その日、この小さな街で大きな事件が起こった。
 午後を幾分か周り、夕時の気配が微かに見え始めた時間。
 町長は一人の来客を迎えた。それは秘書官が確認している。
 終業の時間を向かえても、来客も、町長も部屋から出てこなかった。
 不審に思った者達が町長の部屋の扉を開けようとしたが、内から鍵がかかっていて開ける事は出来なかった。
 幾ら戸を叩いても応答はない。
 ついに数人の男達で扉を破る。しかし、そこには何もなかった。
 ただ、いつも町長が身につけていた眼鏡と、嵌めていた金歯が転がっているだけだった。

 町長が来客に会っていた時間とほぼ同じ頃、ルシェラはリファスの手に依って寝台に横たえられていた。
──あれが…………人の心…………?──
 また震え、リファスの腕を掴む。
「……あれしきでここまで怯えるのか……。お前は、それ程に弱かっただろうか……」
 サディアもまた不安げにルシェラを見詰める。
──ざらりとした冷たい手で、身体の中を直接掻き乱された様…………──
 半ば身を起こし、リファスの首に縋る。その背を優しく撫でながら、リファスはサディアを睨んだ。
「だから、まだ早いって」
「リファス、この周りにある建物は、どの様なものだ」
 リファスの非難を無視し、サディアはルシェラの様子を伺いながら訪ねる。
 関係のなさそうな事を急に問われ、リファスは一瞬躊躇った。
 直ぐにエルフェスが口を挟む。
「町役場や調停所、衛兵の詰め所などですわ。神殿も幾つか」
「街の主要機関が集まっている場所なのだな」
「ええ。この家も、そもそもはこの辺りを治めていた領主の別邸でございましたから」
「何か起こっていなければよいが……」
「何かって……」
 リファスは二人からもルシェラを守る様に、髪に指を絡め頬を合わせる。ルシェラから伝わるのはひたすらの怯えだった。
「分からないが……何か、瞬間的に強い感情が流れなかったとは、言い切れないだろう? 私には怯える程のものは何も感じられなかった。通り向こうからは、勿論ながら人の往来する気配は感じたが、ただそれだけだ。普通の人が、常態で悪意を垂れ流しているなどと幾ら私でも思わない」
「それはそうですけど……」

「…………とにかく、今はどのみち無理をさせられんか……」
 リファスに縋る手指はあまりに白く冷たい。サディアはそれに軽く振れた。
「私とて、ルシェラを傷つけたいわけでも苦しめたいわけでもない。ルシェラの望み通りにしてやりたいだけだ。…………時の期限までに、強くなってくれる事を祈る…………」
 ルシェラはより強くリファスに縋ろうとするだけで、サディアに対して反応しようとはしなかった。
「お前は何を感じた…………」
 ぐずる様にリファスに顔を埋める。サディアは諦めてルシェラから手を放した。
「…………リファス、ルシェラに安らぎを与えてやってくれ」
「は、はい……」
「そうだな……音楽がいい。お前の楽の音を私も久々に聞きたいものだ」
「分かりました。…………ルシェラ、大丈夫だよ。直ぐ戻るから…………サディア殿下」
 ルシェラの手をゆっくりと解かせサディアに委ねる。
 怯え震えてはいたが、それでも何もないよりまだ良いのだろう。サディアに縋る。華奢ながらそこだけはふくよかな胸の狭間に顔が埋まったが、お互いに気にする様子はない。
「お願いしますね」
「案ずるな」
「そうだ。……まだ、ルシェラ様にはお目にかけておりませんでしたでしょう。庭の見えるお部屋へ参りませんか?」
「何言ってんだよ、エル姉」
 ぽん、と手を打ったエルフェスを怪訝そうに見遣る。
「私の踊りですわ。リファスの楽の音程ではないかもしれませんが、舞をご覧になるのもなかなかによいものだと思います」
 ひらりと手を動かしてみせる。
 まだ巫女の正装のままだ。肩から手の甲へと繋げられた薄布が優雅に翻った。
 それを眺め、サディアの顔がぱっと輝く。
「ああ、それは良いな。私も是非貴方の舞を拝見したい。リファスの奏でる音に乗せて舞う貴方は、さぞお美しい事だろう」
 こういう時ばかりは年相応の少女らしく華やいで見せる。
 サディアの喜色に当てられたのか、ルシェラは僅かに顔を上げて皆の様子を伺った。
「ルシェラ、行こう。この家の中ならお前も平気なのだろう? エルフェス殿の舞は本当に美しいのだ。お前も気に入ると思う」
──ええ…………はい…………舞とは……どの様なものなのですか?──
「見れば分かる。そう言うものだ」
 にべもないサディアの答えに、ルシェラは少し困った表情になりながら首を傾げた。
「先に行って待ってて。直ぐ行くから」
 泳いだ視線がリファスを捉え不安げに揺らぐ。
 リファスは顔を寄せその額と頬、そして鼻先に軽く口付けて頬を撫でる。
 ルシェラはまだ不安げにしながらも、小さく頷いた。

