのだ。いい加減に、戻る算段もせねばなるまい。再びこの星を戦場にするわけにも行かないだろう」
──ええ………………ですが……──
 言い淀むその理由を推測して溜息を吐く。
「…………義理堅いな」
──………………まだ朧気なのです。レグアルドの事は…………──
 額に手を当て目を閉じる。
 記憶が錯綜している。
 薄い胸を喘がせ、ルシェラは小さくも重々しい溜息を吐いた。
──その様な……途方もなく大きな事を示されても…………正しく考え判断する事が出来るとは思えません。一つ一つ……わたくしにとっての問題を解決していく他……今のわたくしには動けない……──
 名と顔、そしてその男に纏わる厭な空気を思い出しはしても、まだはっきりとはならない。
 その男を忘れようとするかの様に、ルシェラ緩く首を振った。
「ああ…………すまない。急ぎ過ぎた。私もどのみち直ぐには動けないのだから、同じ事なのに」
──…………それぞれの国に……世界に道筋を付けてからでなくては、この星を去るわけには行かないのでしょう?──
「そうだな…………。この国にも平穏が欲しい。他国に介在されないだけの足場は作ってやりたいものだ。妹達の為に……」
──その為にも、わたくしは是が非でも外に出て、セファン陛下にお会いせねばならない……──
「ああ…………」
 ルシェラは腹を決めている。
 見目儚く、ともすれば優柔不断にも思えるが、これが本来のルシェラの姿である事を、サディアよく知っていた。
 一度腹が据われば、後はなかなかに頑固。
 その点ではサディア自身やリファスの上を行くであろう。
「お前が決めたのならいい。……さぁ、本当に少し休んだ方がいいだろう。息が熱い。熱が上がっているのではないか? 何か冷やすものを貰ってこよう」
──ええ…………──

「まぁ、如何なさいました、殿下」
 水場を求めて家の中を彷徨いていると、丁度診療所を閉めたばかりのエリーゼに出くわす。
 サディアは少しばかりほっとして笑みを零した。やはり、他家の邸内を勝手に漁るのは気が引けていた。
「ルシェラの熱が高い様なので、何か冷やすものを頂きたいのだが」
「まぁ……。これから伺おうと思っておりましたから直ぐに用意致しますわ。リファスは、」
「私の部屋と食事の用意をしてくれている」
「左様でございますか。殿下は、ルシェラ殿下のお側にいらして下さいませ。直ぐに参りますから」
「ああ……頼む。手伝うが、何か持って行けるものはないだろうか」
 エリーゼは穏やかに微笑んでいる。
 サディアの中から、更に気が抜けた。
 これ程おっとりとした人柄で医者がよく務まるものだとは思うが、また、これ程大様な性格でもなければ好き好んで生と死の狭間に立つ職など選びはしなかっただろう。
「大丈夫ですわ。それより、なるべくルシェラ殿下をお一人にはなさらない方が宜しいかと思いますの」
「ああ……しかし……」
「お側にいらっしゃるのは、辛いですか?」
「っ…………」
 図星を指され、一瞬身が竦む。
 エリーゼは穏やかな表情のまま、そっと手を伸ばしてサディアの髪に触れた。
「気が急いていらっしゃるのは分かりますけど」
「…………すみません、アトゥナ夫人……。ルシェラの側で待っています」
「ええ」

 戻ると、ルシェラは目を閉ざして薄い胸を速い速度で上下させていた。
 静かに扉を開ける微かな物音に瞳を開けようとしてか瞼が震えていたが、そこから先に動きはない。
「リファスのお母様がお越し下さる」
──手を清めたいのですが……──
「直ぐに水が来るだろう。それとも……月の光で洗う他ないか?」
──その方が望ましく思いますけれど……まだ夜にはならないのでしょう?──
「随分日は落ちたが……月の光がはっきりするまでには未だかかるだろう」
 腕を上げようともするが、力なく指が敷布を握るに止まる。
──手の甲が熱いのです……焼ける様…………──
「今の発熱はそこから来ているのかもしれないな」
 側に寄り手を握る。
「夜になり、外に出て……それでも未だ混乱し、恐ろしい思いをする様なら……結界を張ったまま移動できる様に用意しよう。そして、そのままお前はリーンディルへ向かえ」
──そんな…………セファン陛下へは……──
「…………アレからお前へ挨拶と詫びに来る様にする」
──…………陛下がわたくしに何を詫びるのです……詫びねばならぬのはわたくしなのに──
「……そんな事で言い合いはしたくないな。ともあれ、お前が動けぬなら来て貰う他な、」
 ない、そう言いかけた時に扉を叩く音がする。
「どうぞ」
「失礼致します」
 医療器具や水桶などを乗せた台車を押してエリーゼが訪れる。
 二人は口を噤み、それを向かえた。
 診療とささやかな治療が済むまで、二人は話を預けて黙っていた。


作 水鏡透瀏

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