――……申し訳ありませんでした……――
 温もりは続いている。抱き合う肌は互いに滑らかで手触りがよく心地いい。
 だが、いつまでも余韻に浸って入られなかった。
 重く圧しかかるリファスを穢したという実感が、ルシェラの身体を突き動かした。
 上体を起こしたかと思うと床に下り、額ずく。
――…………申しわけありません……わたくしは……何と言う過ちを……――
「……何の事だ?」
 軽い動作で一連をしてのけたルシェラに驚きながら、リファスも身体を起こす。
 気怠い。思ったより多少消耗している様だった。だが、その怠さも何処か心地よかった。
 汗の引いた皓い肌の上を、さらさらと漆黒の髪が滑り落ちる。
 鬱陶しげにかみをざっとかき上げ、首を傾げる。
「何謝ってるんだよ。過ちって……?」
――……貴方を穢してしまいました。貴方という美しい方に、わたくしの様に穢れた者が触れてしまった……――
「……また、そんな事…………」
 そう言いかけて、更に首を傾げた。
 何かがおかしい。

「…………ルシェラ?」
――…………申し訳ありません……如何様にも……――
「聞けって!! 何か、おかしくないか?」
――…………何か………………!――
 ルシェラははっとして顔を上げた。そして、自分の目の前で手を振る。
――……触れていない……………………――
「そうだよ!! そうだ、触れてない。でも、俺、お前の声が聞こえてる!!」
 寝台から飛び降り、リファスはルシェラを抱き締めた。
 ルシェラは驚きのあまり身動きが取れない。
「良かった……声は、まだ出ないのかもしれないけど……でも、少しずつ良くなってるのは確かだよな」
「ぁ……っ……」
 リファスの言葉を受けて試してみるが、やはり声は出ない。
――やはり……無理な様です。でも、触れていなくても……貴方のお声が聞こえましたし、お姿も…………――
「見える!?」
――はい。…………もとより、そう目はよくありませんから、この距離でも貴方のお顔がはっきりと拝見できない事は、残念に思いますが……――
 手がリファスの頬に添えられ、指先が目鼻を辿る。
 ルシェラの顔に輝く様な笑みが浮かび、しかし直ぐにそれは涙にとって変わられた。
――……この目で直接に……貴方のお顔を見られる日が来ようとは…………思いませんでした…………――

「苦しくはないか? ちゃんと動けるみたいだけど」
――ええ……――
「発作とかも、起きてない?」
 ルシェラの顔を確かめる。
 血色は良く、青白かった肌が紅を刷いた様にうっすらと紅く染まっていた。
 硬質な美貌から、ふんわりと優しげに、愛らしくさえ見える雰囲気に転身を遂げていた。
――はい。貴方のお陰です――
「俺は何もしてない。……普通、あんなこと、したら……身体に負荷がかかって症状は悪化するものだと思うんだけどな……」
――貴方の命の力がわたくしを満たして下さった……貴方こそ、ご無事でいらっしゃるのですか? わたくしに命を与えてくださった方々は……これまで、陛下を除いて一人として生きていた覚えがございませんのに……――
「ああ。ちょっと疲れてる気もするけど……朝っぱらからあそこまでやれば、疲れもするだろ。朝飯も食べてないし」
――貴方が生きていて下さる事を、心より嬉しく思います……――
 それ以上は言葉もなく見詰め合う。
 握り合った手。
 互いの熱が熱い程だった。

 暫くして、漸くリファスはその状況の恥ずかしさに気付き、軽くルシェラから身体を離した。
 ルシェラはうっとりとしてリファスを見詰めたままだ。
「とりあえず、服着よ。このままじゃこの季節だって風邪を引くぜ」
――ええ……――
 リファスが立ち上がるに連れ、ルシェラも抱きついたまま立ち上がる。
「一人で立てるか? 着替え、取ってくるけど」
――ええ、恐らくは――
 恐る恐るリファスから手を放す。足は震えもせず、自身の身体を支えていた。
――立てる……立てます、ちゃんと、自分の足で――
 軽く興奮してルシェラはにこやかに告げる。
 年齢よりもいささか幼く見える程のその様子に苦笑しながら、リファスは手を引いてルシェラを寝台に座らせた。
「待ってて。立って歩けるなら寝間着じゃない方がいいだろ。着られそうなもの、取って来てやるから」
――はい――
 ルシェラの額に口付けを一つ落とし、リファスは脱ぎ散らかした服を着なおしてそっと部屋を出た。

