重湯を炊く間に、リファスはルシェラの病室へ氷水の入った桶と綿布を運び、更に自鳴琴を持ち運んだ。
 宝石箱などに付属した様な小さなものではなく、一抱えもある大きなものだ。
 一曲で二十分ほどにもなる大掛かりなものの上、換えの音階板も十数枚あった。
 リファス個人の持ち物で、趣味にあかせて購入したものだ。それだけではなく、音階板も数枚は、見よう見まねでリファスが自身で作ってみたものでもあった。

 枕もとの机に桶と布を、自鳴琴を窓の近くに配し、睡眠の妨げにはならない様に気を使う。
 よく螺子を巻き曲を流し、機械の動静制御のつまみに紐を引っ掛ける。
 その後、布を水に浸し、固く絞ってルシェラの額に置いた。
 熱は下がる気配を見せない。
「うるさかったら、この紐を引けば止まるから」
 装置から伸びる紐を手に握らせる。
「でも、伴奏の流れる部屋ってのも悪くないだろ。王宮の玉座の間とかそうなんだって。音があると落ち着くからって」
 ルシェラの眉が顰められたが、リファスは気が付かなかった。
 ぷつり、と音が止まる。
 自鳴琴が切られた。
「……ごめん。お節介過ぎたか」
 ふいっと顔を反らされる。
「ごめんな、中々あんたの意思が通じなくて……俺がもっと敏ければいいんだけど……」
 ルシェラの我儘より、自省する方向に意識は傾く。
「そろそろ、重湯が炊けたから、持ってくるよ……っと」
 部屋を出て行きかけたリファスの腕が掴まれる。

「えっと……」
 首が横に振られる。
 額から布が滑り落ちた。
 リファスはそれを拾い、桶に引っ掛けた。
「……いらないって?」
 頷き。
「でも、何か食べなきゃ。ものを食べられない様な疾患がないなら、口からじゃないと……うちじゃ、栄養剤とか大して用意できないし」
 それでも、首が横に振られる。
「……それでもいらないって言いたいのかよ。死ぬぞ、あんた」
 頷きと共に……微笑が返る。
 期待に満ちた表情だった。死を恐れたり厭わしく思うのではなく、待ち望んでいる。その様な顔だ。
「…………死んでもいいって言うのか。それ、俺達にはすげぇ迷惑なんだぞ。分かってるか?」
 微かに頷きが返る。
「分かってるなら……っ」
 リファスの腕が引かれる。
 その力は思いの外強く、リファスは身構え損ねて蹌踉けながら寝台に寄りかかった。
 手を取られ、その掌にルシェラの指が這う。
 文字だった。神経を凝らして掛かれる文字を追う。

「…………助けは必要ない。何処かに捨てろ……? 出来るわけないだろ。そんな事」
 ルシェラは繰り返し同じ言葉を書き続ける。
 リファスは思わずその手を引き離し、強く握り締めた。
 しかし、ルシェラはもう片手をリファスの背に回し、繰り返し書き綴る。
「もうやめろって。何で自分を大切にしないんだよ!…………大切ではない? そんな訳があるか。親だっているんだろ。さっき父上がどうとか言ってたし。心配してるぜ、きっと」
 ルシェラは震え始める。
 心配、と言う言葉の意味がよく理解できない。ただ、思い出すだけで身体が震えた。
「……ルシェラさん?」
 リファスの服を掴み、縋り付く。
 振り払いたい記憶が苛む。
「……ぁ……ぁぅ……ぁ……」
「……………………あんた…………」
 漸く、リファスも大体を悟る。
 父親に対して怯えながら謝っていた。そして、今度は……。
「ごめん。本当に、ごめん…………もう、これ以上踏み込まないから」
 ルシェラの手を引き、抱き寄せる。
 震える身体を抱き締め、繰り返し髪を撫でる。
 腕の中の身体は酷く熱い。熱が高い様だった。震えの意味が発熱によるものなのか精神的なものなのか分からない。
 けれど……。
 とにかく、恐らく、父親という存在がとてつもなく大きな鍵を握っているのだろう。
 誰の心にでも、他人に踏み込まれたくない領域はある。

 全てに否定的なのは、恐らく自己という存在を認められない為だろう。様子からすれば、これまで存在を否定されて来た様にも見える。
 浅くではあるが、学校で心理学についての授業を受けた事がある。社会心理もだが、犯罪心理や、発達心理なども。
 心の成育に必要なものが、ルシェラには欠けている様に思えた。
 予断はよくない。しかし……肌から伝わる様な悲しみが、リファスをそう引き摺って行く。

