「火は止めたわよ。……様子は変わりない?」
「ありがと。……熱が高いけど……今のところは何とか、ってところか」
「そう……」
 少しばかり水分が失せているものの充分に食べられそうな状態で置かれていた重湯を深い器に移す。
「食事、長い間栄養剤の注射だけだったらしいんだけど……食べられそうなら、ゆっくり食べさせてみる。駄目だった時用に、用意しておいてくれるか?」
「分かったわ。何処かに疾患があるのかしら」
 エリーゼの夫はまだ起きて来ない。朝食の食器を洗いながら様子を伺う。

「世話をする人が楽だから、って理由だったらしいから、疾患はないみたいだったけど……ちゃんと調べるのはお袋の仕事だろ」
 リファスが渋面になった事には気がつかない。
「そうね……。あの子、話せるようになったの? いろいろ聞きたいんだけど」
「いや……筆談だ。指で掌とか背中に書いてくれた。洋筆は支えてないと持てないし。不思議なのが、俺が触れてる間だけ目と耳が使い物になってるらしいって事か」
「お前が? ……分からないわね……」
「耳は、基本的に人の声以外は聞こえるらしいんだけど。人の声は、俺が手とか触ってる間だけ……って」
「精神的な要素が強いのかもしれないわね……」
「それは感じた。下手に家の事とか父親の事とか聞くなよ。震えが酷くなって混乱して……見ていられない状態になる」
 震え怯える姿を思い出す。
「父親?」
「許してくださいの一点張り。家で余程の目に遭って来たんじゃないかな……」
 出自と身分について話していいものか戸惑う。
 しかし、推測される身分が当たっていれば、この家にも累が及ぶかもしれない。
「お袋、あのさ…………あの人、ティーアの国守様かも、知れないんだけど」
「は? あらあら。あははははは、この子はもう……何馬鹿なこと言ってるの。もう少し真面な冗談なら、信じなくもないのに」
「冗談ならもっと面白いこと言うよ!」
 信じて貰えるとは思っていない。だが、黙っていられる事でもない。
「それなら、お前、あの子に担がれたのよ」
「俺もそうは思うけど……でも、疑いきれないんだよ、あの人……」
「美貌に騙されてるだけじゃないの?」
「……うん。それはあるかも。姉貴達より綺麗な人なんて初めて見たもんなぁ。耐性はあるつもりだったんだけど」

 美しい微笑が脳裏に浮かぶ。
 浮かべただけで、心の中に幸せが満ちて行く様な気がした。
 ついリファスの口元にも笑みが零れる。
「気持ち悪い。何にやにやしてるのよ」
「……別に。俺は、あの人の事信じる。お金も知らないし、金貨なんてくれようとするし」
「偽物でしょ」
 エリーゼは何処までも大人である。
「どうだろ……やたら綺麗ではあったけど……でも、古アンティミア金貨って言ったら、学校で習った限りだと、古代金貨の中でも一番複製が作れないので有名なものだし……。たとえ複製品でも、数万Gはするぜ。細かいところまでよく出来てたし」
「偽物で数万!? あの子を最後まで看取る事だって出来るじゃない」
「複製でいいからって欲しがってる美術館や博物館もたくさんあるらしいし。古代金貨の象徴みたいなものだって、教科書の表紙にもなってたくらいで」
「受け取ってはいないでしょうね。そんな物を貰っても、ここでは充分な看護に使う事は出来ないわ」
「勿論。貰える訳ないよ。たいした事出来るわけでもないのに……」
 金銭にあくせくした事はない。大金と言われても、必要ないものを貰う謂れはない。
 リファスは前述の通りに生まれた時から街の分限者の子息だったし、エリーゼも今は片田舎暮らしではあるものの、元々は王都でも屈指の医家に生まれ育った。父は王室の典医長を務めている。
 少しばかり金銭感覚はおっとりとしていた。

「白銅貨も見たことないみたいでさ……ほっとけないんだよ」
「まさか」
「嘘ついてるようには見えないし……大体、そんなところで知らない振りしたって仕方ないだろ。あの身体でそんな余裕があるとも思えないし」
「まぁ……そうね……」
 水切り台に皿を置き、濡れた手を拭う。
「……放っておけないのは分かるけど……あまり入れ込まないのよ。辛い思いはしたくないでしょう?」
「たった一回診ただけで何言ってんだよ」
「一度診ただけでも状態を判断するのは充分。それが出来なくて、急患なんて受け入れられないわ」
 エリーゼの顔は真剣だった。リファスは窘められて口を噤む。
 あまり芳しくない状態なのは分かっていたが、それ程だとは思ってもなかった。
「……そんなに……よくないのか?」
「そう思うわ。何処がどう、どれくらい悪いのかはもう少し詳しく診てみないとはっきり言えないけど……肺と心臓……それから、気管が痙攣を起こしているわ。肺はぼろぼろ、それが元になって心臓にも影響が出てるんでしょうね…………体力もなさそうだし、本当にいつまで持つか…………あまり目を離さない方がいいわ。早く行ってあげなさい」
「うん…………」
 盆に皿を載せ、急いで病室へ向かう。

