――本当に……わたくしに優しい世界など……あるのでしょうか……?――
 ルシェラは不安げにリファスの袖を掴んだまま放さない。
 そっとその手を包み、リファスはひたすら優しく接した。

 皆が下がり、二人きりの部屋。
 抱き合う互いの温もりに揃って落ち着きを取り戻して来ている。
 それでも、ルシェラの不安は解消されてはいなかった。
 世界を知りたい、そう望んでも、その望むものがどの様なものなのか、ルシェラには想像もつかなかった。

「俺は、お前に……優しくしてやれてないかな」
――……いいえ、しかし……ここは大地に足を着いた場所ではありません……――
「ここは、お前にとって国を離れた場所……外の世界の一部だ。それに、国で出会った全ての人からも切れてる。お前は今、一人で、俺達と接して……俺を選んでくれてる。外の世界をお前はもう知ってるんだ。怖くなんてないだろ?」
 微笑みかけるリファスに対し、ルシェラはまだ隠せない怯えに支配されながら小さく頷いた。
 リファスを含め、ここに来てから出会った人々の事を恐ろしいとは思わない。
 ただ、人も様々だ。その事は嫌になる程知っている。この一家が優しいからといって、その他の全ても優しいとは限らない。
 優しいものはあるだろう。無体を強いるものもあるだろう。
 塔にいた頃から変わらない。
 拒みたいものを拒む為なら、渇望している筈の優しいもの、暖かいものも拒絶するだけの覚悟はあった。
 ただ、その逆はない。
 今のルシェラにそれだけの強さは残されていなかった。
 リファスはそれを詰る事も出来ず、困った様な、悲しい様な表情になった。
「確かにさ……全部が全部、優しいものばかりだとは言えない。でも……怖いものばかりじゃないし、それで均衡は取れてる。どちらも同じ様に知っていけば、世界をもう少し……怯えない目で知る事が出来ると思うよ」
――貴方が……そう仰るなら……――
 親身になり過ぎるリファスに対する警戒心は薄らいではいない。
 しかし、リファスに裏がない事もまた、十分に感じられた。

「そうだ。手始めに、中庭でも眺めてみるか? 俺が手入れしてるんだ。太陽が嫌いだとは言ってたけど、室内からなら庭が見えても日の当たらないところもあるし。二階以上は中庭を一周する様に部屋があるし、一階は温室兼廊下になってるから」
――庭……とは、何ですか?――
 一瞬途惑うが、リファスは直ぐに気を取り直した。
「行ってみれば分かるさ。それより、まずは昼飯だけどな」

 二人で台所へ戻り、食卓に着く。
 石窯の中身は少し焦げていたが、食に堪えない程ではない。
 リファスとしては不本意だったが、ルシェラは気にせずに食べたいだけを食べた。
 食べて欲しいと思う量の半分にも満たないが、それでも随分食せる様になっている。
 ルシェラが満足なら構わないのだが……自身の自尊心は少しばかり傷つく。
 今食べているものが何なのかすらルシェラには分からないのだろう。
 たとえば、入っている肉や魚の原型だとか、野菜の植わっている様だとか。
 世界を教えると言う事は、そういうものも一つ一つ説明していかなくてはならないのだ。
「美味しい?」
――はい。とても――
「良かった……」
 咀嚼する力はまだまだ心もとない。そして、身体が慣れない為にまだ味の濃いものや油分の強いものも与えられない。
 離乳食の様な内容のものしかまだ出してはやれないが、それでも、食事の時間の度に僅かながら力が備わって来ている様で嬉しかった。
 匙を持つ力も、そのうちに出て来る事だろう。飲み込みきれなかった流動物が口の端を伝う事もなくなるだろう。
 ルシェラの自立と言うのは、むしろそこから始まるものだと思う。
 いきなり自分の足で立とうとしても、今の段階では自重に負けるのが関の山だ。
「午後からどうする? 中庭には行くとして……他に何かしたい事とかあるか?」
――分かりません……けれど、少し……疲れました……――
「そうだな……。大使とお話もして、疲れたよな。先に少し休むか。庭は逃げないからさ」
――…………ええ…………――

「ちょっと待っててくれよ。食器洗ったら戻ろうな」
 しな垂れかかろうとするルシェラを軽くいなし、代わりに服の端を掴ませて片付けを始める。
――何をしていらっしゃるのですか……?――
「食べ終わったら片付けないとな」
――片付け?――
「汚れを洗ったり、食器を棚に仕舞ったりする事だ。今までは周りがしてくれてただろうから、気にした事ないかもしれないけど」
 泡の立った海綿を持ったまま振り返って微笑む。
 知らない事は教えてやればいい。物を知らないだけで、知的な問題があるわけではないのだ。
――そう……ですね……。食した後の器は、置いておけば下げて頂けましたから――
「ここで過ごすって事は、出来るだけの事は自分でするって……そうなるかもな。俺の手にも限界があるし」
――お手を煩わせたいとは思いません……。お教え頂ければ、出来る範囲の事はしたいと考えます――
「結構前向きになったな。いいと思うぜ。その考え方」
――…………貴方が、わたくしの意思をお聞き下さるから……――
「当たり前だろ」
 何の疑問も持たないリファスの返答に、ルシェラの顔に滲む様な微笑が広がる。
 何気ない肯定が堪らなく嬉しい。
 ルシェラにとって肯定されるという事は、大変な驚きであると同時に喜びでもあった。
 否定される事には慣れているが、肯定される事には慣れていない。何処か、面映い。

