サディアは三年前から表舞台より姿を消し、これまで一切の公式の場に現れる事はなかった。
父母であった国王夫妻が亡くなり、本来ならば、幼いながら祖父を後ろ盾に王位につく筈だった。
ルシェラとは違い、サディアはその生まれと力を分離させてはおらず、生まれた時から確かに国守としての力を持ち振るう事ができた。
だが、社会的にも外見上も、また心の一部も、サディアは幼かった。
サディアが成人するまでという期限で、ティーア王セファンに推された前国王の妹婿が王位に就いたのは、半ば必然でもあったろう。
それだけではない。
その地位を失う事を恐れた現国王、そしてルシェラと繋がる事を恐れたセファン、そのどちらもがサディアを抑えようと躍起になっていた。
サディアには地位などどうでもよかったし、案じてはいてもルシェラに対して何らかの動きを見せるつもりもなかったが……それに関係して由々しき問題が起こっていた。
「リファス、すまないがルシェラと二人で話がしたい。外して貰えまいか」
「あ、はい、直ぐに」
国守同士、王族同士、下々に聞かせられない話もあるのだろうと判断する。
過去があると言われても、まだまだ実感など湧かない。
――リファスが側にいては、お話し辛い事なのですか?――
「いや。だが、リファスが聞いても意味の分からない話だろう。せっかくだ。その間に菓子でも作ってくれないか。久々にお前の料理を食べたい」
「今日は、どうされるんですか」
中途半端な時間だ。
サディアが現在身を寄せているらしい場所とこの家とはそれなりに離れている。
どのみち途中で宿を求める事になるだろう。
「泊めて貰えればありがたいな。ルシェラとは積もる話もある」
「では、その様に準備します。後で、何か飲み物とお菓子を持ってきますね」
「楽しみにしている」
王女相手では息が詰まる、という程の感覚は起こらなかった。
何処か馴染みが良く、気安い感じが付きまとう。
そのまま、ルシェラに小さく手を振りリファス
部屋を辞した。
「さて」
ルシェラの手を引いて立ち上がり、寝台へと促す。
逆らいもせず、ルシェラも素直に寝台に戻り横になった。
「……セファン殿が存命の間に、再びお前にまみえようとは思わなかった……」
胸元まで掛布を引き上げてやり、そっと頬に触れる。ルシェラはふわりと微笑んだ。
――ご存じなのですね、いろいろと……――
「セファン殿にも困ったものだ。……それでも、お前にとっては……陽の光よりは幾分優しかろう?」
知っているらしい気配を見せる割に、軽々しい口をきく。
ルシェラの顔は僅かに青褪めたが、サディアの言葉を否定するに至らない。
セファンの事を思えば震えもくるが、それと同じに憐れみにも似た感情が沸き上がる。
その手から逃げようと思わなかった。
しかし、陽の光は……。
――……わたくしにとって、陽の光とは…………一体どの様なものなのでしょう。ただ、怖い、嫌い、そう思いはするのですけれど……――
「…………覚えていないか。そうだろうな。前に共に過ごしたお前も覚えていなかった。その前も…………それでいい。そのうちに、厭でも思い出す事だ」
──……無意味に怯えている様で、望ましくない心持ちなのですが──
「お前が陽の光を嫌ったり、怯えたりしないのならば……この世界は、今の様な状態になかった。世界にとってそれがよい事なのか、望ましくない事であったのかは……今となって分からないがな」
──よく……分かりません……──
「今は忘れていた方がいいだろう」
先までリファスが座っていたのであろう寝台の傍らの小さな椅子に座る。
サディアはルシェラの手を握った。血の巡りの悪いルシェラに比べ、その手は温かかった。また、小柄な少女である為か、ルシェラより更に華奢で小さな手をしている。
「それにしても……よくセファン殿の手から逃れられたものだな」
──……わたくしにも……よく分からないのです……──
「ティーアからこの国までは随分遠い。この国に逃れるより、アーサラへ……リーンディルへ向かった方が距離も近く、身体への負担も少なかった筈だが」
──……分かりません。国で……窓から落ちたまでは覚えているのです。けれど……どの様にしてこちらへ辿り着いたのか……全く……──
不安気にサディアを伺い見る。
サディアは温かい手でぎゅっと手を握り直す。
「引き合ったのだろう。お前の安楽は身体にあるのではない。リファスと共にある事こそが全てなのだ。きっと」
──…………この巡り会いは……わたくしが望んだものだと?──
「ああ。何も覚えてはおらずとも、身体がリファスを求めるのだろう。その求めに応じて、お前の力が対応した。そういう事だろう」
──わたくしに……その様な力など……──
それなりに武術などは学んだものの、ちょっとした治癒力以外にこれといった力を持っている自覚はない。
国守として継いだものも、記憶以外には何が齎されたものか全く分かっていなかった。
「…………まさかとは思うが、魔術の使い方すら忘れているというのか?」
──わたくしに……使えるものでしょうか……──
怪訝そうなルシェラに対し、サディアは数度目を瞬かせると大きく溜息を吐いた。
手を放し、ルシェラの額に手を当てる。
ルシェラは目を閉じた。瞼を降ろす事で生まれる闇が、何処か優しく暖かい。
「よく……分かった……。お前は一刻も早くリーンディルへ向かえ。出来るだけの力は貸す」
──何故……──
「お前は自分がどの様な存在なのか、それを思い出すところから始めねばなるまい。リーンディルへ行けば、詳しい者もあるだろう」
