「ルシェラ、お前はどうしたい? 国に……帰りたいか?」
――…………はい……――
考えての答え、という様子ではない。
幼児と十四歳、そして国守としての数千年の記憶。その狭間を行き来する意識は正常に働いているとは言い難い。
「…………この人は、お前の何か……分かるか?」
大使を指し、穏やかに尋ねる。
強い口調は今のルシェラにはとても堪えられまい。よくよく気を使う。
――……この方は……おとうさま…………――
おとうさま、そう言う度口元が嬉しげに綻ぶ。
リファスは渋面を隠そうとして口元を歪めた。ルシェラには見えないが、部屋のその他の人間には知られる。
「……お前の、お父様?」
追い詰める様だが、正気に戻ってからの話でなくては意味がない。
――え……は……っは…………い、いいえ…………ぁ……――
額に手を当てて俯く。肩で荒く息を継いでいた。
「……ぁ……っ…………ぅ……」
荒く呼吸を繰り返しながら、リファスへ顔を押し付ける。
その背を優しく撫でる。手に触れる感触はあまりに骨ばっており、頼りなかった。
「落ち着いてよく考えて。この人は確かにお前のお父様だ。でも、それは……とても昔の事の様な気がしないか?」
否定するのではなく、肯定しながらどうにか導こうとする。
「下らないこと」、その一言に怯えさせた。二の轍は踏まない。
――昔……そう…………昔……むかし…………――
視線が彷徨い、大使に向けられる。
瞳は虚ろに揺れていた。
「この人の事を知っているなら……昔々、俺の事も知ってた?」
先に大使に言われた事が気になって仕方がない。
――……あなた……?…………いいえ……いいえ…………知らない……筈……――
困惑に眉根が寄せられる。
懐かしい気配は感じても、互いに互いの記憶などない。
「……いいんだ。そんなに考えなくても。俺にも記憶なんてないから」
ついでだった。分からないなら急ぎはしない。
話を戻す。
「お前は、ティーアに帰って何がしたい?」
そっとエルフェスが近寄り、ルシェラの肩に軽く触れる。
リファス一人で会話をしているのは面白くない。
「っ、ひ……」
手を通してルシェラの感情が流れ込む。
エルフェスは咄嗟に手を引いた。
口から洩れようとした悲鳴が引き攣り、喉の奥で止まる。
「……姉貴?」
――……おあねうえさま…………?――
エルフェスの様子に気がつき、リファスは不審気に姉を見遣る。
「あ…………あんた、何で……平気なのよ……」
たださえ白い頬から血の気が引いている。
ふらりと蹌踉け、母親に寄り掛かる。
「いかがなされた、ご令嬢」
大使からも気遣わしげな声が上がる。
「エルフェス?」
「…………ちょっと待って……落ち着くから…………」
何度か大きく息をし、気を落ち着かせる。暫く繰り返しているうちに、頬に花弁の様な紅味が戻った。
母に促され、手近な椅子に座る。
まだ僅かに俯きながら、それでもルシェラを伺い見た。
「…………リファス。もう止めなさいよ…………」
「何を」
「…………その方に、何を聞いても…………」
「でも、ルシェラ自身の事なんだ。俺達だけで話し合って、決めて……そんなの、おかしいだろ」
「混乱してる。とても……あんた、ルシェラ様のお声が聞こえるのに、どうしてそれだけ触れてて何も分からないのよ」
エルフェする口調はつい荒くなる。鈍感な弟に苛々していた。
「……分かってるよ……」
「何を?」
「………………何がしたい、なんて聞いたって……陛下の思し召すままに。俺達の思うままに。それしか……返ってこない」
「そんな事じゃないわ。……闇が深すぎる……」
「闇…………そんなの、誰だって持ってる……」
姉が何を感じてしまったのか漸く悟り、リファスはルシェラを抱き締めた。
ルシェラの心の暗い部分をリファスが感じていない筈もない。国での暮らしぶりを聞いているのだ。十分に察しも出来るし、触れる肌から冷たく暗い闇がじわじわと迫ってくるのも感じている。
ただ、姉が危惧する程、飲まれそうにも思わなかった。
闇など、ルシェラと意志の疎通が叶った時から感じている。
