楽しい筈がそうでもなくなった夕食が終わり、ファディスはルシェラとサディアに遠慮しながら外へエリファの様子を見に出て行く。
 食後の茶と菓子を嗜みつつ、サディアは外の様子を伺っていた。
「月は昇った様だな」
「…………本当に、もう一回出るつもりか? 明日にした方が……」
──いいえ。……折角の事です。それに……三月……リファス殿がアーサラ王にお会いになる際に、わたくしは一人になりたくない……──
 華奢な手がリファスの手をぎゅっと握る。
──今のままでは……お連れ頂けないのでしょう?──
「お前を守る為だ。仕方がなかろう」
──…………打てる手は尽くします。それでも無理なら……諦めも致しますけれど。先程、リファス殿ご自身が仰有ったではありませんか──
「後三ヶ月もあるんだぜ。それこそ、そんなに急がなくてもいいじゃないか」
──その三月の間に、わたくしが動けそうな日が、どれ程ございますでしょうか──
 言葉に詰まる。
 回復するという期待を捨てきれないではいたが、それが単なる希望に過ぎない事もまた、よく知っている。
──少しずつ…………急いている訳ではございません。サディア、わたくしは慣れなくてはならないのでしょう?──
 手を握りあったまま、サディアを振り返る。
 サディアは肩を竦め、軽く頷いた。
「ああ…………。リファス。気の済む様にさせてやってくれ。ルシェラがこうまで意地を張るのは……それなりの理由に基づいているものだろう?」
──貴方や……お父上様の感情にも戸惑い、恐れも致しますが…………陽の感触を思い出しては……そうも言ってはいられない……──
 意志の滲む瞳でリファスをじっと見詰める。
 そうして見詰められては、リファスも折れるしかない。
「今度は……ずっと手を繋いでるからな」
──ええ……お願い致します──
「じゃあ、先に片づけしてくるから。ちょっと待ってて」
 幼い子供に言い置く様に言われ、ルシェラは苦笑しながら頷いた。
 額にそっと与えられる口づけが、たまらなく嬉しかった。

「…………あの子、あんなに人に触れるの好きだったかしら…………」
 エルフェスの疑問も無理はない。
 リファスはどちらかと言えば、人に触れる、触れられる事を恐れる質だった。殊に男相手は極端に嫌う。
 人に触れられる事に、余りよい記憶はない。
 二つ、三つ年上のエルフェスは、弟の大体を見てきている。
 積極的なリファスなど、ルシェラがこの家に来て初めて見た様なものだ。
 ルシェラが同輩で、男とはいえ華奢で弱々しい存在だった為なのだろう。
 姉から見てもリファスは複雑で、触れ合いにはひどく敏感な癖に、面倒見はよいし人自体が嫌いというわけでもなく、どちらかと言えば人懐っこい。
「ルシェラが相手だからだろう……。ルシェラも、私やリファスならばともかく、あまり人に触れるのは得意でなかろう?」
──……よく……分かりません…………けれど、男の方に触れられる事は、あまり……。……よい思いもしては……参りましたけれど……わたくしの望む事ではございませんでしたし……──
「踏み込んだお話を……申し訳ありません」
──いいえ。リファス殿には……もう既にお伝えしている事ですから──
 伏せがちの瞳に、震える薄い肩。女にも感じる程の幽玄な色香が漂う。
 襲いたくなる男の気持ちが察せられた。
 美しいというのは、こういうものを言うのだろう。それなりに自信もあったエルフェスだが、ルシェラを見ていると完敗を痛感する。
 これを踏み躙るものがあるのだ。
 新雪を踏み荒らす様な……その昂揚感を理解しないでもないが、それ程不躾で無遠慮にも出来ていない。
 穢されても、穢れないもの。いつまでも、清冽なもの。
 ルシェラは確かに、特別なのだろう。
「リファスと……ルシェラ殿下は、一体どの様な関係ですの?」
「……申し上げにくいな…………」
「仰有りづらい事と言うものの察しはつきますけれど、その辺りはもう……今更ですわ。母も、知ってた方がいい事だと思いますし。今、ルシェラ殿下の主治医なんですもの。リファスの親としては……複雑だろうけど」
「…………ご存じなのか、貴女は」
「うちの壁は薄い方じゃありませんけど……聞こえる時には聞こえてしまうものですわ。わたくしがお伺いしたいのは、そういう事ではありませんの。ティーアの大使様からも、昔のリファスというのはお伺いしておりますけれど……弟の事でございますし、どうも、納得できない部分も多くございますもので」
 十七歳と十四歳の少女同士の会話ではない。
 エリーゼは側で聞きながら、眉を顰める。

