「そうだ。忘れかけてたわ。……殿下、お着替えになられましたら、お聞き頂きたい事がございますの。宜しいですか?」
 見詰め合い抱き合うだけでは何も進展しないし、エルフェスはとてつもなく暇だった。
 ルシェラに伺わなくてはならない事があった事を思い出し、口を挟む。
――今ではならない事ですか?――
「いいえ。ですが、まずはお着替え頂かなくては……僅かばかりお具合が良くなられても、お風邪を召してしまわれては元も子もございませんわ」
――お気遣い、嬉しく思います――
 微笑み、肩に掛けられていた衣服に袖を通す。
 丈は丁度良いようだったが、胴回りなどは二回り近く余っている。
「やっぱりちょっと大きいか。明日までには合わせておく。後で着丈を計ろうな」
 立ち上がらせ、身なりを整えてから寝台に座らせる。
 ルシェラは導かれるままに従った。

――それで……お話とは?――
 毛織の肩掛けを羽織らせて貰い、エルフェスへ向き直る。
「昨日、ラーセルム王女サディア殿下のあらせられる場所が特定できました。直ぐにご報告申し上げようと思ったのですけれど……昨日はあまりご加減が宜しくない様にお見受けいたしましたので、控えておりました。お許し下さい」
――ご無事なのですね?――
「はい。恐らくは」
 エルフェスの返答を聞き、ルシェラは長い安堵の息を吐いた。
「ご連絡はまだ致しておりません。殿下のご意志を伺ってからにと思いまして」
――ええ…………お手を煩わせました。…………彼女の事は、覚えていると思います。……かの方がわたくしを覚えていらっしゃるかは、分かりませんが……――
「国守同士は引き合うとも申します。まだお若い方ですけれど、大変聡明でお優しく美しい方ですから、もし記憶に乏しくとも必ず殿下の助けにもなりましょう」
――ええ…………――
 ルシェラはそっと目を閉じた。
 きりりと精悍な少女の姿が瞼裏に浮かぶ。
 機知に富み、冷静沈着で統率力にも優れていた。
 国守……神の国に繋がりながらこの世界に身を投じた者達の要でもあろう。
 覚えている。
 サディアの事だけでなく、他の国守達の事も微かながら確かに記憶があった。

――お願い致します。サディア殿にご連絡を。…………わたくしは、わたくし自身について何も覚えていない。サディア殿が助けになって下されば、これ程心確かな事はありません――
「畏まりました。数日のうちには、サディア様の下へ書簡をお送り出来る事かと思いますわ。殿下ご自身で書簡を書かれますか?」
 ルシェラは驚いた様に何度か瞬きをしてエルフェスの様子を窺った。
 書簡など書いた事はない。
 文字は習ったし書物を読む事には何の支障もないが、練習以外で文字を書いた事もない。文章など作法も何も知らなかった。
――お任せ致します。……何をどの様にしたためればよいのか……わたくしには全く分かりませんから……――
「畏まりました。では、私とリファスの合作でお送りしておきますわ」
「俺も?」
「あんたの方が遥かに字が綺麗だもの」
「了解」
 砕けた調子で敬礼して見せたリファスに、尚のことルシェラの表情が曇る。
――本当に……お手を煩わせてばかりで申し訳ありません……――
「気にすんなよ。お前の不安感とかそういうのが少しずつ……一つ一つでも晴れていけば、俺にとってそれ以上嬉しい事なんてないんだから」
 また、見詰め合う。
 既に二人に言葉は必要ない様だった。

「…………窓、開けるわよ」
 返事を待たず、エルフェスは窓を大きく開け放った。
 ルシェラが怯える事は知っている。窓掛けは閉めたままだ。
 空気が、エルフェスにとってはとてつもなく暑苦しい。
 まあ双方共に大変見目良く美しい光景ではある。しかし、現在一人身のエルフェスは当てられて仕方がない。
――お天気は、いかがですか?――
「ええと……そうよくはありませんわね。雨は降っておりませんけれど」
 軽く窓掛けを手で払い外を窺う。
――お外へ出られますでしょうか。あまり……望ましくはないのですけれど…………サディア殿に直接お話できることなら…………――
「直接?」
――…………今、貴方方とお話している様に……恐らく、お外の精霊達を介せば…………ただ……見つかってしまう…………――
「見つかる、とは一体何方に」
 頼りない指先がリファスの服をぎゅっと握る。
 精一杯己を保とうとしている表情が痛々しい。

――何に?…………分からない…………分かりません、けれど………………――
 何に怯えるのか……酷く震え始める。
「ルシェラ?」
 事情が飲み込めないながらも、リファスはそっと背を撫でて宥めにかかる。
「書簡を送れば数日で届くんだし、届けばきっと何かの反応はしてもらえるさ。そんなに怖いことなんて、無理にする必要ないと思うけどな」
――けれど…………けれど…………サディア殿に…………早く、お会いできれば…………貴方方のお手を、必要以上に煩わせなくてすみます……――
「手なんて煩わされてない。俺がしたくてしてる事に、お前が口挟むなよ。お前だって姉貴に言ったろ? 自分で決めるって。同じ事だ。手間かどうかは俺が感じることで、お前が必要以上に気にかける事じゃない」
――けれど……――
「はい。この話はお終い。外に出たいなら連れてくけどな。今なら少し体調もいいみたいだし、無理をしない程度に少しずつ動いて体力つけるのは悪くないと思うぜ」
 ぱんっ、とルシェラの前で手を一度叩き、仕切り直す。
「サディア殿下がお前の身内みたいなもんなら、お前が無理する事なんて望んでないと思うけどな」
――…………はい…………――
 強く握っていたもので、指先が白くなっている。
 リファスはその手を開かせ、優しく包み込んだ。