心を病んでいる事が分かっているから、その事を当然として取り立てて意識などしなかった。
「……私の感応力が強いから、なの? こんなに辛くて……怖いのって……」
巫女としての力は頭抜けている。この家の中で最も強い魔力や霊力を持っているのはこのエルフェスだろう。
「……俺より、姉貴の方が確かに感応力は強いからな……」
「あんたは、平気なの?」
「分かるよ。ルシェラが心を病んで、暗い闇に囚われていることくらい。でも……俺が取り乱す程には感じられない」
言い合う姉弟をルシェラはただじっと見比べ見守り続けている。
自分が原因だとは思っても、何がどうしているのか全く理解出来ていない。
「……もし、もしも、この方がここにいたいと仰ったとしても……私は反対よ。ここにいていただくのは。私達じゃ、責任なんて取れない」
「だから、まずルシェラにちゃんと考えて欲しいんだよ」
ルシェラの頬に手を添え、顔を見合わせさせる。ルシェラの瞳は虚ろだったが、それでも、リファスが視界に入ると微かに微笑もうとする。
「国に帰って……お前は何をするんだ?」
――……何…………?――
ルシェラの瞳が不安に揺れる。
――…………セファン陛下に、深く……お詫びを申し上げます…………――
「それから?」
――…………陛下のお命じなられるままに…………――
瞳が見る間に潤む。
リファスの優しさが辛かった。何をしたい、どうしたい、そう問われてもルシェラには何も答えられない。
今更セファンが許すとも思えなかったし、何かを命じて貰える保証すらない。
そうなれば、自分は……全ての拠り所を失い、二度と立ち上がる事も出来ないだろう。
「……お前自身は、これからどうしていきたいと思ってるんだ?」
――…………陛下のお望みになる様に…………国守として、王の血を分けた子として、その血に恥じぬ様に……見苦しくない様に、死にたい……――
「どうやって、生きて行きたい?」
――…………生き……る…………?――
ルシェラは困った様に瞬きを繰り返し、リファスを見詰める。
リファスの言いたい事が理解できない。
「リファス……殿下のお答えはないの?」
声はリファス一人にしか届いていない。
エルフェスは顔を背け拒絶し、他のものは不安げに二人を見守っていた。
しかし、まだ母の問いには答えられない。
「生きるって……そうは、思えないかな……」
――…………わたくしは…………もう、長くは…………――
「…………でも、今はまだ生きてる。俺とこうして、話してる」
――生きる、とは……何ですか?――
言葉の意味すら理解し切れてはいない様で、ルシェラはただ困ってリファスを見ていた。
――生きる……その事が、どの様な意味を持つのですか?――
「……ルシェラ、お前…………」
何も分かっていない。
いや、何も教えられていないのだ。
知る事すら、許されていないのか。
「リファス?」
「……大使、ルシェラは、国に戻ったら、どうなります」
母の問いかける目を放って、大使に振り返る。
大使は苦渋に満ちた表情で応じた。
「…………セファン陛下のお考え次第だろう……」
「これまでも?」
「ああ。これまでも、そして、これからも……」
「…………生きるという言葉すら知らされないまま……死ぬ日をただ待つだけの、そんな生活になるんですか?」
「…………まさか、そこまでは……」
大使の顔が青冷める。そこまでは想定していない様子だった。
「………………ルシェラは、生きる事を教えられていない。生きるって、言葉の意味も分かってない。……そんな生活に戻るんです……」
静かにそう言い放ち、リファスはルシェラに向き直った。
「……国に、帰りたい?」
――………………は………………い、いえ…………あの…………――
応えが揺れる。
リファスの言う「生きる」という言葉が心に深く刻まれていた。それが酷く疼く。
死ぬ事を心待ちにしてきた筈だ。
一刻も早く、開放される日を待ち望んでいた筈だ。それなのに……。
「帰りたくないなら、俺も協力するよ。お前が生きて行ける様に。お前が、暮らして行ける様に」
――……けれど、陛下が……――