「…………俺はあんたに、何をしてあげられる?」
 答えは返ってこない。
 震え続ける身体が悲しかった。
「必要ではないかもしれない。だけど……帰るところだってあるだろ?」
 やはり、答えはない。
「ティーアまで、送って行ったっていいんだぜ。少し体力が回復したら、帰る手段だってきっとあるさ」
 背に感じる手が動いた。
「帰るところなんて分からない? 家は?」
 指が背に文字を描いていく。
 顔はリファスの胸に押し付けられ、表情は窺えなかった。
「分からない、って……何処で暮らしてたとか、そういうのも分からないのか?」
 口調を考え、責める様にならない様に気を使う。
 震える指が背を這う、その事により一層悲しくなった。
「塔? 出た事ない……って、そんな……」
 指先がゆっくりと、詳細にこれまでの生活を綴って行く。
「塔とは違う場所に移って……それからここへ…………。雑音? 喉の奥に絡む湿気と塩気……冷たい……暗い…………」
 説明し難いのか、文章が文章になっていない。
 ティーアとラーセルムは言語が随分と異な る。ある程度の読み書きが出来ても、不自由もあるのだろうと推測された。

「初め暮らしていた塔ってのは、何処にあったんだ?…………分からない? そうか…………森と山が見えて、馬車で行く範囲に祠…………うーん…………」
 手がかりが少な過ぎる。
「あんたの家の事、聞いても大丈夫かな?」
 激しく首が横に振られた。拒絶の証。リファスは即座に抱き締める腕を強くした。
「うん。いいよ。分かった。思い出したくない事は思い出さなくていいし、説明できない事はしなくていいから」
 努めて優しくそう言ったリファスに少し安心したのだろう。
 ルシェラは、暫くの逡巡の後、左腕をリファスの目前に差し出した。
「何?」
 手首には仰々しい腕輪が嵌められている。着替えさせた際などに、その事に気付かないではなかったが、それを重要視はしていなかった。
「腕輪? 何だ?」
 僅かに身を離し、左手を取って腕輪をよく見てみる。
 石の嵌められている間に、紋章が描かれていた。
 紋章は二種類ある。
「…………何だか……見覚えがあるな…………これ、一つはリーンディル神殿の紋だよな。姉貴が空の神殿の巫女をしてるから見覚えがある。もう一つも、ラーセルム王家のに似てる様な似てない様な…………。ちょっと待ってて。俺の部屋に、紋章の辞典があるから。調べてみる。ごめんな、学がなくて」
 そっと離れようとするリファスを引き止める様に、ルシェラは腕を縋る腕を離そうとはしなかった。

「調べないと分からないんだけど……。え? あ、そっか……あんた、ティーアの人だっけ。五古国の紋章は似てるもんな。そうだよな……………………って、えぇ!? あんた、何でこんなもん持ってるんだ?」
 リーンディルは世界の礎。五古国はその要。
 旗や建造物に刻まれているものならともあれ、他にそうそう溢れているものでもなし、それが刻まれた宝飾品など一般人が一生のうちにお目にかかれる代物ですらない筈だ。
「これ、何かの複製品か?」
 ルシェラは顔を上げ、眉を顰めた。
「違うのか。偽造品?」
 わなわなと唇が震え、目を反らせる。
「本……物…………?」
 大きく頷きが返る。そして再び顔を上げ、きつく睨んだ。
「……ごめん。だって、これ……こんなの、持ってる人ってなると…………少なくとも王家筋って…………こと……に…………」
 まさか、と視線を合わせる。
 ルシェラは視線を反らさず、真っ向からリファスを見詰め返した。微かに胸を張り、頤を持ち上げる。
 引き結んだ唇は、しかし未だに震えていた。
 威張って見せたいわけではない。ただ、微かに残る自尊心がそうさせる。

「ティーアの王家に繋がる人……で、リーンディルにも繋がるって言ったら…………ティーアの太陽神主神殿の大司教様か、国守様……くらい、だよな? ラーセルムと機構が同じなら……」
 ルシェラは頷きを返さず、けれども、視線を反らせる事も否定を示す事もなかった。
 ただ、突然意志を取り戻したかの様な瞳だった。
 先程までは視力は取り戻しているらしいが虚ろに淀み、熱に潤み揺らいでいた瞳に、強い意志の光が宿っている。
「…………ティーアの……国守様で、いらっしゃいますか?」
 思わず言葉まで改まる。
 王子かどうかまでは分からないが、少なくともかなり高位の存在であることは確かだろう。
 しかし、ルシェラはやはり、肯定の返事は返さなかった。
「お答え下さい」
 問い詰める。ルシェラは目を反らせた。
「口に出来ない事情でも?」
 背に当てられたままの手が動く。
「認められていない? そんな馬鹿な。国守っていうのは、継げば死ぬまで国守で、認めるも認めないもない筈でしょう?」
 ルシェラは再びリファスの胸に顔を埋める。
 指先は言葉を紡ぎ続けた。
「何で詳しいのかって? そりゃあ、学校で習ったから……五古国と国守については、必修だったし。学校? 俺が行ったのは、勉強とか、音楽とか、剣技とか……とにかくいろいろ、集団で学ぶところだったけど。や、そういう事じゃなくて、貴方が国守かどうかって事が重要で……」
 嫌々をする様に、ルシェラはリファスに顔を擦り付けた。
「重要じゃない? でも……………………捨てられた? 認められてない? 裏切り、怒り…………」

