──あれは、何ですか?──
「あれは川だよ。水が流れてるのが分かるか?」
──精霊が沢山……ここからでは、よく見えないのが残念です──
「もう少し慣れたら外にも出られるさ。これから夏なんだし、水遊びも悪くない」
──あ、あちらは?──
「野菜を売って歩いてるんだ。台車にいろいろ乗っかってる。定位置で売る店もあるけど、ああして住宅街まで売りに来てくれるのもあるんだよ」
──うる?──
「前にお金って見せたろ? その額面と等価値のものと交換する事だよ。馬車から降りられそうだったら、何処かの店に入ろうか」
急ごしらえで窓には長めに庇を作ってある。
ルシェラは身を乗り出す様にして窓の外に見入り、知らないものを見かける度にリファスを質問攻めにする。
リファスは苦笑しながらも、込み上げる辛さを飲み込み続ける。
常識だろう、と切り捨てる事が出来ない。それが、どうしようもなく辛く、悲しかった。
サディアはそんな二人を見てはいられず、さっさと馭者台の方へ移っている。
用があれば呼ぶだろう。それより、二人にして置いた方が望ましい。
馬車はリファス宅を出てまず郊外へ向かった。
のんびりと街の外周を取り囲む壁を出て、ルシェラに自然を見せる為だ。
いきなりに繁華街は難しいだろうというのが、リファスとサディア二人の判断だった。
林と呼ぶか森と呼ぶか……その判断が難しい程の木立の間を抜ける道を行き、緩やかな丘陵へ出る。視界も開けた広原だった。
そこで馬の足を止める。
天気は晴れて燦々と陽光が注いでいる。ルシェラは外に出られない。
──あの、ここは……?──
「お前と……初めて会ったところだよ」
──…………ここが…………──
美しいところだ。
燃える様な緑が目に染みる。
「あの時には……まだ春の名残が色濃くて、小さな花が色とりどりにいっぱい咲いてた。朝が早過ぎて、殆ど見えなかったけど」
──こちらに参りましたのは……つい先頃の様に思います……──
「一ヶ月弱……そんなに経ったとは思えないな」
──まことに……──
ルシェラは隣に座るリファスの肩に頭を凭せ掛けた。
二人、小作りな窓からただ外を見詰める。
「ねぇ、お花を摘んで来て頂けませんかしら? わたくしの為に」
サディアは後ろの会話を盗み聞きつつ、ジェイに微笑みかける。
「は、はいっ、直ぐに!!」
可哀相なジェイはすっかり犬の風情で花を摘みに駆け出していく。
それを見送り、少し離れたところでサディアは足を組み、頬杖を付いて溜息を吐いた。
我ながら人のいい事だと思う。
ジェイの意識がルシェラに向けられたら、ここまで平穏でもいられないだろう。
リファスが選んだだけあって純朴で真面目で心優しい人間だとは思うが、初対面の人間を今のルシェラが受け入れられるかはまた別だ。
「弁当でも作らせれば良かった……」
こう景色の良いところで昼食など、大変に心地よい事だろう。
手綱を取り、馬を動かす。
広原にぽつりと立つ大樹の根方に馬車を寄せ、馬を木に繋ぐ。
後ろへ続く窓を軽く叩いた。
「日陰に入った。お前達は好きにするがいい」
聞こえた筈だ。様子を見るのは鬱陶しい。
サディアはさっさと馭者台から飛び降りた。
「ジェイさん、私も参りますわ」
――あの方も、お気使いくださっているのですね……――
「ああ……」
リファスは窓の外を見た。木陰に入り、陽の光からは遠ざけられている。
それを確かめて扉を開けた。
「待ってて。大丈夫かどうか、確かめてくるから」
――ええ……お願いいたします――
リファスが一人降りていくのを心細げに見詰め、僅かに窓寄りに膝を詰める。
車内に凝っていた熱が外からの風に浚われていく。
心地よく、首に巻いていた薄紗を解いた。
「……大丈夫、だと思うけど……木漏れ日はどうなのかな」
――こもれびとは?――
「木の葉や枝の間を擦り抜けて来る、ちょっとした陽の光だ。弱められてはいるけど……大丈夫かな」
――どうでしょう………………ああ……――
ルシェラは窓からひょいと顔を覗かせた。
上を見上げ、僅かに目を細める。
大樹は枝枝にこんもりと緑を纏っていた。
登ることの出来る太い枝から、先に分かれて細々と、その全てが若々しい葉をつけて空を隠している。
さりとて薄暗くないのは、葉から透けて陽の光が差しているからだった。
直接に光が差すほどに疎らでもない。
ただ、まだ若く柔らかな葉を透けて、緑の光が差していた。
――美しいのですね。……ええ、これならば……――
リファスに手を差し出す。
微笑に流され、リファスはその手を取ってルシェラを馬車から下ろした。
――心地いい……――
頬を風が撫でる。
若葉と花の香が入り混じったそれは、ルシェラがこれまでに味わったどの空気より心地よく、美味だ。
リファスは樹の根元に布を一枚敷くと、その上にルシェラを座らせた。
「ここなら、いいかな。樹に凭れたら景色も見えるだろ?」
――ええ……ありがとうございます――
指の先まで緑に染まるようだ。ルシェラは目を閉じ、風に身を任せる。
風が粒子で出来ていて、それが皮膚を通り、血肉を巡る、そんな感覚がした。
風はルシェラを傷つけるものではなく、むしろ包んでくれるものだ。
昼日中の外に出たのはこれが初めてだが、ルシェラはその感覚を、何処か知っている気がした。
「……弁当とか作って、ここで昼飯とか食べても良かったかな」
――こちらでお食事……ええ、まことに。大変に心地よく、味わい深いものでしょうね――
「まだ時間はあるし、明日とか、明後日とか……お前の体調のいい時に考えような」