「ルシェラさん、お待たせー」
 声は聞こえてはいないかもしれないが、気配と扉の開く音は聞こえているだろう。努めて明るく振舞って扉を開ける。
 寝台に目を遣る。
「!!??」
 いない。
 慌てて駆け込み、盆を寝台の上に置いて部屋を見回す。
 開いた窓からそよ風が吹き込んでいた。
 窓を開けた記憶はない。
「まさか」
 それ程動けるとは思っていなかった。
「畜生!!」
 窓から身を乗り出す。
 そう長い時間ではなかった筈だが、姿はなかった。
 そこまでに動ける身体ではない筈だ。この時間に見えなくなる程の速さで動く事が出来るとは思えない。
 そう思い直して、部屋をもう一度見回した。
 死角はある。
「いるんだろ、出て来いよ」
 納戸を開ける。衣類や敷布を掻き分けて覗く。
 いない。
 机の下。
 いない。
 身を屈め床に這って、寝台の下を覗く。

 …………白い足が見えた。
 ぐったりと倒れ付している。
「ちっ」
 足を掴み引きずり出す。
 抵抗は全くなかった。
 呼吸の補助装置はつけたままだが、顔色は紙の様に白く血の気がない。
 助け起こしても目も開かなかった。
「ルシェラさん!?」
 無理の利く状態ではなかった筈なのに小細工までしてのけた。
 先程見せてくれた微笑は偽りだったのかと、悲しくなってくる。
 エリーゼが薬を使ってからまだそう経っていない。使えるものは暫くなさそうだった。
 それでも、このままというわけにも行かない。
 目を離すことも出来ず、開いたままだった扉の向こうへ叫ぶ。
「お袋、直ぐ来てくれ!!!!」
 寝台に横たえ、脈を診る。
 手首でも、首筋でも、触診で分かる状態ですらなく酷く弱い。
 補助されているお陰で呼吸はまだ確かな様だが、それもこれからどうなるか分からない。
 熱もまた上がったのか、呼吸は微かながら早く、青ざめている割に火照って見える。

 額を冷やしてやりながら、リファスはルシェラの手を握り締めた。
 何がしたかったのだろう。
 逃げたかったのかもしれないが、無駄な小細工だ。
 自分の状態くらい、ある程度の事は分かっている筈だ。それでも、ここにいられない理由があるというのだろうか。
 握った手を無意識に頬に当て、ルシェラの顔をじっと見詰める。
「…………ルシェラ………………」
 死に急ごうとする姿。
 生と死の狭間を彷徨うが故の美しさなのだ。
 何故彼は、「ずっと」その境界に置かれているのだ。
 何故。
 何故――――――――――――。

 光が走った。
 握った手と手の間から生まれた光は淡く輝きながら、二人を包み込んでいく。

 リファスは身動きすら出来ず、けれども、その手を放す事も出来ず、ただ固まった。
 危険は感じない。
 光の意味は分からないが、とても温かな気配を感じる。
 光に包まれるルシェラを呆然と見詰めた。
 手は放せない。
 そして、その以前の自分の思考を思い返す。
 自分は……何を考えていた。

 光は次第に空気に溶け込み薄れていく。
 けれど、その名残が残り香の様に部屋全体を包んでいる。
 温かで、優しい。
「………………何なんだよ…………」
 もどかしい。
 何を感じていた。何を考えていた。
 とても大切な事であるように思うのに、何も分からない。
 ただ、大切で大切で……出来ることなら、納戸の中にでも仕舞い込んで誰の目にも触れさせたくない。それ程の、想いが……。
「何だってんだよ……」
 握った手を放せない。
 光が失せても。ルシェラの様子から苦しみが失せていても。
 離せなかった。

 込み上げるのはただひたすらの愛おしさ。
 美しいからではない。その性質の全てがいとおしいのだ。
 会ったばかりの筈なのに、何もかもを知っている気がする。何を、とは言えないのだけれども、何かを、確かに……。

