「……私が生きている限り、弟達や妹達に王位が継承される事はない。だからこそ、叔父上達は私の身柄を押さえたいのだ。私を確保した上で、一人ずつ他国へ嫁なり婿なりに入れるつもりなのだろう」
 サディアは窓の外を見遣った。透かし編みの窓かけの向こうに曇りの空が見える。
「私がいなくなるのは、その後でなくてならない。別に、弟妹達に重責を負わせたいわけではないのだが……今の王では国の先行きが不安で仕方がない。お前はよく分かっていると思うが、王とは……」
──王とは、民の僕。民ありてこそ、国は生き、続いていく……──
「そうだ。……叔父上は、それを理解していない。セファン殿が付け上がらせている。セファン殿も摂理を弁えた方であろうに……何をお考えなのか」
──…………あまり、望ましくない事をお考えなのでしょう…………──
 セファンの名を聞く度にルシェラの顔が強張る。
 サディアは気付いたが何も言わなかった。
──陛下がどの様なお考えを以てラーセルムに干渉なさっているのかは存じません。わたくしは……どちらのお味方をすればよいのか…………──
 頼りなげな風情で眉根を寄せる。
 眉を顰める事で心情は表されていたが、表情には酷く乏しい。
──勿論、貴方のお力になりたいと思います。けれど、それがセファン陛下の望むものと違えた時に…………わたくしには動く事が出来ないやもしれません…………──
「無理は言わない。聞いてくれただけで嬉しく思う。お前に無理をさせては、私がリファスに叱られてしまう」
 微笑みかけるサディアに対し、ルシェラの表情は晴れない。
──今、ご弟妹方はどの様にお暮らしなのか、ご存じなのですか? ご苦労なさっているのでは……幼い方々が大変なお暮らしをなさっていらしては、あまりにお可哀相です……──
「妹二人は王城内の尖塔の最上階に囚われているらしい。弟達はまだ幼い故機転も利かず……なかなか様子が分からないのだが……」
──塔……──
 唇が震え、紙の様に白かった頬が土気色を帯びる。
 脳裏に散々に巡るのは、自身の塔での生活だった。塔で暮らしていると聞かされると、浮かぶ事はその情景しかない。
──何ということ………………直ぐにでも、お救いせねば……──
「まぁ、そのお陰で、王城の奥に封じられるよりは連絡を取れる状態にあるのだがな」
──どの様に……──
「風鳥と言う鳥を知っているか。ラーセルムの国鳥だ。賢い鳥で、人や土地、魔力の波長や精霊力などを覚える。妹達とは、その鳥に依って連絡を取り合っている。塔は出られない代わりに、鳥などに注意を払い難いからな」
──鳥…………申し訳ありません……その風鳥というものは分かりませんけれど、その窓辺にまで来てくれる生き物を鳥と呼ぶのはリファス殿に教えて頂きました。危険なく通じる事が出来るのであれば、それは大変ようございますが…………──
 サディアはルシェラの物言いに顔を顰めた。
 ルシェラの中の「記憶」というものの配分を掴みかねる。
 人に対する記憶、自身の身に起こった事の記憶……日常に対する記憶は酷く薄いというのか。
 長い記憶を背負うからには、重要な事だけを選び取って残してきている。日常の事は、その時々の所為において学ばねばならない。それまで負っていては、時代の流れにも取り残される。
 今のルシェラには、その、それはそれなりに生きていく上で重要な事柄がすっかり抜け落ちている様だった。

