そっと扉を開ける。
 まず盆を持って入り、机において扉を閉めた。
「…………ん…………」
 微かな音に一瞬身が竦む。
 恐る恐る振り返ると、起きてはいなかった。ただ、微かに身じろいだだけだ。
 ほっとしながら窓により、窓掛けは閉めたまま半分だけ窓を開ける。

 呼吸は落ちついている様だった。薄い胸が微かに上下しているのが分かる。
 顔を覗き込む。
 幸の薄そうな寝顔があった。時折引き攣る様に歪むのは、身体の苦しみの為ではない様だ。
 悪夢でも見ているのだろう。
 可哀想に、とは思わなかった。ただ、与えられるものを与えてあげたいと思う。
 そう考えて、自分自身に首を傾げた。
 この人の事は名前と出身地の他何も知らない。なのに、何を求めていると思うのだろう。何を与えてやれると思うのだろう。
 美しい、けれども絶望の縁に生きている様な顔を見詰めているとやるせない気分で一杯になる。

 リファスは思わず目を反らせた。
 自分が何を感じているのかさえ分からない。
 ただ、辛くて仕方がなかった。
 そっと部屋を出て行く。そして、自室に入った。

 よく整頓された自室の壁にはずらりと楽器が掛けられていた。竪琴やシータと呼ばれる卵を縦に割った様な形の胴に幅広の棹が付いた六弦の楽器などが並んでいる。
 その中から最も小型のシータを取り、机から紙の束を取って、またルシェラの眠る部屋へ向かう。

 窓辺に椅子を寄せ、シータを爪弾く。
 室内のちょっとした演奏会などに用いる小さなシータは、そう大きな音を出しはしない。
 穏やかに、自鳴琴の様な音色を奏でる。
 自分に出来る精一杯の事。
 吟遊詩人という職は、最も天職だと感じている。
 人を殺めたり、傷つけたりする手段にも用いられるが、この職の本分は人を癒す事にある。
 音色に魔力を乗せる。
 音は小さく、けれども確かに室内を撫で、色を塗り替えた。
 優しく明るい音色は春の森を思わせる。森の木々の香気すら立ち昇る様だった。
 曲に合わせ、小声で歌を口ずさむ。リファスの全身が淡い光に包まれていた。

 優しく温かな歌声が部屋の空気を変えていく。
 眠り歌の様に睡眠の妨げにはならず、けれども魔力と合わせられた音が渦を巻く様に部屋を覆う。
 淡い光は室内に広がり温かく全てを包み込んでいく。

「……っ…………ぅ……」
 寝台から声が聞こえた気がして、リファスは手を止めた。
 シータを椅子に置き、歩み寄る。
 虚ろな目が見開かれ、涙が溢れていた。
「……ごめん。起こすつもりはなかったんだけど」
 涙を拭いてやりながら話しかける。
 華奢で撓やかな腕が伸び、リファスに縋った。
 リファスはその髪や背を優しく撫でた。
「……嫌な夢でも見た?」
 首が横に振られる。
「嫌な事でも思い出したとか」
 再び首が横に振られる。
「ぁ…………ぅ…………」
 無理に話そうとして酷く咳き込む。慌てて抱き起こし、背を撫でた。
 咳や痰の酷い時は、少し背を起こしてやると呼吸をし易くなる筈だ。
「無理しなくていいよ。俺が何かしたなら、謝るから。後で、少し具合がよくなったら何が気に障ったか、」
 言葉が遮られる。
 ルシェラの指が唇に触れていた。口を噤む。
 リファスが口を閉ざした事を感じてか、ルシェラは手を下ろした。
 そして、今度は窓の方を指差す。
「……ぅ……ぁ……ぁ…………」
「うるさかったよな。ごめん」
 また、首が横に振られた。
「もう、しないから」
 激しく首を横に振る。
「ぁ、ぇ……っ……ぅ……っ…………」
 激しく胸を喘がせ、何かをリファスに訴える。
 胸を掻き毟りながらも、何度も窓の方を指し示す。
「落ち着けよ。えーっと…………もっと弾いていいのか?」

 今度は首を縦に振る。
 苦しみながらも、華やかな微笑みを浮かべていた。
「手を握ってないのに、聞こえてたんだな。……もしかして、聞こえないのは人の声だけか?」
 頷きが返る。
「それって…………身体的な疾患じゃない、って事?」
 言葉を選ぼうとは思うが、率直なリファスにはそれ程言葉を薄紗に包む事が出来ない。
 ルシェラはリファスを見詰めた。
 流れる涙が量を増す。
「ご、ごめん!!」
 謝ってももう遅い。
「でも……なら、確かに、俺の歌とか、演奏とか……聞いて欲しいな。大人しく出来るか? 泣いたりするのはいいけど、身体に負担になる事はナシ。出来る?」
 優しくひたすら諭す様に。リファスの誠意が伝わったのか、ルシェラは小さく頷いた。

