「リファス、お前も落ちつけ」
 エリファは激昂しているリファスを無理に座らせ、大使やルシェラから隔てる様に前に立た。
 リファスが押し退けようとしてもエリファは動じない。
「……ルシェラは、これで、貴方に優しく……暖かく……愛して貰えるんですか?」
 大使を睨みながら、リファスは低く尋ねる。
 しかし、大使は応えなかった。
「何で答えないんです。ルシェラは、これでもう……幸せになれるんですよね?」
 声が刺々しい。
「答えて下さい」
 姉を押し退け、身を乗り出す。
 大使は唇を噛み、俯いてルシェラを抱き寄せているだけだった。
「…………貴方も、王様と同じなんですか?」
「違う!! 陛下と私は違う!!」
「なら、何で、ルシェラを幸せにするって言えないんです。このルシェラは貴方の実の子ではないかもしれないけれど、ルシェラはルシェラでしょう?」
「それは……………………私では、陛下のお手から逃れる事は出来ないから……」
「どうして」
「私の手元にルシェラ殿下を置いても、必ず陛下に悟られる…………そうなれば、殿下は二度と……陛下以外の何方にも会う事もなく、身罷られる日を待つ、そう、生きて行くしかなくなってしまう……」
 ルシェラに頬を摺り寄せ、ただひたすらに髪を撫でる。
 しかし、ルシェラは周りの状況すら理解出来ていない様子で、ただ撫でられる事が嬉しいらしく機嫌良さそうに微笑んだままだった。

「……そんなに、こちらのルシェラ様は悲惨な状態に置かれていらっしゃいますの? ティーアの国王陛下というお方は、大変有能に国を治めていらっしゃるとお伺いしておりますが」
 エリーゼが不審気に尋ねる。
 新聞などに伝え聞くセファンの治世は世界の中でもかなり評価が高い。ティーアはセファンが継いでから、よりいっそう世界随一の大国として、また五古国の筆頭として、益々の盛栄を誇っている。
 その評判と、ルシェラの状態とがどうしても結びつかない。
「陛下の亡くなられた兄、ルシェラ殿下の遺言ゆえ、と拝察しています。よりよい治世を行えば再び会う事もある、と言い遺されたとか……」
「治世と、ルシェラ様お一人の扱いは別、ということですの?」
「別だとは……思っていらっしゃらないでしょうな。兄ルシェラ殿下の事がまずあり、その為に治世を行っていらっしゃる。治世は、二の次と……」
「……二の次の方が成功していると……?」
「……成功しているとも、お考えではいらせられない様ですが。成功しているなら兄君様にお会いになられる筈だと、そうお考えの様であらせられます」
「こちらの、殿下は……認められぬ、と?」
 冴え冴えとしたエリーゼの声音に、ノーヴェイアは言葉を失った。
 深く項垂れる。それは、肯定を意味していた。
 エリーゼの手がふるふると震えを帯びる。
「こちらのルシェラ様は、お身体としては現在の国王陛下と実際に血の繋がりのあるご子息であらせられるのですか?」
「はい。……現アーサラ国王の第一王女を迎えられ、恐らくは確かな事かと……」
「実の子としても、認めていらっしゃらないと……?」
 理解も納得も出来ない。
 我が子なら、何をどうしても愛し慈しむものだ。少なくとも、エリーゼに取っては疑う余地もない。
「陛下は、ルシェラ殿下を我が子だとは思っていらっしゃらない……そう感じます」
「兄上様としか、という事ですか?」
「はい」
 陶器の様な頬を指先で擽ると、滲む様な笑みが浮かぶ。
 ルシェラのここまでに穏やかな様は、この大使が齎している。 
 この、何処までも煮え切らない、優しさと甘さと逃げ腰の区別すら付かない男が。