 もう少し幼い頃に自分が着ていた服を奥から幾つか引っ張り出す。
 軽く日に当てて窓の外で叩いた。とりあえずはそれで我慢して貰う事にする。数着今日のうちに洗っておけばいいだろう。
 自然に笑みが満ちる。
 ルシェラが元気になってくれた、その事が本当に嬉しくて仕方がない。
 幾つか衣類を抱えて廊下に出る。
 と、
「リファス!」
「あ、エル姉っ……」
 どきりとする。
「……こっちに来なさい」
「な、っ何で、エル姉、この時間にまだ家にいるんだよ」
「来なさい、って言ってるの!!」
 思いの他強い力で腕を引っ張られ、自室に連れ込まれる。

「っ、ぐぁ……っ」
 目から火花が散った気がした。
 部屋に入るなり頬に強い衝撃を受け、予期もできなかったもので側の家具に弾みでぶつかる。
 口の中を切ったらしく血の味がした。
 じんじんする頬と家具に当たった腕を擦りながら、エルフェスを睨む。
 しかし、それを上回るエルフェスの表情と握り締めた拳にリファスは思わず怯んで息を呑んだ。
「……エル……姉……?」
「弁解なんて聞かない。あんた、今すぐこの家を出て行きなさい」
「何言ってんだよ!?」
「あんた、殿下に何したの」
 心臓がぎゅっと縮まる思いがした。
 身を竦ませ、俯く。
「言わないって言ったのはあんたでしょ!? それなのに、あんた……」
 唇がわなわなと震えている。
「…………言って……ない……」
「…………………………あんた…………言いもせずに……!!」
 胸倉を掴まれても、リファスには抵抗できなかった。
 睨む視線から何とか逃れようと顔を背ける。

「何で……姉貴が知って……」
「何でもへったくれもないでしょう!? お母さんやお父さんは起きるのが早いし、一階にいたりもう出勤してたりで気付かなかったみたいだけど……あたしの部屋からは近いの!!」
「……声……聞こえてた…………か……」
「当たり前でしょう!! 病室は確かにある程度の防音は効いてるけど、あたしの部屋までは筒抜けなのよ」
 不味かった。
 素直にそう思う。家族の事など、完全に頭から飛んでいた。
「別に、あんた達が男同士だからとか、何だとか、そういう事じゃないのよ。殿下のあれだけ弱ったお身体に対して、あんたは何をしたの」
「…………何、って…………」
 直接言うにはあまりに憚られる。
「で、でも…………ルシェラは、今は体調も良くなってるし……」
「そういう問題じゃないでしょ!! あんた、大切で壊したくないって相手に、相手の体調が悪い事が分かってる状況で何をしたのかを聞いてるのよ」
 そう言われると立つ瀬もない。
 結果は好転したが、流されてはならない状況の筈だった。
 今はそれで良かったと言えるが、エルフェスの言い分は至極もっともなものだ。

「出て行かないなら、ここで引導を渡してあげるわ」
 リファスの胸倉を掴んだまま、エルフェスは数歩部屋奥に入り、立てかけてあった剣を取った。足も器用に使い、鞘から引き抜く。そして、リファスの首筋に宛がった。
「あんたがここまで大馬鹿者だとは思ってなかったわ。血の繋がりがあるのも厭」
 剣を構え直す。
 ここまで激怒した姉を見たのは初めてで、止める術さえ思い当たらない。
 リファスは覚悟してぎゅっと目を瞑った。

――駄目ーーーーっっ!!――
 頭の中いっぱいにルシェラの声が響く。
 ふっと身体が軽くなった。
 最後に聞けたのがルシェラの声でよかった……などと一瞬考える。
 エルフェスの手が離れ、身体が床に落ちるのが分かった。
「殿下、何故……」
 エルフェスの驚いた声がし、薄く目を開ける。

「……る……シェラ…………?」
――駄目……お願い、お願いです……お姉様……お鎮め下さい……――
 エルフェスにルシェラが縋りついていた。
 その弾みでエルフェスの手はリファスから離れた様だ。
「殿下、お放し下さい! 愚弟が大変なご迷惑をおかけ致しました事は、命を持って償わせますから」
――違います、お姉様!! わたくしが、リファス殿にお願い申し上げたのです。わたくしは命の力を食らわねば生きていけない。その力を、リファス殿に十分お分け頂きました。その手段が、大変望ましくないものである事は、わたくしも十分に理解しております。リファス殿にはご迷惑をおかけ致しました。ですから……どうか……――
 柄を握ったエルフェスの手を開かせ、剣を取る。
 それを床に捨て、ルシェラは庇う様にリファスに向き直って抱きついた。
「ルシェラ……」
――大変な感情を感じたので……来てしまいました。待っている様に仰られましたのに、お言葉に従わず申し訳ありません……――
 ルシェラは身体に掛け布を巻いただけの姿でいる。
 あられもない姿でありながら、宗教画の聖女の様だった。
「いいんだ……興奮して、大丈夫なのか?」
――ええ。今までで一番身体が軽い。大丈夫です――
 リファスと頬を合わせる。
 その肩越しに、エルフェスと目が合った。

