「お母さん、あの子、おかしいわよ」
 仕事から帰って開口一番。エルフェスの金切り声に、エリーゼは軽く米神に指を当てた。頭痛がする。
「ルシェラ殿下がいらしてから、絶対変!! そう思わないの、ねぇ」
「……思うわ。でもね……少し声を小さくなさい。病室まで響いたらどうするの」
「思うなら、何で放っておくのよ」
 信じられない、とエルフェスは母を睨む。
「どうしろっていうのよ」
「ルシェラ殿下は、この家じゃなくて、どこか神殿でお預かりするべきだわ。分かってるの? 国守様は、神にも等しいお方なのよ。国守様が幸せじゃないと、世界は不幸になるの。ここで、あの方が幸せになれると思う? リファスなんかが、何のお役に立てるって言うのよ」
「でも、殿下が、あの子を選ばれたんだから仕方ないじゃないの」
「それは選択肢がなかったからよ」
 すっぱりと言い捨てる。
「それは言いすぎでしょう?」
「…………リファスはいい子だし、家の事は何でも出来るし、それだけじゃなくても何だってやってのける。頭もいいし、性格だって悪くはないわ。顔立ちだって、悔しいけどあたしより美人。でも…………」
 リファスなんかが、などと言っている割に、十分に自慢の弟である。
「ルシェラ殿下は初めてお外に出られて、初めて会ったのがあの子なんでしょう? 目新しいものには何だって惹かれるものよ。世界が広がった時……その時でも、今と同じにいられると思う?……普段のリファスだったら、それに気付かない筈ないのよ。見ず知らずの他人にああまで簡単に気を許すなんて……」

 エルフェスはエルフェスなりに、たった一人の弟を愛していたし、気遣ってもいた。
 陰鬱なリファスの過去を知っている。
 リファスは、その所為で暫くは部屋から出る事すら怖がっていた。
 数年を経た今だとて、外面はほぼ大丈夫にはなっているが、夏場でも首の詰まった長袖の黒服を手放さない。薄手ではあるものの、極端に肌を晒す事を嫌っている。
 心の傷は完全に癒えている訳ではない。
 リファスはそれなりに世間を知りその上でルシェラを選んでいるが、ルシェラはそうではない。
 世界が広がれば、自分の好むもの、好まざるものも分かってくるだろう。
 再び訪れるであろう選択の時に、リファスをもう一度選ぶという保証などない。
 そうなった時に傷つくのはリファスだ。
 これ以上弟を傷つける様な状況には会わせたくない。

「ティーアの国王陛下に隠れたまま、っていうのも気に入らないわ。認めて貰わなくちゃって言ったのはリファスなのよ。それなのに」
「今決まっている事は、帰る前にっていう話でしょう?」
「殿下がお帰りになる決意を固める前に、陛下に知られたらどうなると思ってるのよ。大使や殿下のご様子からすると、内緒にしなくちゃいけない様なお方なんでしょう、国王陛下って。そんな方……隠してて、見つかったら……余計に怒らせるだけじゃない。そうなったら、この家だってどうなるか分かったもんじゃないじゃないの」
「それは飛躍しすぎでしょう? お預かりしていた事を感謝されこそすれ……」
 ルシェラの声が直接聞こえない、また、触れても感じられないエリーゼには、エルフェスの感じている危急の半分程すら考えられない。
「甘いわ」
「それを言うなら神殿だって、あの方にとっていいところだとは思えないわ。神殿は暖かいところではない。今の殿下に必要なのは、暖かい環境と、美味しくて優しい食事よ。それに、リーンディル以外の神殿は、国王を拒み切れはしないでしょう?」
 他国はともあれ、五古国において政と宗教の分離はなされていない。王家こそがその国内で最も格が高く神に近しい存在なのだ。
「それでも……個人宅への類は防げる」
「神殿ならどうなってもいい?」
「そうは言わないけど……そこまで酷い事にはならないと思うの」
「どうかしらね……」
 エルフェスが危惧する通りの人物であるなら、神殿だとて安全だと言い切れるわけでもないだろう。
 ルシェラが確かに国守だと立証されるならば大切にはして貰えるだろうが……それが、果たして本当にルシェラにとっての幸せかどうか、エリーゼには断言できなかった。