「……貴方は、陛下にルシェラ殿下をお返ししたいとは、思わないのですね」
 結んだ手に爪を立てながら、エリーゼは努めて冷静さを保つ。
 これ程に愛しげにしているというのに、大使の姿は余りに苛立たしい。
「思うものか……」
「しかし、貴方ご自身で引き取られるつもりもない」
「それがルシェラ殿下の御為にもなろう」
「では、どうなさりたいのです。これから」
 エリーゼには容赦がなかった。
 無論このままルシェラを押し付けられては困るという事もある。
 しかし、それだけではない。
 犬猫ではない、そうリファスに言った筈が、ルシェラの様子とその回りの環境を知るに連れ、公式に問題がないものならルシェラをここに留め、面倒を見てやりたい心持になっていた。
「これから……」
「そうです。過去のお話は十分にお伺い致しましたわ。しかし今、ルシェラ殿下はここにいて、貴方の腕に抱かれ、大変落ち着いて幸せそうにしておいでです。それを踏まえた上でお考え下さいませ。私達が何を申し上げたところで、ティーア本国のご意向次第に従う他、動く事は出来ないのですから」
 大使はただじっとルシェラの顔を見詰めた。
 見えない、聞こえない事もあってか目を閉ざしているが、起きてはいる様子で大使の手や腕に擦り寄って甘えている。
 子供染みた仕草の全てが、大使の記憶を呼び覚ます。
 辛い。
 しかし、だからこそ引き取るわけには行かない。セファンの目から逃れられるとは到底思えなかった。
 数歳年下の王は、昔から常に大使の上手を行っている。殊ルシェラの事に関しては、尋常ではない嗅覚だった。守り切れる自信はない。

「ティーア本国へ問い合わせればそのまま……ルシェラ殿下の苦しみは繰り返される……」
 柔らかな髪を繰り返し撫でる。
「私が引き取ってもそれは同じ……」
 小さな顔の頬を両手で包む。
 幼い頃の面影はまだ残っている。二十数年も忘れ得なかった。初めて迎えた妻と似た面差しでもある。
 ルシェラを産む女としての多聞に洩れず、大使の妻もアーサラから娶った美しい侯爵令嬢だった。子を産み落として直ぐに力尽き、乳飲み子を遺して亡くなっている。
「…………リーンディルへ預ける事が出来れば最も良いのだろうが…………」
「リーンディル……」
 国守の聖地とされる地。その奥殿へは、国守とそれに認められたものだけが立ち入りを許されるという。認められなければ、五古国の王と言えども入る事は出来ない。
「……リーンディルとは……また遠い……」
 エリーゼは小さく息を吐いた。
 ルシェラの身体を思えば、決して連れて行く事の出来る距離ではない。
 大海を隔てており、陸路海路を経由するか、魔法道と呼ばれる転送装置を使うしかない。
 しかし、どちらも非常に体力を要する。ルシェラには自殺行為だった。
「辿りつく迄にセファン陛下に知られる可能性も考えれば、難しいだろうな……」
「あのぅ……」
 悩む大人達の間に、恐る恐る、と言った風に声が上がった。
「いい案でもあるの、エルフェス?」
「案って程じゃないけど……伝承歌によれば、各国の国守様は昔仲間だったんでしょう? 仲が悪いわけではないんなら、サディア殿下にお願いする事は出来ないのかしら。全てがそそのまま引き継がれるって……記憶も、って事だし……もし、サディア殿下がルシェラ殿下の事を覚えていらっしゃったら、」
 巫女として、リーンディルとそれに繋がる伝承歌についてはよく学んでいる。伝承歌はリーンディルを頂点とする世界宗教の聖典として扱われているものだ。
 一つ一つを辿り思い出しながら言う。
「…………そう出来ればよいが……」
 大使の渋面は晴れない。

 三年前……そう、丁度ティーアではラーセルム王国駐ティーア大使グイタディバイドの一件がありルシェラが海辺の監獄に移された年、ここラーセルムでは事故で国王夫妻が亡くなった。
 その後を継ぐ者として候補に挙がったのは二人。
 継承権の順位としては夫妻の長子であり国守である第一王女サディアが第一位だが、当時まだ十一歳と若く、育つまでの繋ぎという形でと王妹とその夫が推されて来た。
 推したのは、その後ろ盾して名乗りを上げたセファンだった。
 セファンの説得力は並外れおり、また、サディアが幼すぎた事も事実。そして、成人するまでの繋ぎという条件付、ともなれば、反対するものも少なかった。
 反対したグイタディバイド他前国王派の面々は悉く更迭され、謹慎を申し付けられた。
 その中、サディアを含む前国王の子息達は行方が分からなくなっていた。