 アウカ・ラダームは小さな町とは言え街道の要所であり、また主産業でも十分に潤っている富裕な場所だ。
 古くから栄えている上、町長は何処かの貴族の血を引いているらしく、中央での鼻息もそれなりに荒いと評判でもあった。
 その姿が一瞬にして消えた。
 窓は空いていたが部屋三階で、外には庇はおろか足がかりになる様なものはない。
 客の姿も消えていた。それも謎だ。
 直ぐに衛兵が呼ばれ現場の検証が始まった。
 それなりの要所とはいえ小さな町である。そう大勢の衛兵がいるわけではない。
 呼ばれた衛兵の内の一人は、リファスとエルフェスの姉、エリファであった。
 部屋に入り、具に状況を調べる。
 眼鏡と金歯の落ちた床に触れる。毛足の長い上等の絨毯の筈が、何処かざらりとして手触りが悪い。
「この絨毯は、いつ掃除を」
「三日前ですが」
 今にも裏返りそうな声音で秘書が答える。
「雨は降っていないな…………何だ?」
 腰から片刃の短刀を抜き、ざらざらしている元であろうものを背で擦って集める。懐紙を出してそれに取り、また懐へしまう。
「不審な事があるのでこれは持ち帰らせて頂く。もしかしたら、この絨毯を提出していただくことになるかもしれない。この部屋は我々の許可が下りるまでこのままに」
「はっ、はい」
「金歯と眼鏡も念のためお預かりして宜しいか」
「はい、勿論……」
「それで別室で、その客についてお話を伺いたいが。他にも、二、三伺いたい事がある」
「で、では、こちらへ」
 案内されながら部屋を振り返る。
 今日は帰れそうにないと、エリファは軽く肩を竦めた。

 軽く身体を横たえられる様に作られた柔らかく綿を敷いた長椅子にルシェラを横たえ、その背に綿入れの背凭れを幾つか重ねて庭まで視界が広がる様にする。
 片側にはサディアが控えて手を握り、もう片側にはリファスが寄り添ってシータを構える。
 庭の明るく多少広くなっているところへはエルフェスが。雲間から差し始めた陽光がその姿を際立たせていた。
「いいか、エル姉」
「いつでもどうぞ。あんたから始めないと、あたしは音がなくちゃ踊れないわ」
「はいはい。言っとくけど、ルシェラの為だからな。姉貴の得意曲は今日はやらないぜ」
「いいわよ、何でも。さ」
 美しく長い手足を伸ばして形を作る。
 視線で促され、リファスは弦を指の背で撫でた。
 いつの間にか天気は良くなり、庭には光が溢れている。
 その筈が、瞬時に宵闇が訪れたかの様な錯覚に陥った。静かな音が空気を塗り替えるだけではない。
 しっとりと空気が潤む様だ。指の僅かな角度だけでも、その端から全てが変わる。
 音と、それに呼応した舞が空間を支配する。
 ルシェラもサディアも、瞬く間にその美しくも妖しい世界へ引き込まれた。