「何にせよ、数ヶ月くらいは大丈夫でしょう。少し様子を見てからでも遅くはないわ。大体……神殿に、私ほどいい医者がいるかしら?」
「……そうね……医務室に治癒師くらいは置いてるし、あたし達なら誰だって治癒魔法くらいは使えるけど……病気は難しいわね」
「私でも何ともならないかもしれないから、お父様のいる王都に移したいくらいなのよ。たとえ陛下に知られても、動かせる状態ではない事は分かって頂けると思うから」
「そんなに……悪いの?」
 よくない、とは分かっていても、エルフェスにはっきりした事など分からない。
 エリーゼは眉を顰め、小さく頷いた。
「空の神殿くらいまでなら、確かに何とか動かせなくはないと思うけど」
「……神殿は、ここから徒歩十分くらいだけど?」
「だから、そういう事よ」
 母の証言にエルフェスも困った表情になる。
「……声を小さくしなさいって言ってるでしょう? リファスに触れていたら声は聞こえるって言うし……安静にしていなくちゃいけないんだから」
「……………………はぁい」
 エルフェスは一瞬、ぎゅっと口を噤んだ。
 しかしそれはほんの僅かの間の事で、小声ながらまた直ぐに口を開く。
「あたし…………サディア様を探すわ。神殿も無理。でもここだって危ない。そうなったら、やっぱり国守様をお探しするしかないと思うの」
「……それはそうだけど……どうやって」
「神殿にはたくさんの方がいらっしゃるのよ。中央からだって。みんな、あたしを見に来るの。お祖父様やリファス程でなくたって、あたしもいろいろお知り合いがいるから」
 巫女として舞を公開しているわけではあるが、その美しい姿に見せられた信奉者は多く、地方領主はおろか、中央で権勢を振るう貴族達にもその名は響いている。
 身売りしてまでとは言わないが、多少の媚を売れば口を滑らせる輩はいそうだ。
 自信ありげな娘に、エリーゼは大きく溜息を吐いた。
「そうまで言うなら……好きになさいな。でも、くれぐれも皆様に必要以上のご迷惑は掛けないこと。それから、自分の身体は大切にする事。いいわね?」
「分かってる。あたしはそこまで子供じゃないし、馬鹿でもないもの。安売りするのだけはゴメンだわ」


「ただいま」
 夫の帰宅を知り、エリーゼは玄関まで出迎えた。
「お帰りなさい」
 頬に口付けを交わし合う。 
 基本的に挨拶として口付けをする習慣はこのラーセルムにはない。
 しかし、出逢って恋に落ち三十年。今まで些かも変わりがなかった。
 ただ、今日の夫ファディスは優しげながらも微かに眉根を寄せている。
「お疲れさま。お風呂、沸いてるわ」
 衛兵として帯びていた剣を取り壁に掛ける。外套も脱がせにかかった。エリーゼは甲斐甲斐しい。
 と、急に手を取られた。
「何?」
「……今日、大変な方がいらっしゃったって、本当かい?」
 五十に掛かろうかという年ながら些か頼りなく見える容貌が曇っている。
 品も良く物腰も柔らかで、これでよく衛兵が勤まるものだとエリーゼはいつもながらに思う。
「エリファがここまでお連れしたのだもの、気付かないわけはないわね。……ええ、いらっしゃったわ」
「どんな用件だったんだ?」
「今うちに入院している方についてお問い合わせしたら、ご直々にいらっしゃったのよ」
「ティーアの方だとは聞いていたけれど……」
「そう。だからいらっしゃったの。ごめんなさい、黙っていて。大使がいらっしゃるまでは不確かだったし、私は信じてもいなかったのよ。医者には守秘義務だってあるし」
「一般市民ではないんだね。大使が直々に来ると言う事は」
「ええ……」
 エリーゼは言葉を濁し、夫の肩に額を当てた。
 大使が一瞬口走った名が、エリーゼを躊躇わせていた。
「エリーゼ?」
「…………貴方には、話さなくちゃね」
「何を?」