「本日中には早馬を飛ばします。私達が書簡をしたためる間、ごゆっくりとお休み下さい」
――ええ…………お任せ致します……――
 ルシェラは重ねた手に指を絡めた。離そうとしない。
「ルシェラ…………。いいよ。お前が寝付くまで、側にいてやるから……俺の寝台だけど、ちょっとここで休んでるか?」
 指を絡めあったまま、リファスはルシェラを抱き起こして自分の寝台に座らせる。
 上体を倒し、枕に顔を埋める様にして、ルシェラは深呼吸をした。
――貴方の香りがする……――
 足を上げさせ、掛け布を掛ける。
――……貴方に包まれている様ですね……――
 軽く鼻を鳴らして見せる。
 うっとりと幸せそうだった。
 その様を見ていては、とても手を放せそうにもない。
「エル姉、ちょっと待ってて。ルシェラを寝かせてから、な」
「………………はいはい。昼ご飯でもつついて待ってるわ」

 ルシェラの視線はリファスを捉えたまま離れない。
 どれだけ見詰めていても飽きなど来なかった。
 それどころか、瞬きをする間さえ惜しく思う。
 これまで巡り会えなかった時間の全てを取り戻したい。
 三週間。
 たったの三週間だ。これまで生きてきた十四年の時が、たまらなく勿体無かった。
 口を開く間すら惜しい。ただ、見詰め、感じていたい。
 握った手につい力が入る。
「まだ少し、落ち着かないみたいだな」
――いいえ。……ただ、貴方のお側にいると、胸が高鳴って…………――
 紅潮した頬が愛らしい。
「少し休まないと……朝起きてから身体に負担掛け続けてるんだし」
――負担なんて……。貴方に触れて頂くのに、負担だなどと、有り得ません――
「凄いこと言ってる、って……自覚もないんだよな」
 微かに呆れはしても、リファス自身それを受け入れている。
 ルシェラは言葉を飾る事を知らない。これだけの事を言っても、それが心から真っ直ぐ素直に出たものだという事は良く分かった。
 軽く形のよい鼻先を弾く。ルシェラは擽ったそうに小さく肩を竦め目を細めた。

 仕草の全てが愛らしくいとおしい。
 もっと早く出会いたかった。ルシェラの身体を思えば思うほど、そう思う。
 残された時間はあまりに短い。
「もっと……早く会いたかったな……」
――……同じ事を考えていました……――
 意味は違っても、思う事は同じだ。
「サディア様がお前を引き取ったら…………もう会えなくなっちまうんだろうな、俺達」
 その呟きに、ルシェラの頬から血の気が引く。
――そう…………そう、なのですね…………――
 リファスを見詰める瞳が見る間に潤む。
――お願いしても……お許し頂けないでしょうか…………――
「サディア殿下も大変なお立場なんだし……無理は言えないよな」
――……ええ……――
 絡めた手により力が入る。強張って、力を抜く事は出来ない様だった。
――………………貴方だけが、わたくしをこれ程に満たして下さる……離れたくない………………満たされる事がこれ程心地いいものだなんて、忘れていました……いえ、今の、このわたくしは、そんな事も知らずに生きてきた…………貴方でなくては、わたくしは満たされない、そう……思えてならないのです……――
 リファスの手を頬に当てる。冷たいそこに、リファスの手は暖かかった。
――ごめんなさい…………貴方の時間を奪ってしまう…………――
「そんなの…………出来る限り一緒にいられるよう、お願いしてみよう。俺も、これでお前とはいさよなら、なんて……したくない」
 手を握り返す。

「側にいるよ。俺がいたいから、そうするんだ。お前が言うからじゃない。だから、お前が気遣う必要なんてないんだよ」
 足を軽く伸ばし、一番近い場所にあった椅子の足に爪先を引っ掛けて引き寄せる。
 寝台の直ぐ側に座り、空いた手でルシェラに掛けた掛け布を引き上げて前髪を払う。
「俺も……離れたくないって思う……。その……身体を繋いだから、とかじゃなくて……俺も、初めて…………こんなに満たされて……心が、心地よくって…………他の誰でもなくて、お前だから、こうなれたんだ、って……そう、思う……だから…………」
 やっと会えた。
 繰り返し突き上げるその想いが、リファスの方からも繋いだ手を離し難くしていた。
 互いに言葉を尽くそうとするが、結局繋いだ手の温もりに勝てるものなど何もなかった。
――……大使が来る前にも、同じ様だった気も致しますけれど……――
「うん。……二週間経っても変わらないな。……離れたくない……あの時より、もっとずっと……強くなってる気がする」
――わたくしも……――

 それから、焦れたエルフェスが再び訪れるまで、片言の睦言を繰り返しながらただ手を握り合っていた。
「………………呆れたこと」
 エルフェスはそれだけを呟いて、二人を見なかった事にした。
 一々付き合っても仕方がない。ただの邪魔者だ。
 離れ難く、身体を触れ合わせたままエルフェスが言う通りに書簡をしたためる。
 そして直ぐ様神殿に早馬を頼んで書簡を託した。
 送り先は並み居る貴族の中でも特に格式の高い、王家に次ぐ程の家柄だ。町にある様な普通の配達業者では受け付けて貰えまい。その為の処置だった。
「これで、数日すればきっと何らかの反応はある筈よ。信じるにしても、警戒するにしても、何かは…………って、聞いてる?」
「聞いてる聞いてる。頼むぜ、頼りにしてるから」
 生返事を返しながらも視線は離れない。見飽きた姉の顔などとは比べ物にならない。
「…………もぅ。いいわよ。ご馳走様」

 そして数日後。
 一人の急患が診療所に転がり込んできた。


作 水鏡透瀏

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