「お前の……国での暮らしぶりを教えて貰いたいな……」
──申し上げ難く思います。リファス殿もお聞きになるに連れて、大変不愉快になられたご様子で…………──
「だから、聞きたいのだ。セファン殿は、今度はお前をどの様に扱った」
──わたくしは…………陛下のご期待にも、ご要望にも全くお答えする事が出来ませんでした…………──
 肩が震え、瞳から涙が溢れる。
 リファスといる間には極力考えない事にしていたこれからの事が脳裏を過ぎっていく。
 戻らねばならないのだ。残された時間はそう多くない。
「…………セファン殿は、未だ兄上の事を引きずっているのか?」
──ご存じなのですね…………貴方は…………わたくしが、あの方の兄にはなれぬ事も……──
「当たり前だ。求めれば求めるほど現実が乖離していくという現状を、あの男は理解していない。ただ……その求める行動が、お前以外にとっては大変望ましいもので……誰も本気になって諫めようとはしない。お前とて…………周囲の噂を聞いた事はあるだろう」
──ええ…………。陛下がどれ程立派に治世を行っているか……どれ程有能な方か……何度もお話を伺いました。大変に誇らしく思います。治世を行いながらもどなたにも頼らず、ふた月もの間わたくしの世話をしてくださった事もあるのですよ──
「たいした胆力だな……」
 嬉しげな、誇らしげなルシェラに対し、サディアは呆れを通り越して脱力している。
 確かに詰る事は出来ないが馬鹿馬鹿しい。
「セファン殿らしいと言うべきか」
──…………そうまでして頂きましたのに……わたくしはただあの方のお怒りを買う事しかできなかった……──
「何をした?」
──命に従えませんでした。……………………グイタディバイド卿のお怒りを買い、五古国会議にかけると……──
「五古国会議? そんなもの、もう十数年は開かれていないが」
 ルシェラは小さく首を傾げた。
──……今、グイタディバイド卿はどちらに──
「分からない。稀に卿から連絡は来るから、亡くなってはいない筈だが」
──そうですか…………あの方も陛下のお怒りに触れ……危ういのかもしれません……三年前に、わたくしの為に五古国会議を開く様各国に通達して下さると……そう仰有って下さったまま……──
「…………三年前……」
 サディアの目が、つと細められた。

 三年前。
 ルシェラにとっても激動の時だったが、サディアにも大変に周囲の動いた時期でもあった。
 父母が亡くなり弟妹達とも引き離されて祖父の元へ身を寄せた年だ。
 叔父叔母の台頭、ティーアの介在と、ラーセルム王家と国守が蔑ろにされ始めた最初の年でもあった。
 何故という思いがあったが、ルシェラの今の一言でそれとなく察せられ、サディアは表情を硬くした。
 だからと言ってルシェラを責められはしない。ルシェラ自身に咎はない。例え理由の全てがルシェラに起因していたとしても、それでもルシェラは何一つ過ちを犯していないのだ。
 過ちというならば、それはリファス以外の何者も受け入れられなかった、それだけの事。
 女なれば、その苦しみも理解はできる。望まぬ情事がどれ程の苦痛を齎すか、並の男なれば知らずに済んだ苦しみをルシェラは抱えて生きねばならない。
「三年間、お前もよく耐えたな……」
──いいえ…………何も……考えなかっただけの事……──
「その結果がこれか。…………一度も口を開かず伝心してくるのは……口がきけぬからだろう?」
 自身の唇に触れる。微かに紅が撚れた。
──数日前までは、リファス殿のお手がなければ目も見えておりませんでしたし、耳も……人のお声は聞こえませんでした。言葉をお伝えするのも、触れていなくては出来ませんでしたし──
「リファスに救って貰ったのか?」
──ええ…………本当に……わたくしを満たして下さって……──
 晴れやかな笑みが滲む。
「それは……よかった……」
 ルシェラの微笑みにつられてサディアも笑った。
 笑っている場合などではない。それでも、ルシェラの微笑を見るだけで何処か温かくなれた。