「フィデリア」

 エリーゼの呟いた名に、ファディスの顔は見る間に青冷め強張った。
 エリーゼは小さく息を吐き、顔を上げる。夫の顔を見、微かに眉を顰める。
「聞いた瞬間にはよく分からなかったのよ。でも……ずっと昔に、聞いた気がして」
「何故、その名が……」
「大使が呟かれたのよ。その、入院されている方のお顔をご覧になって」
「顔?………………………………………………ま、まさか!? いや、でも……そんな……」
 思わず声が上擦る。
「……多分、当たっているわ。貴方には分かることでしょう?」
 エリーゼは縋る様に見詰められ、はっきりと頷きを返した。
「そんな……」
 ファディスは衝撃を隠せない様子で、よろよろと壁により掛かった。
「何故、うちにその様なお方が……」
「……詳しいことはよく分からないのよ。どんな経緯でいらっしゃったのかも、はっきりとは……。でも、嘘ではないみたい……」
「……………………」
 ずるり、とファディスの背が壁を擦り落ちる。
「潮時なのかしら。子供達に黙っているのは……」
 ファディスは立ち直し、エリーゼに疲れ切った様な目を向けた。
「……………………お会い、出来るかな」
「分からないわ。眠っていらっしゃるかも。リファスが付きっきりだから心配はしていないけれど」
「そう……ご様子を拝見させて頂くだけでも」
「……分かったわ」

「リファス」
 病室の前まで移動し、扉の外から小声で呼びかける。少しして扉が開いた。
「どうかした?」
 隙間から覗かせたリファスの顔は、穏やかながらひどく楽しげだった。
「ルシェラ殿下のご様子は?」
「今さ、いろんな絵を一緒に見てた。明日一緒に中庭に出ようって」
「そう……」
「この部屋に花の鉢を運んでもいいかな。生きてる花が見たいって」
「そうね……縁起は余り良くないけど、そういう希望なら。縁起なんて気の持ちよう一つだし」
「で、何?」
 来たからには用事があるのだろう。
 リファスは軽く興奮したまま、母親を向けて小さく首を傾げた。
「お父さんが殿下にご挨拶したいって。大丈夫かしら」
「ご挨拶?……ん……ちょっと待って。聞いてみる」
 顔を引っ込める。

 ややあって、中からリファスの声が微かに聞こえてくる。しかし扉は案外厚く、またとても大きな声というわけでもない為に内容までは聞き取れない。
「……どうかしたのかしら」
「無理を言うつもりはないんだけどな……」
「リファス……リファス?」
 少し強めに扉を叩く。
 聞こえていないわけではないだろうが、また少し待たされる。
 扉が開く。
 顔からは、先の楽しげな様子は完全に消えうせていた。
「……ごめん。無理。今日は……いろいろあったから、ルシェラも疲れてるし……」
 部屋の中を振り返りつつ、並んでいる両親に申し訳なさそうな顔になる。
「具合どうなの」
「母さんは入ってもいいと思う。でも……父さんは、ちょっと……ルシェラにとって「父親」ってのは、いろいろ……難しいみたいだから」
 リファスの表情に苦渋が浮かぶ。
 エリーゼも、昼の話をいろいろ思い出して頷いた。
「そう……ね……」
「無理にと言うわけではないんだよ。落ち着かれて、お会いできるようなら……ご挨拶しないわけにもいかないかと思っただけだから」
 ファディスは口を挟み、心配げな表情でリファスの肩の向こうを窺う。
 物音はなかった。ただ、冷たい気配を感じる。
「身体は、昨日から変化ないと思う……後は、心の問題だと思うんだけど。俺が何言っても仕方ないし、医者に任せる」
「…………お父様にお願いしたいものね、本当に……」
 エリーゼはその言葉を受けて思わず呟く。
 そんな深く沈む妻と息子の表情を見て、ファディスの柔和な顔も曇った。
「そんなに……」
 ファディスの脳裏には、30年以上も前の記憶とある女性の姿が浮かんでいた。
 美しい人。優しく、明るく、聡明で気高かった女性。
 エリーゼに出会わなければ……あるいは、未だに想い続けていたかもしれない。
 その女と同じ顔をしている筈のルシェラの苦境を思い、双眸が潤みを帯びる。
 しかし、俯きかけた顔を何とか上げ、エリーゼに向く。
「エリーゼ、そのお方は、いつまでうちにご滞在に?」
「まだはっきりとはしてないの。帰る決意を固められるまで、としか。今は……世界を知りたいのだと仰って」
「そう…………私たちが助けになれるのなら、出来る限りの事はして差し上げたいね」
「ええ。そう思うわ」
「父さんも……そう、思ってくれる?」
 父親だけが知らない、という状況を、リファス自身もよしとしていたわけではない。
 受け入れて貰える選択だとも思っていなかったが、了承を受けてリファスの心は軽くなった。
 安堵の笑みが浮かぶ。

「……勿論……そう、思うよ……」
 今にも泣き出しそうに答える父を、リファスは不思議そうに眺めた。
 エリーゼは、そんな夫と息子の姿を複雑な表情でただ見詰めるしかなかった。


作 水鏡透瀏

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