――お姉様……わたくしの声が聞こえますでしょうか――
「……殿下……ええ…………」
 エルフェスは困惑し、眉を寄せる。
――わたくしに対し、お気遣い頂いて、本当にありがとうございます。なれど……わたくしが、リファス殿にお願いしたのです。リファス殿には、何の非も咎もございません――
「しかし殿下、それは……結果としてよい事であったかもしれませんが、愚弟は、まず殿下のお身体を思うなら絶対に出来る筈のない事をしでかしたのです。罰は当然の事ですわ」
――…………わたくしから……光を奪わないで下さい……――
 涙が溢れている。
 リファスと頬を合わせたまま、ルシェラは上目遣いにエルフェスを見た。
 縋る様な瞳に、エルフェスは益々困惑する。
「リファスが……光だと仰るのですか……?」
――闇の中の一条の光……リファス殿は、月の光の様に私の心の闇を晴らして下さる。ずっとわたくしが求めていたものを全て与えて下さる。……リファス殿がわたくしを厭うのであれば無理にとは申しません。けれどそれ以外の事由によっては……離れたくない……――
 リファスに縋る腕の力はひどく強い。
「しかし殿下、これは殿下のお身体の事を慮る事も出来ない人間です。お側には相応しくありません」
――……相応しいか、相応しくないかは……わたくしが決めます。リファス殿は大変優れ、美しくお優しいお方です。リファス殿にお助け頂いた事をどれ程運命の神に感謝している事か……とても言葉では表せられない……――
 身体が楽になると同時に、ルシェラ本来が持っていた自我が表せられ始める。
 願い求めながらも、瞳が美しい輝きを帯びていた。
 それは、セファンが求め、ダグヌが夢見てきたものに相違なかった。
 ここにてはこれまで、リファスとエルフェス以外に意志の疎通が適う者がなかった為に、エルフェスも幾度となくルシェラの様子を見守って来たが、その二週間のうちでルシェラがこれ程意志を明確にしたのは初めてだった。

「殿下……それ程までに、リファスが大切ですか?」
――ええ、何にも代え難い程に――
 即答だった。
 エルフェスは暫しルシェラと見詰め合い、小さく溜息をついた。
「殿下が……それほど、この愚弟をお気に召したのなら…………引き離しは致しません。けれど……………………リファス。本末転倒だわ。言わなくてはならない事があるでしょう。けじめくらい、つけなさい」
「う…………うん…………」
――……どうか、なさったのですか?――
 促され、僅かに身体を離し、リファスはルシェラとしっかり目を見合わせた。
 ルシェラは不安げにリファスの様子を窺っている。
 リファスは思わず息を呑んだ。
 ごくり、と不自然に喉が鳴る。
――……リファス殿……?――
「不安にさせてごめん。……姉貴の言う事なんか、気にすんな」
「リファス!!」
「…………ルシェラ、冷えるよ。服着よう」
 床に散らかっていたルシェラの為に用意した服に手を伸ばし、一つを取って華奢な肩に掛ける。
 言えなかった。
 ルシェラがどんな言葉を掛けてくれようと、伝えられない。
 思い合ったが為に、ルシェラは一体どれ程の苦労を背負い込んだのだろう。
 その思考が既に不審な事にも気がつけなかった。
 ただただ、ルシェラの事が大切で仕方がない。
 だから、何も伝えられない。

「リファス、あんた、男でしょ!!」
「姉貴!! もう、ほっといてくれ!! 言ったろ、俺は……」
 言葉が続かない。
 ただ、ルシェラを抱き締め直す。
「俺は…………ルシェラの側にいられるなら、ただ……それだけでいい…………」
――リファス殿………………ありがとうございます……ありがとう…………――
 言うつもりはない、それでも、その思いだけは口にしないわけにもいかなかった。
 エルフェスは不甲斐ない弟に不満を持ちながらも、その事だけでもルシェラに伝える事が出来たという事で、今この場は納得する事に決めた。


作 水鏡透瀏

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