ルシェラが現れてから一週間が過ぎた。
 相変わらず状態は一進一退を繰り返している。
 微笑む回数は日に日に増していたが、それが故か鬱状態に入った時の様は悪化している様にさえ思う。
 漸く食事には慣れてきたらしく、重湯から五分粥へと内容は変わっていた。それだけでも大した進歩だ。

 幾度も話しかけ続けた成果は上がっている。
 互いに大変親しくなれた。一週間という短い時間ながら、全く時を要しなかった。
 リファスは自分の家族構成や趣味、特技などを事細かく伝え、リファス自身も、いろいろとルシェラの事を知る事が出来た。
 父の名。暮らしぶり。従者の事。…………客達の事。
 ルシェラには秘め事とそうでないものの区別がない。辛い事はなるべく聞きたくなかったが、リファスに心を許したルシェラは、嘔吐や意識の混濁、混乱などを繰り返しながらもリファスに殆どの事を打ち明けた。

 その美しさ故に……。

 それはリファスの身にも覚えのある忌まわしい記憶だった。
 ルシェラの様に連日というわけではない。しかし、過去に二度、そう遠くはない頃に無理強いをされた事があった。
 一度目は通っていた学院の教師。
 二度目は、街の不特定複数の大人達だった。
 自身に自覚はないが、リファスもまたルシェラと同じ、何処か性別を超越した空気を纏い、ともすれば人を惑わす魅力に溢れている。姉達に似た……姉達以上の美貌に実際惑わされた者がいるのだ。

 自分も同じだとルシェラに伝えると、ルシェラは必要以上にも思える程に嘆き悲しんだ。
 仕事なのだと認識していても、嫌で堪らなかったのだろう。同じ傷を持つなら慰みにもなろうかと思って打ち明けたが、そうはならない様だった。
 我が身のことは横に避けて、リファスの身の不幸だけを思い悲しんでいる。
 その心根の優しさと純粋さに、リファスは自分の心が次第に傾いていくのが分かった。
 慰めあえる相手を求めていたのは自分だ。
 しかし、ルシェラを見ていると、たった二度犬に噛まれた程度の事に思えてきた。
 確かに不幸な事だったとは思うが、ルシェラに比べればまだ……。
 単なる同情ではないと思う。不幸が日々続けば、それは地獄だ。
 聞いた話に因るなら、ルシェラの不幸はもう9年も前から続いているらしい。とても堪えられはせまい。
 精神に疾患を抱えるのも無理はない。
 そう考えるだけで、リファスの胸は鷲掴みにされる様な萎縮感と痛みを覚えた。

 ルシェラの身の処し方についてはエリーゼが考えている様で、初日のうちにティーア大使館へ照会を入れている。
 しかし、6日経った今も返答はなかった。
 まだリファスが伝えたルシェラの出自については信じていない。
 確かに荒唐無稽で、陳腐で小説にも出てこない程だろう。事実は小説より奇なり、というのも、滅多にある話ではない。やはり、大人が信じられる話ではなかった。


「おはよ、ルシェラ。気分はどうだ?」
 夜の間は閉ざしている雨戸を開け、けれども窓掛けは開けず。薄く窓だけを空かせて薄く目を開いているルシェラの側に寄る。
 額に軽く触れ熱の具合を診、その後手を取り、脈を診た。
「うん。安定してきてるな。相変わらず弱いけど」
――おはようございます――
「うん。身体は?」
――ええ、お陰様で――
 華奢な腕が伸ばされる。軽く身を屈めると、肩にその腕が乗せられた。首に絡みつく。
 微かに浮いた背を手で支え抱き起こしてやる。
 ルシェラは微笑んで、小動物の様な仕草でリファスに頬を寄せ擦り寄った。
「食欲はどうだ?」
――少し頂きます――
「すぐ持ってくる」
 額に軽く口付け、ルシェラの背にありったけの枕とその予備を積み上げる。そこへ身体を預けさせ、リファスは離れた。
 リファスの気配は既に覚えた。離れてもその存在を感じる事は出来る。不安に陥る事はなくなっていた。