 縋る腕から伝わるのは、孤独と悲しみだった。
 部屋の空気すらルシェラが塗り替えていく様で、しっとりと潤み始める。
 リファスは息を呑んだ。
 国守は世界の全てから敬愛されるべき存在だと認識している。少なくともラーセルムの国守である王女は、国民の殆どから愛され敬われている。
 神にも通じるその力。この世界の礎を築いたともいわれる力。そして、五古国各国の建国の祖。脈々と各王家に引き継がれている存在だ。
 当然、国守は王家の血を引く家にしか生まれない。王家でなくとも、それに準ずる様な高貴な家柄に生まれるものだ。
 肯定はしていないが、様子からすればこの少年はティーアの国守なのだろう。少なくとも、その証かもしれない品を所持しているし、顔立ちが伝え聞く国守の美貌に当てはまるとも思える。
 けれど、その事と、ルシェラの伝える様が頭の中で一致しない。
 国守は国王以上の存在。認める認めないなどという話になる事がそもそもおかしいし、捨てられる事などありえない。
 分からない事だらけだった。
 それでも。
「…………踏み込まない、って言ったもんな、俺……」
 先程の誓いを思い出す。そう言って信用を得ようとしたのだ。違える事は出来ない。
 リファスは随分律儀な性質だった。
 すっと息を吸い、呼吸と頭を整える。
 ルシェラを膝に抱え上げる様に抱き、再びルシェラをよく撫でる。他に宥める方法が浮かばなかった。
「貴方がどうでもいい事だって言うなら、そうなんだろう。分かった。だったら、俺も、あんたを国守だとは信じないし、王族だとも思わない」
 切り替えと思い切りが早い。
 まだ国守の重要性も背負う役目も、知ってはいても理解の及ばない子供だった。
 だが、その事でルシェラの気が軽くなる。

「まだ、歳とか聞いてなかったよな。歳は? 分からない……か……誕生日は? ハルサ歴ニ九八五年火精月五の風の日……あ、俺と五日違いだ。同い年なんだな」
 明るく、屈託がない。
 王子扱いをされない。国守の扱いも受けない。それでいて、この安らぎ明るい心持になる雰囲気はなんだというのだろう。
 ルシェラの知らないものだった。
 知らないが、既にリファスに対する警戒心などは氷解している。
 与えられるものが全てルシェラを優しく包む。
 臣下の者達にも、客達にもこれ程の物を与えて貰った記憶はない。最も近いとすれば、それは、幼き頃の乳母の温もりだろうか。
「俺にはあんたを捨てることなんて出来ない。待てるだけは待つけど、それでも何も食わなかったら、無理矢理でも口に突っ込むからな。特別扱いなんてしてやらない。ティーアに戻れるだけの体力をつけようと思ったら仕方ないだろ? それまで、さ。仲良くしようぜ」
 改めて手を握られる。
 戸惑っていると、リファスはそれを勢いよく上下に振った。
「友達、な」
 背に尋ね返される。
 リファスは悲しい気持ちになったが、それを押し殺して笑って見せる。
「対等で、信用出来る相手の事だ。一緒にいて楽しいとか、面白いとか、そういう人間の事」
 説明されても、ルシェラには理解できない。
 暫く首を傾げていたが、次第に悪い事ではない様に思えてくる。
 顔を上げると、満面の笑みで返された。
 吊られてルシェラも微笑む。

 素晴らしく美しい微笑だった。
 リファスはそれを眺めるだけで、例えようもない幸福感に包まれるのを感じていた。
 曇らせない様に。
 より美しく輝く様に。
 覚えがあるのに記憶にはない、微笑みに誓う。

「さて、と。重湯がそろそろ焦げてるかも。作り直しだったら勿体無いな。お袋が火、止めてくれてればいいんだけど」
 布を水に浸しなおし、冷やしてルシェラの額に乗せる。ルシェラは心地良さそうに目を細めた。
「直ぐ戻ってくるからな。まあ……動けないだろうけど、大人しくしてろよ」
 額と頬を軽く口付けでもする様に合わせられ、ルシェラは微笑んで頷きを返した。


作 水鏡透瀏

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