「リファス!! どうなの!!??」
 エリーゼが持てるだけの器具を抱えて駆け込んでくる。
 リファスは振り向くことすら出来なかった。
「ちょっと、リファス!?」
 寝台の端に抱えて来たものを降ろし、ルシェラとリファスの様子を伺う。
 ルシェラは落ち着いた様子で眠っていた。頬には赤味が差し、呼吸も安定し補助がなくとも大丈夫な様に見える。
「何よ。慌てて呼ぶから、何かあったのかと思ったじゃないの……」
 リファスは答えない。ルシェラから視線をそらす事もなく、手を握り締めたまま呆然としている。
「…………リファス? 何、泣いてるのよ……」
 持って来ていた医療品の中から手拭を出し、リファスの目じりと頬を拭う。
 見開いた瞳からは、ぼろぼろと涙が溢れていた。

「リファス……?」
「……ぁ……………………あ、お袋…………」
「どうしたのよ。何があったの?」
 尋ねられ、漸くリファスに正気が戻ってくる。
「分からない…………何も、なんにも……分からない…………」
「しっかりしなさい。ゆっくり……そう、息を吸って…………吐いて…………その子の手を握っている指を一本一本放して……出来るわね?」
「……ん…………」
 緩慢に母親の指示に従う。余韻でか、まだ頭が今一つ機能していなかった。
 しかし、深呼吸をして少し落ち着いたものの、指が動かない。強張っている、というわけではなく、ただ手を放す事が出来ない。したくない。
「………………お袋……俺…………この人の事、知ってる気がする……」
「……お前、ティーアになんて行った事があったかしら」
「そうじゃない。何時会ったか、なんて、意味がないんだ。きっと……」
「………………お前…………大丈夫なの?」
 エリーゼの母親としての心配も当然だろう。
「正気だよ。多分」
 リファスは顔を母親に向けた。真剣で嘘のない眼差しだった。
 気圧される。エリーゼは眉を顰めたが、なかなか言葉が出てこなかった。

「……………………言ったでしょう、入れ込むなって」
「……仕方ないだろ。俺だって、こんな風に思うなんて……想定外だ」
 憮然として答えるが、それでも、この出会いを悔やむ気持ちは毛頭起こらない。
 会えてよかったのだ。これは、神の引き合わせに違いない、そうとすら思える。
「運命だ、なんて言い出さないでしょうね」
「…………そんな単純なものじゃない」
 リファスの声は咎める様に硬く厳しかった。
 それ以上の軽口を叩ける空気でもなく、エリーゼは口を噤んだ。
「この人の事は俺が守る。絶対、何があっても…………俺はそうしたいし、そうしなくちゃいけないんだ……」
 握った手に自然力が込められる。
 やはり、涙は止まらなかった。

 ここまで真剣な息子を初めて見る。真面目な子供ではあったが、こうまで他人に入れ込む性質だとは思っていなかった。
 まだ、拾ってきてから半日も経っていない。
 何を感じているのかは分からないが、こうまで思い詰めていては口を挟むのも難しい。幼い頃から出来の良かったこの息子は、同年代より成熟が早い事に加えて自我の独立も早く、応じてかなりに頑固でもあった。
「……覚悟はいいのね。医療費だって、タダじゃないのよ。それに……最期まで……見届けられるの?」
「お袋!! そんな事言うな!」
「…………貴方の覚悟を聞いてるのよ。諦めたくはないわ、医者として。でも……ここでは何もしてあげられない。せめて王都のお父様のところへ行く事が出来たら……ここにいるよりはもう少し、存えられるでしょうけど……」
「…………じいちゃんか…………」
「それも、この子の体力では無理でしょう。馬を飛ばしても五日は掛かる距離なんて……」

 眠っているルシェラの顔を見下ろす。今はとても落ち着いた様子でただ愛らしい顔で目を閉ざしているだけだ。
 だが今は穏やかであっても、僅かに動くだけで直ぐに変調を来たす。早朝に使った薬の効果が切れる時間ではない筈だが、ほんの僅かな時間の緩和剤にしかなっていない。だからといって数を使っては副作用で更に重い症状が出る可能性が高く、それも出来なかった。
 赤味の差した瞼や頬は陶器の様で、人形の様だった。
 人形は一人で動けはしないのだ。
「それでも……俺は……まだ何一つこの人の為にしてやってない。まだ諦めたくないんだ。…………だって、やっと…………やっと、また……会えたんだから…………」
 リファスは搾り出す様にそう呟くと、ルシェラの手を握ったまま俯いてしまった。
「また、って……どういうことなのよ……」
 不思議に思った言葉を尋ね返すも、それに答えは返らなかった。


作 水鏡透瀏

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