 しかし、急にルシェラの表情が改まる。
──それで、貴方はこれから如何なさるのですか──
「お前こそ、どうする」
 そのまま丸投げに返す。
 サディア自身にはまだ寄る辺があった。ルシェラにはまだ十四歳に過ぎないリファスがただ一人いるばかりだ。
──心ゆくまで、リファス殿に世界を見せて頂きましたら……国に帰り、陛下に心よりお詫びを致します……──
「まだお前は……セファン殿を見限りはしないのだな」
──何一つあの方の希望に添う事も出来ず……申し訳ない限りだと思っておりますのに──
 ルシェラにとっては、やはりそれが当然の事だった。
 ただ、少しばかり心境は変わっている。
 許されなかった時の事をあまり考えなくなっている。リファスが繰り返し側にいる、側にいたいと繰り返してくれたそれが、ルシェラの心の枷を僅かに軽くしていた。
「五古国の王全ての前であれば……セファン殿も考えられようか……」
 セファン自身の権限が公に存分に振るえる状況でなく、また、同等の立場の者が多く見守る中であれば、セファンとてそう無体を強いる事は出来ないだろう。
──その様な場がありましょうか──
「ある。だが………………お前には、少し辛い場かもしれない」
──どの様に──
「三月の後、現ラーセルム国王の即位三周年の式典が行われる。その場には世界の主要各国の王が顔を揃える。晩餐会や舞踏会も開かれるから、機会はあるだろう。だが…………お前、今生で式典などに参加した事はあるか?」
──いいえ……お外に出た数も、片手で足りる程の数ですのに──
「同時に、何人の人間と場を共にした事がある?」
──ええと…………四名、が一番多かったでしょうか……それが、何か?──
 小首を傾げるルシェラに対し、サディアは小さく溜息を吐いた。
「肌から伝わる人の感情に怯えた事はないか?」
 あ、とルシェラ小さく口を開け、表情を固まらせた。
 怒り、悲しみなど、国にいた頃にはセファンやダグヌ達の感情に振り回されてきた。
 このところは周りの人々も穏やかな人柄が多い為か安定しているが、つい先日にもエルフェスのリファスに対する怒りに怯えたばかりでもあった。
「式典ともなれば大勢の人が集まる。今のお前では、心を鎧う術を知るまい」
──けれど、余程お怒りや余程の悲しみなどがなければ……わたくしとて、そうむやみに怯えたり致しません──
「…………憎しみという感情を、お前は覚えているだろうか。羨望ややっかみ、そういうものが全て混ぜ合わされて渦を巻く。ティーアでお前は……王宮に立ち入ってもいないのではないか?」
──…………王宮へ参った事はございませんけれど…………──
 ルシェラには、サディアが何を危惧しているのか分からない。
 そんなに大勢の人間のいる場へは行った事がなかったし、人の感情が渦を巻いて襲う様など想像も付かない。
 確かにこれまでも感情に直接当てられて混乱する事がないではなかったが、処理できない程であった覚えは全くない。

 承伏しかねているルシェラに、サディアは軽く眉を顰めた。
「…………この町の市場へリファスと二人で普通に買い物へ行ける様になれば、式典に出るだけの支度を調えてやろう」
──市場……──
「まだそう外へ出てはいないのだろう? 外の世界になれて貰わねば、公の場になど連れて行けよう筈がない」
──貴方もご一緒なさるのですか? しかし、今は身を隠していらっしゃるのでは……──
「妹達の様子を探りに行きたいのだ。式典の日は警備が厳しいものの、それに応じて来賓も多い。潜り込む算段もあろうと思ってな。今お祖父様にお願いして下準備を整えて頂いている」
 何も分かっていない。ルシェラには解からねばならない事が山の様にある。
 今のままでは人の嵐に飲み込まれ、酷い混乱を来す事だろう。暴れられでもしたら、それこそ手もつけられない事になる。
「リファスともよく相談するがいい。お前一人では、世の中を知らな過ぎる」
──はい……──
 まだ不満げながら、ルシェラは何とか頷いた。
 そこへ、扉が叩かれる。
「どうぞ」
 サディアが応じる。
『お菓子とお茶をお持ちしました』
 リファスの声が聞こえる。
 厳しかったルシェラの表情が一瞬にして解けた。
 サディアは小さく肩を竦め、扉に歩み寄った。


作 水鏡透瀏

1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12/13/14/15
16/17/18/19/20/21/22/23/24/25/26/27/28/29/30
31/32/33/34/35/36/37/38/39/40

戻る