「はしたないこと……」
「…………って、お母さん、気づいてたの!?」
 内容を聞いていても驚きもしない母に、エルフェスの方が面食らう。
「息子の事でしょう。お前よりはねぇ……」
 エリーゼは悠然と微笑む。
 エルフェスにはその母の事が理解できない。
「じゃあ、何で何も言わなかったのよ。あの馬鹿、殿下の弱ったお身体にとんでもない事をしたのよ!?」
「……あの子から……求めたのではないでしょう。それこそあり得ないわ。それでも……あの子は認めた。そっちの方が嬉しかったからかしらね。殿下があの子を求めたのだとして……それだって、殿下が少しは精神的に立ち直られた証でしょう。ただ怯えて、震えるばかりだったのに…………殿下もご自分のお身体の事は十分にご存じだし、亡くなられた際の覚悟も、出来てはいらしてよ。何時だって殿下も……私だって。そもそも、ここに殿下がいらっしゃる事自体がおかしいのですもの。どの様にも言い繕えるわ。ここに殿下がいらっしゃる事は、この家の中だけの秘密なんだし」
「信じらんない……」
 額に手の甲を当て、深く椅子の背に凭れる。
 ちらりとルシェラを盗み見た。
 ルシェラ何も理解していない様子で、困惑した様にサディアの様子を伺っている。
「何時から知ってたのよ」
「何時……って……リファスの心が傾いていくのは見ていて分かったでしょう? はっきりとそうなったのは四日くらい前、かしらね」
「…………当日じゃないのよ……」
 呆れて言葉もない。
「態度も仕草もまるっきり変わったもの。分からない方がおかしいわ」
「……そんなに変わった?」
「目も当てられないじゃない。見ている方が恥ずかしい」
 ルシェラをちらりと見て苦笑する。
 ルシェラは小さく首を傾げて瞬きをする。
「それは……ごもっとも」
 当てられて仕方がない事を思い出し、エルフェスも苦笑する。
「感情的に厭だとか、一般的な規範とか、そう言う事じゃないのよ。下手に口なんて出したら、リファスは殿下を背負ってでも……この家を出て行くでしょう。その方が危ないじゃないの。分かっていて死人は出せないわ。余程後味が悪いでしょう?」
「あの子も……思いこんだら、何をしでかすか分かったもんじゃないもんねぇ……」
 二人の会話に、サディアは心からの安堵を覚えていた。
 男同士だ。普通に考えて、受け入れられる方がおかしい。
「よかったな、ルシェラ」
──あの……何のお話なのですか?──
「お前とリファスが仲良くなる事について、リファスのご家族から了承が得られたのだ」
──あぁ……それは………………大変に……嬉しい事……──
 微笑みが滲み、瞳から幾筋かの涙が流れ落ちる。
 エリーゼとエルフェスに向き直って僅かに身を乗り出して二人の手を取り、額に押し当てる様にする。
──心より……感謝致します…………──
「殿下……」
 エリーゼの空いた手が伸び、ルシェラの髪を優しく撫でつける。

──リファス殿が、お許し下さる限り…………わたくしが、リファス殿のお側におります事を、お許し頂けるのでしょうか──
「勿論ですわ、殿下」
「エルフェス、殿下は何と?」
 エリーゼには変わらずルシェラの声が聞こえない。
「殿下はずっと、リファスの側にいらしても……いいわよね?」
「ええ、それは、勿論……。私達の持つ権限の限りには……」
 全てを肯定してしまえないながら答えが返ると共に、ルシェラは深々と頭を下げる。
 肩が震え、泣いている事が分かった。
「母上が許してくださったのだ。よかったな……」
――……申し訳のないこと…………――
 リファスの今後を奪ってしまう。それが許されてよい事だとは到底思えない。
 しかし、この湧き上がる喜びを捨て去る事など、それ以上に考えられもしなかった。
「リファスを……愛してあげて下さいね」
 エリーゼに続いて言われた言葉に、ルシェラは泣き腫らした目のまま僅かに顔を上げ、小さく首を傾げた。
 不安げに視線が彷徨う。
 「愛」という言葉に、身体の奥底から震えが起こる。ぶるりと震える身体を思わず掻き抱いた。
「殿下?」
「ルシェラ?」
──ゃ…………ぃや…………ぁ……──
 耳を塞ぎ、身体を折り曲げて苦痛を示す。
 そんなものを求めてはいない。
 その言葉は、ルシェラにとってただの恐怖に過ぎなかった。その言葉の下に、躾と称した苛みがどれ程齎されただろう。
 恐怖と共に沸き上がるのはそれでも、セファンに対する謝罪の気持ちだった。
 気が、余計に逸る。