「陛下がお前をどうしたいかじゃなくて、お前自身がどうしたいか、考えよう。考える為の時間は作ればいい。慌てなくても、まだ時間はある。俺が協力するから」
言葉を尽くす。
言葉だけではない。抱き締める腕から、ルシェラには十分にリファスの優しさが伝わる。
――…………時間は……まだ…………わたくしに残されているのでしょうか…………――
「勿論。まだ…………まだ、きっと…………」
気休めに過ぎない。それでも、まだ信じていたかった。
「母さん、まだ……ルシェラは大丈夫だよな? な?」
縋る様にエリーゼを見る。
エリーゼは眉を軽く寄せ、暫く考え込む。
「…………そうね。ちゃんと食事を取れる様になって来てるんだし、このまま……順調なら……」
僅かな気温の高低でも命を落としかねない。
軽い風邪にすら気を許せない。
それでも、生き延びられる希望は捨てたくない。
生きられる可能性を、否定したくない。
エリーゼは言葉を濁しながらも、希望にかけた。
余命を宣言できるほどの明確な疾患はない。ただ、何処もかしこも衰弱しきっているだけだ。
「ほら、医者だって、ああ言ってる」
ルシェラの髪を撫でる。
緑色の瞳から涙が零れ落ちた。
――け……けれど…………わたくしは、多くの人の命を奪って…………わたくしが、生きていい筈なんて……――
「その命がお前を生かしてる。なら、お前は、その人達の分まで……生きなきゃいけないんじゃないか? お前が自ら死に向かおうとするなら、その人達は何の為に死んだんだ」
――でも……でも…………!!――
「世界を、見たくないか? 閉ざされた世界から、外へ出てみたいとは思わない? 世界は、お前が知ってるよりずっと……明るくて暖かいんだ……」
ルシェラはその囁きに絶句した。
何故リファスは心の奥底に巣食う願望を知っているのだろう。
何故。
何故――――――――――――――――。
手が取られる。重ね合わせた手は熱く、火傷をしそうな程に感じる。
ルシェラは手を引こうとしたが、動けなかった。
この手を取られる事を望んでいた。
…………そう。望んでいたのだ。
――………………わたくしを、連れ出して下さるのですか……?――
幼い頃から見続ける夢。
闇の迷宮から救い出してくれる手。
この手がそうなのだろうか…………。
今までそう信じて来ては、相手を不幸へ陥れてきた。
またそうではないのか。
けれど、今までのどれよりも、確かな温もりがあった。
――わたくしを……助けて………………――
「……ああ…………勿論……お前がそう望むなら……」
強く抱き締める。
腕の中の確かな存在に、リファスの口元に温かい笑みが滲んだ。
「…………ルシェラは暫く、俺が預かる。ルシェラは俺に助けてくれって言ってる……。世界を見たい。見せたい。世界が広いこと、ルシェラに辛いものだけではないこと、教えてあげたい……」
「……そう簡単なことじゃないのよ?」
「……それでも、俺は……何があってもルシェラを守る」
抱き締める腕は緩めない。
「セファン陛下のことはいかがする」
――…………陛下…………――
ルシェラは息を呑む。
しかし、今度は緩く首を振り、身体の震えに堪えた。
――……きっと、お許しを受ける事は出来ないでしょう…………なら、お会いする前に、わたくしは……世界を見てみたい。リファスの言う様な、わたくしに優しい世界が、本当にあるというなら…………それを、知りたい……――
漸く、ルシェラの瞳に知性の光が戻ってくる。
止め処なく、涙が溢れていた。
――世界を知り、陛下のお考えを知る事が出来れば……お許し頂ける方策も見つかるかもしれない……――
ルシェラが決意を固めると、後は皆も従うしかない。
ルシェラの生活費等の面倒を見る旨と、隠れた連絡先を残し、大使は今日の所は帰って行った。
エリファ、エルフェス、そしてエリーゼは仕事へ戻り、家の中にはリファスとルシェラの二人きりになる。
二人は暫く応接間に留まり、互いの熱を感じながら抱き合っていた。
続
作 水鏡透瀏
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