──…………貴方や、他の方々の事を覚えている……それでは、足りないのですね……──
「そうなる様に仕向けてきた私達も悪い。気にするな。だが……それでは、そろそろ困る事態になりそうなのでな。お前自らがティーアを出まいと、私の事情の片が付けば迎えに行くつもりでいた」
表情に苦みが走る。目を閉ざしているルシェラには見えはしなかったが、微かな気配の変化を感じた。
──サディア……?──
「リーンディルまでの道は私が開こう。麓までになるが…………リファスがついていれば大丈夫だろう。すまないな。私は共に行けないが……こちらの問題が片づけば、直ぐにリーンディルへ向かう」
──リファス殿と共に……構わないのですか? あの方とご一緒しても──
「お前達を引き裂く事など無意味だ。神々の王にも叶わぬ事だと言うのに」
──……お側に……いてよいのですね……よかった…………──
サディアは手に熱いものを感じた。ルシェラの双眸から溢れた涙がその手を濡らしている。
心からの安堵を覚える。ルシェラの心がリファスに傾倒している事が、たまらなく嬉しかった。ルシェラとリファスの関係は、こうでなくてはならない。
三千年。いや、それ以上の時を経ても変わらぬ想いがそこにあるのだ。
その安堵と同じくらいの分量のもやもやとした不快な思いもまた胸元まで迫り上がってはきたが、ルシェラの涙と口元に浮かべられた微笑みとがそれを掻き消してくれる。
ルシェラが幸せならばそれでよい。
そう、自身に言い聞かせる。
「今、お前は幸せなのだろう?」
──……ええ……そう思います…………リファス殿が側にいてくださるし、怖い事も何もありませんから……──
「それが継続されればよいと願っている。お前が幸せでなくては、この世界の根幹が崩れてしまう」
──……それも、リーンディルへ行けば理解できるのですね──
「そうだ」
──分かりました。貴方の、お言葉のままに──
薄紅の唇の口角が上がる。
サディアはそっと手を放した。
──しかし……貴方が抱えていらっしゃるご事情とは……? お口ぶりから察しますに、由々しき事なのではございませんか?──
涙の滲んでいた目元を指先で軽く拭い、大きく開いた澄んだ瞳でまっすぐにサディアを見詰める。
サディアの顔が曇った。
奥底が淀みながらも、ルシェラの瞳は一見一点の曇りもない様に見える。
サディア思わず目を反らせた。
──貴方に何か大変な事が起こっているのならば、今こうして貴方がわたくしにお力添え下さる様に、わたくしも、貴方の助けになりたいと思うのです──
「……お前の手を煩わせる程の事ではない」
──けれど……──
ルシェラ尚も食い下がる。
サディアは溜息を吐いて、小さく首を傾けた。
「お前に手伝わせれば、下手をするとお前は再びセファン殿に出会ってしまいもするだろう。窓から落ちた、と言ったな。それは、セファン殿の意志でないのだろう? 再び顔を付き合わせてみろ。セファン殿はどうすると思う。私も今回の生では会ってはいないし、その前も……もう何年も会ってはいないが、あの執着心が薄れているとも思えん」
──…………貴方もご存じの程なのですね……──
「表向きには十分立派な王だがな。昔のお前との約定を守り良く世界を治めている。ティーア一国だけでなく世界の統制もあの王あったればこそだろう」
──お客様方からお話だけは、よく……──
「ラーセルム一国の話なれば、多少手を貸して貰う事も出来ただろうが……」
──………………いつかは……向き合わねばならぬ事でしょう……──
ルシェラの様子は、純粋な好意に満ちている。
自身の全てを顧みることなく、今はただサディアを助ける事しか考えない。
それがルシェラの美徳であり、また欠点でもあった。
「無理をするな」
──お話を伺わなくては、何を判断する事も出来ません。何か、考えが浮かぶ事もあるもしれないではありませんか。わたくしではお力になれなくとも……リファスは大変優れた方でいらっしゃいますし──
「リファス…………そうか……そうだな。リファスならば、力になってくれるやも…………しかし、お前と引き裂く事になるかもしれない」
サディアはサディアで、それだけは避けたい思いでいっぱいだった。
ルシェラを煩わせたくない。あまりの面倒をかけて、嫌われたくはなかった。
だが、ルシェラは引き下がらなかった。
──神々の王にも引き裂けないのでしょう?──
微笑んだ唇が、ゆっくりとその形に動いた。耳から聞こえるのか、頭の中に直接届くのか……錯覚を起こす。
サディアは軽い目眩を覚えた。はっとして、ルシェラの顔をまじまじと見詰める。
──わたくしは貴方の事を覚えていました。それは、貴方とわたくしがとても強い絆で結ばれている証にはなりませんでしょうか。その絆で結ばれている方のお力になりたいと思うのは、貴方だけではない。わたくしだって……──
「ああ…………」
真摯な瞳に見詰められ、サディアは落ちた。
「…………話だけ……聞いて貰おうか……」
ルシェラの表情がぱっと明るく輝く。
頼られるというのがひどく慣れず、しかしそれが故にたまらない快感だった。
「………………妹、弟達が王宮に囚われているのだ。命に別状はなかろうが……このままでは国に……世界にとって望ましくない方向になりかねない。何とか取り戻したいと考えているが……なかなか角の立たない方策が見つからなくてな……」
続
作 水鏡透瀏
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