 リファスは本当に直ぐ戻ってきた。
 食欲次第では食べ物の匂いだけでも気分を悪くしてはいけないと、廊下に控えさせていただけらしい。
 些細な心遣いが身に沁みて嬉しい。ルシェラは微笑を深くし、リファスが再び触れてくれるのを待った。
 触れられなくとも、人の声の中でリファスの声だけは聞こえる様になって来ている。
 楽の音と同じ響きをしているからだろうか。エリーゼの声は未だ聞こえないが、リファスだけは特別の様だった。
 視界は変わらず閉ざされていたが、一つ一つ失っていた世界が戻って来ている、そんな気がした。
「今日も粥だけど、少し味付け変えてあるんだ」
 肩に手が回され身体を支えられる。
 匙に取って少し吹き冷ました後ルシェラの口元へと運ばれる。舌が慣れず熱いものが苦手なルシェラには、それでもまだ少し熱い。
 僅かに眉を顰める前に、リファスは様子に気付いた。
「ごめん。まだ熱かったか」
 察しが早いのが気楽でいい。
 ルシェラは小さく首を横に振った。
 匙の端に軽く口をつけ、にこりと微笑む。
 米と塩以外に何かの風味がする。しかし、ルシェラにはそれが何かよく分からなかった。ただ、美味い。
 その様子を見て、リファスも釣られる様に微笑を返す。

「今日は、さ。具合もいいみたいだし、少し部屋を出てみないか」
 ゆっくりと口元へ匙を運んでやりながら、優しく尋ねる。
 ルシェラは匙に口を付けたまま、きょとんとした表情でリファスを見遣った。
「家から出るのはまだ無理だろうけど。ここより、庭に面した一階の部屋とかの方が、気持ちもいいかと思うんだ。ずっと同じ部屋ばかりだと、気も滅入るだろ?」
――貴方が……そう仰るなら……――
「嫌ならいいんだ、別に。でも、大使館から連絡が来るまではここで暮らすんだしさ」
――まだ……返答はないのですね……――
 匙から口を離し、笑みが複雑なものに変わる。
 戻れば地獄。けれど、このまま放って置かれるのも自身の存在意義を思えば酷く辛い。
「少し時間が掛かってるみたいだな。仕方ないよ。慎重に事を運ばないといけない身分なんだし。心配しなくても、そのうちちゃんと連絡が来るって」
――…………戻って……どうなるのでしょうね……――
 今度は、それこそ誰も訪れる事のない場所へ封じられるだろう。
 男達も来ず、世話をするものもなく。
 たった一人、閉ざされた場所でただひたすらに死ぬ時を待つ。
 それを堪える事は出来ただろう。あの時エイルさえ訪れなければ。
 しかし、今のルシェラはリファスを知ってしまった。あの時にはもう戻れはせまい。

 ダグヌが与えてくれたものとも、エイルが与えてくれたものとも違う。
 ミルザが残してくれた記憶が最も近しい気もするが、それよりもっと奥底がリファスを覚え、欲していた。
 暖かい、優しいもの。胸の奥がじんと潤むような感覚が。
 リファスの側にいるだけで心が軽くなる。幸せというものをやっと理解出来た気さえもした。
 ずっと触れ合っていたい。片時も離れたくない。
 リファスの与えてくれるもの全てが、ルシェラの心も身体も一切合切を満たしている。
 人に執着などしたくなかった。それなのに……。
 セファンに知られる事さえないなら、全ての不安すら払拭され晴れやかになるだろうに。

「帰りたくない?」
――いいえ。帰らなくてはなりません――
 きっぱりと応えるが、その身体は震えている。
 ルシェラ自身にも、どちらを選びたいのか分かってはいなかった。
「そうじゃなくて……帰りたいか帰りたくないかを聞いてるんだけど」
――わたくしに選ぶ権利はありません――
「何で? 戻ればまた……せっかくよく笑ってくれる様になったってのに」
――わたくしはまだ、国で必要とされている……その為には、国に帰らねばなりません。帰って、父上にお詫びを申し上げ、また……また…………――
 潤みきった瞳が縋る様にリファスを見詰める。
 捨てきれない希望があった。いや、忘れていたし、捨て去っていたものが……リファスの優しさによって取り戻されてしまっている。
 その希望を無駄だとは思いたくなかった。
「そっか…………ルシェラがそう言うなら……。なぁ、ルシェラが国に帰るとき、俺もついていっていい? ティーアって国を見てみたい」
――……わたくしについていらっしゃっても、ティーアの何をご覧になる事も出来ないでしょう。わたくしとは離れ、個人的に国を訪れてください。そうすれば、ティーアの良いところをご覧になる事も出来るでしょう――
「お前が見て来たティーアを見たいんだ」
 真摯に見詰め返され、ルシェラは目を反らせた。
 人が見てどう思うものなのかは知らない。ただ、自身にとって望ましくないものは、余人にとってもそう望ましいものではないのではないかと思う。ことに、リファスの様に心優しく純粋な人間にとっては。