「さてと。片付けも終わったし、部屋に戻ろうか」
――はい――


――これは、何ですか?――
「これは……湖。綺麗な水溜り、って言っちゃ駄目か……なんて説明すればいいかな。水の溜まった地面で、結構広いところを言うんだ。広い……って、基準がないもんなぁ……」
――とても美しいですね……――
 世界を知りたい。
 そう言ったルシェラの為に、リファスは幾つかの絵を持ってきた。
 昼過ぎから夕方まで眠り込んだルシェラだが、目覚めは良かった。
 その間さして体調を崩す事もなく、落ち着いている。
 寝台の上へ広げ、ルシェラに片腕を貸して触れあい視界を広げてやった。
――こちらは?――
「それは、花。庭にあるから、後で摘んで来てやるよ」
――これが、お花……花は植物。生き物だと、本で読みました。大地に根付き、花開くと。摘み取ってしまっては、生きて行けないのではございませんか?――
 ルシェラは軽く眉根を寄せ、思い出しながら尋ねる。
 生きている命を摘み取ってしまう事は耐え難い。
「まぁ……そうだな」
――その様な事……結構です。生きている命を奪う必要はございません――
「そっか…………ああ、そうだ。鉢植えがあるかも。結構エリ姉が好きだからさ」
――鉢、植え?――
「これくらいの器に土を入れて、そこに花の苗……育つ前の子供みたいなのを植えるんだ。それだったら持ち運べるから、部屋に入れておくよ。本当は根が張るのが寝台に縛り付けられるみたいだからって、病室に飾るのは嫌がられるんだけど」
 両手で鉢の大きさを示す。
 ルシェラは得心した様に頷いた。
――気には致しません。拝見してみたいものです――
「まぁ、根拠もないしな。気分の問題だし」

 ルシェラから一度離れ、雨戸を閉める。夜はまだ肌寒い季節だ。夜の冷気は身体に障る。
 離れてもリファスの気配には包まれたままで、ルシェラはリファスが戻るのを待った。
 部屋はとても暖かい。気温ではない。ルシェラにはそれが何なのか良くは分からなかったが、それでも、顔から笑みが消える事はなかった。
 「幸せ」という言葉を本で見た事がある。
 これがそうなのではないかと、ルシェラはうっとりと夢想した。
「エル姉が帰って来たみたいだ」
――……巫女様のお姉上様ですか? 巫女のお仕事はお大変な事でしょうね――
「楽しそうにしてるし、そんなに大変でもないんじゃないかな」
――楽しくお仕事が出来るのならば、それは大変良い事ですね――
 暖かい。
 ルシェラにはこの建物の中は、何か特別なもので守られている様にすら感じる。

 少しして、扉の向こうから女の高い声が聞こえて来る。
 ルシェラにははっきりと聞き取る事は出来なかったが、リファスの耳には届く。
「ちっ……」
――……いかがなさいましたか?――
「ん…………何でもない……」
 リファスが思わず洩らした舌打ちに、ルシェラは不安げに様子を窺う。
 直ぐに微笑を浮かべて見せたが、靄は晴れない。
「エル姉が母さんと話してるだけだ。ごめんな。声が大きい上に高いんだよな」
――とても元気がよくて、良い事ではありませんか――
「お前に分けてやって欲しいぜ」
 リファスはしみじみと溜息を吐く。どうにも、リファスにはエルフェスの元気は無駄の様な気がしてならない。もう少し大人しくして貰いたいものだと思う。
「エリ姉は今日は夜勤だから……父さんが帰って来たら、食事持って来るからな。今日は母さんだから……あんまり味に期待しない方がいいかもしれないけど」
――いいえ。貴方がお作りになるものも、お母上様がお作りになられるものも、大変に味わい深く、好ましく思います――
 食は幸せの基本。その考えが伝わっている様で嬉しくなり、リファスはルシェラをぎゅっと抱き締めた。

 と、扉の直ぐ外で声がする。
「リファス」
 額に口付けを一つ送り、リファスはルシェラから離れて扉に出た。
 聞こえた声はエリーゼのもの。  ルシェラは見えないながらも記憶を辿り、指先で絵の上を辿りながらリファスを待つ。
 美しい世界。
 暖かい世界。
 リファスといれば、それを信じられる気がする。

「ルシェラ、ちょっといいか?」
――……いかがなさいました?――
「父さんがさ、お前に挨拶したいって。……会えるか?」
――………………お父上様……――
 期せずしてふるりと身体が震えた。
 「父」という単語、ただそれだけで、思い至るのは先の大使の姿などではなくやはりセファンだ。
 思わず身体を掻き抱く。
 リファスの父がセファンとは違う事は理性では理解できている。
 奥底の記憶ではなく、今一番近しい記憶がルシェラを支配している。
 長い年月をかけ形成された精神的な檻は、やはり直ぐに晴れはしない。
「ルシェラ!!」
 リファスに抱き締められる。それでも、震えは収まらない。
 記憶が交錯する以外に、ルシェラが呪縛から解かれる事は出来なかった。
 正気では……ルシェラは「父」という存在に対しての恐怖に打ち勝つ事も出来ない。
「ごめんな。別にいいんだよ、会えそうな時で。今すぐってわけじゃなくて……どうせ父さんだって毎日家から仕事に行ってるんだし、時間なんて幾らでもあるさ」
 ルシェラの髪を撫で、背を撫で、宥める。
 重い鎖を感じながらも、リファスにはただそれだけの事しかしてやれない。
「リファス……リファス?」
 焦れたのか、再び扉の向こうから声が聞こえる。それと同時に、扉も叩かれていた。
 その音にはっとして、リファスは密着していたルシェラから僅かに身体を浮かせる。
「廊下で母さんと父さん待たせてるからさ。直ぐに戻るよ」
 額と……頬にも口付け、ゆっくりと離れる。
 ルシェラは一瞬それを追おうとしたが、直ぐに留まり、手を自分の薄い胸に押し付けた。


作 水鏡透瀏

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