 エルフェスは闇となり、闇を照らす月となり、また梢を渡る風となり、空を舞う鳥となり、湖面に安らぎ、また闇へと帰って行く。
 ルシェラの好む、温かい夜の世界がそこにあった。
 リファスの奏でる音だけでも十分に夢想の世界へと連れて行ってくれる。だが、舞を見ていると、その夢想がただの幻影でなくその目の前に繰り広げられる現実の世界となった。
 現実に目に見える世界がこれ程美しく感ぜられた事に驚いて、ルシェラは長椅子から身体を起こした。
 サディアから手を放し、庭の方へと身を乗り出す。
 僅かに指の先が、足の先が動くだけで庭の空気全てが大きく揺れる。
 エルフェスの撓やかな肢体から月の光の様な青白い輝きが立ち昇っている様に感ぜられ、ルシェラは目を細めた。
 耳から入ってくる音、目に見える触れられる美しさ。
 心地よく思いながらも余りに慣れず視線が彷徨う。
 リファスの奏でる音が次第に熱を帯びる。
 情景を表していたものから、意図してか期せずしてか、心情を表したものに変わっていく。
 一心不乱に舞うエルフェスは音が変わった事に気が付いているのかいないのか、音に合わせての変化は見せるもののそれ以外には表情も変わらない。
 温かな音だった。それに合わせ、エルフェスの舞もより穏やかに、美しく、優美になっていく。
 腕をふわりと伸ばすと、連なった薄布がひらりひらりと舞う。
「……リファス…………」
 音の変化に気づいたサディアは、見入り聞き入りながらも小さく溜息を吐いた。
 取り巻く優しい音の全てはルシェラに向けられている。リファスの音にしろエルフェスの舞にしろ、多分に魔力を含んで、並のものの幾倍も余人に影響を及ぼす。
 抵抗力が高いとはいえ、国守とて人心を持つもの。美しいものには勿論心惹かれるし、たまには流される事もある。
 ルシェラの瞳は既に潤みかかり、稀にエルフェスが弾く光に煌めき揺れていた。
 ルシェラには、どんなものであれ自分に優しいものを受け入れる事しかできない。やはり未だ言葉にして伝えられていない想いの全てが乗せられた音楽と、それに呼応したある種女らしい所を持ち合わせたエルフェスの舞とが、ルシェラを包んでいた。

 すらりとした足が床に着く。
 求める様に、エルフェスへと手を伸ばす。身を乗り出し、半ば庭へ…………。
「っぁ、ぁああ……っ…………」
 声なき悲鳴が上がった。
 身が翻り、部屋の影へと転がる。
 リファスは直ぐさま楽器を放り投げてルシェラを抱き起こす。エルフェスも我に返り、軽く息を弾ませながら室内を伺った。
「ルシェラ!?」
「…………ぁ…………」
 顔を覆っている。その皓い手の甲に、紅い鬱血に似た様な跡が浮かんでいた。
「…………ひっ…………」
 包む様に手を取られ、ルシェラは身を竦ませる。その跡は酷く痛むらしく、軽く動かすだけで顔が引き攣った。
「ルシェラ……無茶は…………」
──…………申し訳ありません…………──
「ちょっとでも動こうってするのは、本当にいい事だと思うけど…………」
──陽の光が…………分からなくて…………──
「分からないって……」
 まだ目に不安があるのかと様子を伺うが、ルシェラは痛みを堪えた表情のままでリファスを見詰め返した。
──貴方の奏でる楽の音も、エルフェス殿のお動きも、美しく安らぎの夜のものでしたから…………今が昼日中である事を、失念してしまって…………──
「それで、これか?」
 ぐいと手を引き、お互いの視線の位置までルシェラの手の甲を持ってくる。
 稀に陽の光に負けて火傷を起こしたりする人間があるが、それとは少し様子が違う。
 火傷などで爛れた様子ではなく、情事の際に刻まれる紅斑にも似た紅い跡が幾つか浮いている。
「…………何なんだよ…………」
──…………ごめ…………なさい……──
「リファス、ルシェラを責めるな。ルシェラに非はない」
「分かってます。そんなこと……」
 サディアを一瞥して睨み、ルシェラの手を包み込んで甲をよく撫でる。触れられる度に痛みが走るのだろう。ルシェラの身体が一々飛び跳ねる。
「……畜生。こんな…………」
 痛がりながらもルシェラはリファスを振り解こうとはしない。ただ、今にも泣き出しそうに自分の手の甲とリファスを代わる代わる見詰め続ける。
 手を掲げ持ち、リファスはその紅い印の上に唇を押し当てた。
「リファス!!」
 サディアとエルフェスが同時に叫ぶ。しかし、リファスは手を放そうとしなかったし、ルシェラもやはり、離れようとはしなかった。


作 水鏡透瀏

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