――国に戻った後、我が身の処し方がどうなるか……セファン陛下のみがご存知です。恐らく、貴方に会う事は二度とないでしょう――
「それは…………仕方ないよな。ルシェラは王子様で国守様で……俺はただの街医者の息子なんだし」
――貴方だけがわたくしを開放してくださった。貴方から離れたくありません。けれど……このままの状態が続くのも、よしとは思いません。どうすれば一番良いのか、わたくしには分からないのです。申し訳ありません……――
 帰りたい、帰りたくない。
 その相反する考えがルシェラを引き裂こうとする。
 止め処ない涙。
 匙を口へと運んでいたリファスの手も濡らした。

 皿と匙を横へ置き、リファスはルシェラを抱き締め髪を撫でる。
 一週間で、それは当然の行動と化していた。
 髪や額、頬に口付ける事も、一切の躊躇いはない。
「俺だって、お前と離れたくなんてないよ……。でも……お前には義務も責任もある。仕方のない事なら…………俺は諦める。ルシェラを苦しめたくないから」
 ルシェラは目を細め、リファスの肩口に頭を預ける。
 尽くされる言葉が心地よかった。
 僅かに首を後ろに傾け、リファスの顔を見上げる。
 リファスの顔を見ているだけで安らいだ気持ちになれる。不安定になりがちな精神が落ち着きを取り戻す。涙が止まった。
――…………許される事なら…………――
 永遠に貴方の側に……。
 心の薄皮一枚を隔てたところまで迫る言葉を伝える事なく飲み込む。
 ルシェラはただ、微笑を張り付かせる事しか出来なかった。
 リファスと触れ合っていると、守られているという思いが強くなる。本来なら子供の間には親から与えら続けるであろうその感覚を、ミルザ以来久々に、改めて知った思いがする。
 心を許した相手に、ルシェラは何処までも純粋な想いを捧げた。

「このまま……何の連絡もなかったらいいのにな…………そうしたら、選ばなくていいのに」
――そう……思って下さいますか?――
「勿論。だって……戻ったらお前はどうなる? お前が説明してくれた国での生活……否定したくはないけど、でも……ここにいれば、俺が絶対に幸せにするのに」
 ルシェラの顔容に笑みが満ちる。
 艶めかしくも清純な微笑んだ唇にリファスは惹き付けられた。けれど、一線を越える事は考えられもしない。
 ただ、この頭の中に響く声が唇から発せられたらどれ程素晴らしい事だろう。
 その事ばかりを願う。

――お食事の続きを…………――
 切り出すには勇気が必要だった。
 けれど、このままではただリファスに縋り、微かに空気を動かす事さえ億劫になってしまう。
 そこまでは、リファスに期待したくなかった。
 セファンの手からは逃れられないのだ。
「ああ、ごめん。どう? 味は」
――いつもながら、大変美味しく思います。お料理がお上手でいらして、尊敬致します――
「気に入ってくれてるならいいんだ。お前には、俺が作れる一番最高のものを食べて欲しいから」
――お食事とは、どの様にして作られるものなのですか?――
 そう尋ねられ、リファスは返答に困る。
 どの様にして……と聞かれても……。
「うーん……そうだ。台所に行こう。一緒にお菓子とか昼飯とか、作ろう!」
 旨い考えだと我ながら悦に入る。
 しかしルシェラは少し驚いて尋ね返した。
――わたくしも……ご一緒して宜しいのですか?――
 他の部屋へ行く事など考えも及ばなかった。寝室と書庫以外に、ルシェラの知る光景はない。「台所」というのがどんな場所なのかも想像も及ばない。
 ただ、「作る」という言葉の響きに胸が高まる。
 奪う、壊す……それだけが自分に出来る事だと思っていた。
「勿論!! そうしよ。なっ。これ食べ終わったら下に降りよう」
――ええ、では頂きます――


作 水鏡透瀏

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