 三年経ったが、状況は変わっていない。
 繋ぎとされた期間はサディアが十八になるまで。もう三年と数ヶ月ある。
 サディアも国守であれば、それしきの事で死んでいる筈はない。
 ただ、居場所は杳として知れない。
「サディア殿下の居所を探すのは、大変難しいでしょう……」
「大使でも、どちらにいらっしゃるか分かりませんの?」
「私は他国の人間ですし……はっきりとお探しした事はないのです。ただ……ティーアの目から逃れようとしていらっしゃる様な気がする」
「……何故、その様に……」
「セファン陛下の動向が全ての鍵。同じ五古国のうちとは言え、一国の王が他国に干渉してきたのです。警戒は当然でしょう。……何をお考えなのか……それが分からぬうちには、姿を現すのも危険と、そう判断なさったのではありますまいか」
 希望が悉く潰されていく。
 これ以上の考えもなく、重い沈黙が部屋を満たす。
 ルシェラ一人が状況も分からぬまま幸せそうにしていた。それがより、皆の不安と同情を誘う。

「あの……」
 沈黙を破ったのはリファスだった。
 この状況を一番よしとしていないのは彼だ。ただ幼児に返って甘えていれば済むというものではない。
 大使に会うまでルシェラは確かに自分の足で立ち、王子として、国守として……人として自立しようとしていたのではなかったか。
「……ルシェラは…………ここにいては果たせない役目があるから国に帰るって決意をして、大使に会いました。……その意志は、無視ですか?」
「役目…………?」
 大使には思い至らない様で首が傾げられる。
 ノーヴェイアはルシェラの暮らしぶりなど欠片も知らない。何を知る事も許されていなかった。
「ルシェラ殿下の御意志があるなら、それが一番かと思うが…………しかし、それがセファン陛下の手に委ねられるものであれば、たとえ殿下の御意志であろうとも私には承服しかねる」
「ルシェラは、完全に父親から見放される事を恐れているんです。多分。……国にあって国を守る、国守としての仕事を果たすそれだけじゃなくて…………そんな感じがする。ルシェラと触れ合っていると、ルシェラの心が入って来る様な気がして……」
 そっとルシェラの腕に触れる。
 今のルシェラからは暖かく穏やかな思いしか伝わっては来ない。
「……ずっと怖がってた。今は貴方のお陰で落ち着いてるけど……」
 やっとリファスも落ち着いた気持ちになれる。
 状況は望ましくない。しかし、ルシェラが幸福そうな様子を見ていると、ほっとした。
「……ルシェラの国での暮らしぶりは本人から聞きました。確かに帰らせる訳には行かないと俺も思います。でも……その為には、ルシェラを隠すんじゃ駄目なんです。それじゃあ、余計にルシェラが不安になる。……公式の場か、せめて公衆の面前で……セファン陛下を説得して、納得させる、これしかないんじゃないですか?」
「そう出来る事なら……しかし、貴方はセファン陛下に関する記憶を持っていらっしゃらないからそう仰せられるのだ」
「……ルシェラの立場は今大変不安定なんでしょう? まず足元を固めないと、ルシェラは一人で立つ事も出来ない」
 それとなく大使の腕からルシェラを引き取る。
 背を支え、半ば座らせる形を取った。

「……ルシェラ、そろそろ戻っておいで」
 耳元で囁く。
 ルシェラは緩やかな仕草でリファスを振り返った。
 髪を撫で頬を合わせる。
「……ルシェラ。俺じゃ、駄目か? 今のお前が生きて行くのに必要なのは、ただ甘えるだけの相手じゃないだろ」
 口調は甘く優しい。
 ルシェラはふわりと微笑み、リファスの顔を見た。
 視界が開けている事に小さく首を傾げ、視線が室内を彷徨う。
 リファスを確かめ、続いて大使、リファスの家族へと視線が移り、次第に表情が変わった。
――っ、ぁ……あ……――
 唇が戦慄く。
 何か言葉を紡ごうとしたが、出ては来ない。
 リファスを抱き返し、服の背を掴んだ。
「……落ち着けよ。大丈夫だよ。自分が誰で、年は幾つで、父親の名前は何か、思い出せるだけ言ってごらん」
 混乱しているルシェラを撫でて宥めながら優しく囁く。
――…………わ……わたくし、は……――
「ゆっくり、な」
――……わたくしは…………ルシェラ…………父の名は…………せ、ふ……セファ……ン……? いえ、あの……――
 視線が大使を向いて留まり、まだ混乱して確認する様にじっと見詰める。
「深呼吸。それだけ言えたら大丈夫だから」
 髪に、頬に、額に、触れるだけの口付けを繰り返しながら宥める。
「お帰り。じゃあ、話の続きをしよう」

 ルシェラ自身の話なのに、ルシェラが加われないのはどうにも癇に障る。
 ルシェラの目に知性の光が微かに戻って来たのを見て取って、リファスは大人たちを見回した。


作 水鏡透瀏

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