 ルシェラをそっと横たえて掛け布を掛け装置を整え直して、リファスはそっと離れた。
 シータを取り、椅子を寝台の直ぐ側まで寄せる。
「どんな曲がいい?」
 腕に触れ、尋ねる。
 ルシェラは首を傾げ、少し悲しげに微笑んだ。
「俺が好きに選んでいい?」
 肯定の頷きが返る。
 リファスはルシェラから手を離し、シータの弦を軽く弾いた。
 何がいいだろうか。
 人の声だけ聞こえない……素直に受け取るとすれば、人の声を認識したくない、そういう状況に追い込まれたのだろうと推察できる。
 そうでなくとも、身体的にも精神的にも癒しを必要としている。その様に見受けられる。
 癒しの曲はたくさんある。

 形のよい指が、弦を滑った。
 シータは撥や爪を用いず、指先と自身の爪で弾く。
 竪琴に比べて弦が柔軟で張りも弱いが共鳴板があるので音は響く。
 先程の爪弾きとは違い、しっかりと音を出す。
 月夜に湖面をさやぐ光、あるいは、星の瞬き。
 癒しの音にもいろいろある。
 春の森から塗り替えられ広がる気配は、しっとりと落ち着いていた。
 闇夜を微かに、けれども優しく包む光が、視界にすら広がる様だった。

 声変わりのほぼ終了した……けれども少年らしさを損なわない高音。
 そして、大人の男に移り変わった低音。
 どちらも自由に行き来してみせる。
 神の手と称せられる技術と天の声音、そして、心根の優しさが調和し部屋を満たす。
 ゆらゆらと揺蕩う透き通った水の中にいるかの様な錯覚も覚える。すべての根源の水が包み込んでいた。
 記憶には勿論ないが、母親の胎内にいる時とはこの様なものだったのではないだろうか。

 ルシェラはうっとりと目を閉ざし、音に耳を傾けている様に見える。
 呼吸器を通して見える口元は微笑んでいる様だった。

 曲は移り変わり、月夜に朝日が差した。
 朝の凪の海。水煙が薄く立ち込め、爽やかな気配が忍ぶ。
 穏やかな波の上に朝日が踊り始める。
 静かに、軽やかに。
 月の光が柔らかく包み込んだ心が、波の上に浮かぶ。
 揺蕩い、優しく揺さぶられる。朝日に照らし出され、光を自ら放ち始める……。

「はっ……ぁ…………っ……」
 ルシェラの呼吸が乱れる。
 リファスは手を止めた。
「ごめん。嫌いだったか、これは」
 頼りなげな手がリファスに伸ばされ、服の端を掴む。
「……ん…………っ…………」
 不安げに瞳が揺れている。
 怯えている様ですらあった。
「朝日は嫌い?」
 不安げなまま、首を傾げられる。嫌い、という感情ではないらしい。
「怖い?」
 暫くの逡巡の後、微かに頷かれる。
 怖いものをこのまま続けても意味がない。
 曲を変えようとリファスは脳裏にいろいろ巡らせた。
「太陽と月、どっちが好きかな。太陽?」
 返事が返らない。
「じゃあ、月?」
 微かな頷き。
「そっか……俺と一緒だ。太陽の光って、押し付けがましくて好きになれないんだよな。じゃあ……月夜の曲がいいか」

 奏でられる音が再び月夜に戻る。
 今度は、森の中だった。
 光が梢を通して差し込んでくる。
 その光の中で、妖精が遊んでいた。
 清かに、軽やかに。月のしっとりとした気配の中に妖精達の軽やかな祭りが開かれる。
 再び、ルシェラに微笑が戻った。

 曲も歌詞も三千年来の伝統的なものだ。各国語、また各国それそれぞれの曲になってはいるものの全世界共通のハルサ大戦以来のものだった。
 伝承歌と呼ばれるそれは、世界の成り立ちを表しているとも言われ、また、歴史を語った一大叙事詩だとも言われている。口にするだけで何かの力を与えられるというものでもあった。
 誰が作ったのかわからないが、五千巻に及ぶ膨大な量の詩がリーンディル神殿に収められているという話だった。
 神に通じるとされるそれは、吟遊詩人達によって奏で伝えられて来た。魔力を乗せ歌う事で、より一層神の世界の力を得る。
 齎される力は、魔道士や神官のそれを上回るとも言われていた。
 リファスが今奏でているのは、世界の浄化と癒しを司るとされる森、その中でも特に安らぎを示す夜景だった。
 明るさや快活さを示すものは、何も昼の情景ばかりではない。そして、それは安らぎと相反するものではなかった。

 ルシェラの手が伸ばされ、リファスの膝に触れた。
 じわり、と温かさが滲む。演技に熱が入った。
 見えているのかそうでないのか、ルシェラは微笑んでいる他には全く動かない表情で、演奏を続けるリファスを不思議そうに見上げていた。
 瞳には変わらず涙が湛えられている。けれど……悲しい様でも、辛い様でも、苦しい様でもなさそうだった。
 精緻な人形だった。美貌が無表情だと、これ程に生きている風情が消えるものなのだろうか。