「そろそろ、外に行くか────ぁ? どうした、ルシェラ!?」
 折良くリファスが炊事に濡れた手を拭きながら戻ってくる。
 ルシェラに駆け寄り、サディアから抱き取った。
「何か言われたのか?」
 ルシェラはただ首を横に振る。
「何か怖い事でも感じた?」
 答えが返らない。
 覗き込んだ顔には血の気がなかった。
「何があったんだよ」
 エリーゼやエルフェス、サディアの表情を確かめるが、皆首を傾げて心配げにするだけで要領を得ない。
「…………お前を……愛してあげて欲しいって…………余計な事を言ったのね、私」
 リファス眉を顰め、舌打ちをする。
「…………マジで余計だぜ……。ルシェラ、母さんの言う事なんて気にするな。お前は、お前がしたい様に……俺と接すればいい。それだけなんだから」
──…………愛…………なんて……そんな……そんなもの…………──
「うん…………。うん。分かってるから……」
 繰り返し頭を撫でつける。
 額や髪に、何度も口付ける。
 誰が見ていようが関係などなかった。ただ、ルシェラが落ち着けばそれでいい。
「もう……今日は下がって休もう」
──い……いや…………厭です……いや……──
「こんなに混乱して、怯えてるのに……外になんて出られないだろ」
──陛下に……謝らねば…………──
「ルシェラ……いい加減にしろよ。頭の中の整理が出来たら、お前の言葉にも付き合ってやるから」
 リファスは強引にルシェラを抱き上げた。
「っぁ、あ……!」
 ルシェラは暴れ、リファスの腕の中から転げ落ちる。
 その衝動が障ったのだろう。蹲り、顔も上げない。
 リファスを押しのける様にエリーゼが傍らに寄り、細い手首を取った。
 時計を見ながら慎重に脈を取る。
「………………大丈夫ね……。脈の乱れについて行けなかった様だけど……もう落ち着いてきたから……」
 ほっと息を洩らす。
「暫く動かずに安静にしていた方がいいでしょう。部屋も遠いわね……リファス、そこの長椅子を作って頂戴」
「分かった!」

 サディアが繰り返し髪を撫でている。
 リファスもエリーゼもそれとなくルシェラに拒まれ、側に寄れるのはサディアとエルフェスのみだ。
 確かに少し動悸が上がっただけでルシェラは直ぐに落ち着きを取り戻しはしたのだが、何処か不安と恐怖を隠せないでいる。
「ルシェラ……無理を通すものではないぞ」
──でも…………大丈夫です……──
 瞼を上げるのも億劫なのだろう。半分程目を開けて、虚ろな視線をサディアへ向ける。
「何を根拠に言っている。お前が無理をすれば、その後、誰にどの様な手数をかけるか、よく分かった上で言っているのだろうな」
──…………しかし……──
「お前の気持ちが分からぬではない。だが……状況はよく見るべきだろう」
──…………陛下の事を……抜きにしても……このままでは、わたくしは……リーンディルへも……行けない……──
 口を開かなくて済む分、話はまともに出来る。
 言葉への拒絶も、今は抑えの効く程の様だった。
──世界を見たい、その想いに変わりはない…………──
「…………そう…………そう、だな…………お前はその身体故に……この世界をまともに見てもいなかったか……」
──何処にあっても……わたくしは、極狭い世界に触れるだけ……殆どを知りません……──
「………………エリーゼ殿。申し訳ないが、ルシェラが今以上に体調を崩した場合に備え、用意をお願いしたい」
「サディア様!!」
 制止の叫びを上げるのはリファスだ。
「畏まりました。エルフェス、手伝って。リファスは……ルシェラ様と一緒にいるのでしょう?」
「で、でもこんな……ルシェラ、無理だって」
 ルシェラの傍らに跪く。
 その方に、サディアは手を置いた。
「リファス……未だ時は満ちない。ルシェラが死ぬ事はない。これだけの事を言えるなら、今以上に心が壊れる事はないだろう。身体の苦しみも理解した上でこうまで意地を通そうとする。なれば……やはり、彼の思う様にさせてやって欲しい」
──……リファス殿…………お気遣い頂いて……申し訳ありません……お手数ばかりをおかけして……──
 手がリファスへと伸び、髪や頬に触れる。
 直ぐ様その手を取り、自分の頬へと押しつけた。
「…………お前が苦しむ顔なんて見たくない…………」
──……申し訳ありません…………──
「………………分かった。お前が望む様にする…………」
──……有り難うございます……では……──
 手を解き、腕をリファスへと伸ばす。
 それを肩に乗せる様にして折れそうに細い身体を抱き上げ、足を床へ付かせる。
 蹌踉めく身体を抱き止め、後ろからしっかりと支える。
「歩き方は分かるよな?」
 重くなる自分の気持ちと空気を感じ、軽口を叩く。
 ルシェラは軽く振り返り、リファスなりの気遣いを感じて小さく苦笑した。
──ええ……それしきの事は──
 ふわりと厚手の肩掛けに包まれる。
 それを見て取って、サディアは食堂の扉を開けた。
「外へ行くまで……抱いて行くからな」
──……ええ、お願い致します──
 リファスの言葉が温かく優しい事は分かっている。
 ルシェラは目を細めて微笑んだ。皓い頬に、僅かな赤味が差して見える。
 素直に抱き上げられ、ルシェラ達は外を目指した。


作 水鏡透瀏

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