 長い曲を奏で終え、リファスはほっと息を吐いた。
 普段奏でる時よりも気は込められていたものの集中は出来ていなかった。
 触れる手が余りに頼りなく、温かかったからだろうか。
 曲が終わってもルシェラの手は離れず、リファスから視線も反らされないままだった。
 ただ、涙が止まらない。はらはらと、はらはらと流れ続ける。
 しゃくり上げる程の号泣ではなく、鼻先が赤くなる程でもなく。けれど、ただひたすらに零れ続けた。

 寝台に立てかける様にシータを置き、手巾で顔や目元を拭う。
「朝ごはん持ってきたけど……冷めちゃったな。温め直すから、少し待っててくれるか?」
 ゆっくりと大きく首が横に振られる。
「……いらない?」
 頷かれる。
「胃が悪いとか、喉を患ってて物が飲み込めないとか?」
 今度は否定だ。
「……飲み込めそうなら、少しでも食べなくちゃ。俺が作ったんだ。不味かったら一口で止めていいからさ」
 少しばかり強引に抱き起こし、側の皿を取って少なめに匙に掬い取った。
 口元まで運ぶが、口を開いてはくれなかった。
「舌先で舐めるだけでもいいからさ」
 ルシェラは悲しげに首を横に振った。
 そして、宙に指先で何かを描く。文字の様だった。
 仕方なく皿と匙を置き、代わりに紙と洋筆を取る。

 手を添えてやると、ルシェラは文字を書き始めた。
「……………………分からない。っ、て何が?……注射? 数年……って……食事、全部注射で摂ってたってのか……!?」
 思わず声を荒げたリファスに、震えながら微かな頷きが返る。
「ご、ごめん……。でも……そんなに、悪いのか、身体……それでも数年って……よく持ったな……」
 首が横に振られる。
「じゃあ、何で……」
 力ない手が動く。
「…………食欲がないから。と……世話をする人が楽だから…………? 何だよ、それ!!」
 ルシェラは身体を大きく震わせ、リファスの腕から逃れる様に動いた。
 しかし、リファスはがっちりと抱き止めてルシェラを逃さない。
 がたがたと歯の根が鳴る程震えている。

「…………ごめん。本当に……ごめんな。あんたに怒ってるんじゃないんだ。だから、落ち着いて……」
 ぎゅっと力強く抱き締める。震えが収まる様に祈りながら、優しく囁く。
「あんたが……そんなにぞんざいに扱われてたって事に腹が立ったんだ。食欲がなくたって、腹が空けば口から食えたんだろう? それなのに……」
 どうして自分はこんなに必死なのだろう。
 頭の片隅で冷静に考えている自分がいる。
 けれど、込み上げた怒りが薄らぐ事はなかった。
「あんたの世話はこれから俺が全部する。世話は俺が好きでする事で、全然手間なんかじゃないから気にせずに、お腹が空いたら口から飲み込め。まずは重湯とか、胃に優しいものから用意するから」
 ルシェラは震えながらも、不思議そうにリファスを見詰めた。
 何故そうまで親身になってくれるのかが理解できない様子だった。

「嫌かもしれないけど、歩けるくらいに体力が付くまでは、全部の世話を俺がするから」
 真摯な瞳に嘘はない。
 ルシェラはどう受け止めればよいのか暫しの間逡巡した。
 そして、意を決し、小さく頷く。
 頼れるものがなくては生きていけない。
 生きていく事を望んではいないが、死んでいない以上仕方のない事だった。他に選べるものがないなら……どの様な状況に陥っても今更だと諦めもつく。
「作ってきた食事はちょっと今のあんたには重いから、作り直してくる。ちょっと待っててくれよ」
 離れかけたリファスの腕を掴む。そして、紙に洋筆を走らせた。

「見返り?……何言ってんだ。そんなのどうでもいいよ。さっきの金貨も返すからな」
 確かに、こうまで親身になるのを不審に思うのかもしれない。リファスの気分は害されはしなかった。
「…………俺、あんたとは初対面って気がしないんだ。だからってわけでもないけど、俺に出来る事があるなら、あんたに何でもしてあげたい。信じられない……よな。でも、俺も自分を不思議に思ってる。どうして、あんたに……こうまで尽くしたいって思うのか……これが偽りじゃないって事だけは、信じられないなら信じなくていいから、知っていて欲しい」
 言葉を尽くす。
 分からないけれど、大切な何か。
 既視感と言うにも、何処か奥底に真実味が漂っていた。

 ルシェラは暫く不審気な様子を見せていたが、やはり、諦めた様に頷きを返した。
 最悪と言っても、自身の知る最悪より悪い状況は想定出来なかった。
 しかし、震えはそれから暫くの間、収まる事はなかった。


作 水鏡透瀏

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