――はい――
ルシェラは目を開け、にっこりと微笑んだ。
リファスはその笑顔に鼓動が跳ね上がったのを感じ、咄嗟に目を反らせる。
その美しさ、愛らしさは、とても正視できるものではない。
そして、堪らない不安感に襲われる。見てはならぬもの、触れてはならぬもの。突然に、そんな気分が起る。
ルシェラはそのリファスの様子に首を傾げたが、深くは突っ込まなかった。
それより、他に気になるものがある。
身を起こし、そろそろと四つん這いになって膝を進める。
「どうした?」
直ぐにリファスも気付き、身を乗り出す。
――あの、馬に――
「馬、好きなんだっけ。触りたいのか?」
――あの、この方が、お厭でなければ……――
馬を不安げに見上げる。
リファスは小さく笑って、ルシェラを立たせた。
「大丈夫だよ。馬は賢いから、こっちが乱暴にするつもりじゃない限り」
――ええ……とても、優しい方だと感じます……――
「お前にかかると、人と違わないみたいだな」
――……生き物は、生き物でしょう? この大地に住むものは、わたくしにとっては……全て、同じことです――
恐る恐る馬に手を伸ばす。
その背に触れる。人より若干高い体温が伝わった。
馬は僅かに振り向いたものの、大人しく触れられるがままになっている。
――ごめんなさい、急に触れたりなど……――
窘める様にルシェラが撫でると、馬は小さく身体を振った。
そして首を回し、ルシェラの顔を見る。その瞳は優しかった。
――人以外の生き物は、嘘を吐かず、隠し事もしないと伺います……本当なのですか?――
「ああ。……人間だけだ。嘘や隠し事なんて……動物は、もっと素直で、真っ正直に生きてるよ」
側に寄り添い、リファスも馬の背に触れる。
――では、この温もりも、伝わる優しさも……真実なのですね……――
嬉しげに頬を寄せる。獣の臭いも気にはならない。馬は鼻先をルシェラに摺り寄せた。
「っ、ぁ……」
一瞬驚きはしたものの、ルシェラは直ぐに満面に笑みを浮かべて馬の首に腕を回して頬を押しつけた。
――優しいのですね…………ありがとう…………――
愛らしい。
いとおしい。
リファスはルシェラに手を伸ばしかけ……慌ててそれを引っ込めた。
触れられない。
空気が背後で動いた事に気がつき、ルシェラは馬に縋っていた腕を少し緩めて振り返った。
――……リファス殿?――
目が合う。
リファスは一瞬顔を歪め、直ぐに顔を背けた。
――………………貴方は…………人だから…………――
責めてはいない。しかし、ルシェラは悲しげにリファスを見詰める。
リファスが何を隠しているのか、どんな嘘を吐いているのかは分からない。
だが、この動物の様に、素直に真っ直ぐに、全てを晒して生きているわけではない。
今生において隠す事も嘘を吐くことも知らないルシェラには、それが裏切りの様に思え、悲しかった。
――…………ごめんなさい。わたくしが、貴方に……そうさせているのでしょう……?――
「ち、違う!!」
――わたくしは、人の心を多くは知らない…………貴方には、歯痒い事でしょう……――
「違うよ、ルシェラ。俺は……別に、何も、隠してないし、嘘も吐いてない」
心情に反する言葉に、表情が歪む。
ルシェラがそれを見逃す事はなかった。
人の表情を読む事で、これまで何とか生きてきたのだ。
――貴方の行動を疑っているのではありません。……ただ、何故こうまでして下さるのか……やはり、私には分からないのです……。分からないから知りたい。けれど……貴方には、それをわたくしにお伝えくださる心積もりがない…………――
ルシェラは不安げに、けれどもはっきりと自分の思いを伝える。
――…………わたくしには、知る必要のない事なのでしょう。貴方が、そうご判断なさったのなら……――
風が、抜ける。
リファスは肩を落とし、顔を背けたまま動かなかった。
――……ごめんなさい。これ程、心地の良いところへお連れ頂きましたのに……この様なお話を……――
ルシェラは馬に向き直り、再びその馬体へと身体を寄せる。
優しい、とても優しい生き物だった。
背が、拒絶している。
リファスはその身体を目で追い、唇を震わせる。
触れたい。
誤解だ。そう、叫んで抱き締めたい。
手を伸ばす。
しかし、触れる前に虚しく指は宙を掻いた。
昼の外で、ルシェラに触れてはならない。
ルシェラに全てを告げたところで、今以上に互いの幸福が遠のく。
それはただの不安感や予感ではなく、確信に近い思いだった。
根拠など分からない。ただ、ルシェラを自分から求める事は出来ない。
一歩、二歩とルシェラから遠ざかる。
触れられもせぬのに、側にいる事が堪えられない。
側にいたい、力になりたい。
相反する感情に引き裂かれそうだ。
双眸から溢れる涙を、止められなかった。
ルシェラに対する感情を名づけるとすれば、それは、好きだとか、愛しているだとか、そんな甘く生易しいものではないのだ。
そんな簡単に表せられるものであれば苦しんだりなどしない。
例えルシェラがその言葉の真の意味も知らず拒絶したとしても、それを塗り替えてみせよう。
その程度の自身や覚悟でいいならば、何時だって持ち合わせている。
想えば想う程に、触れられぬ、その思いが強まる。
理由など分からなかった。
ルシェラと共に外に立つ、ただそれだけの事に、足元が崩れる様な感覚を覚えていた。
昨夜や、朝や、車内にいるときにはあんなにも睦みあったというのに。ここは、別だ。
ただ、想い合ったが為に、一体どの様な奇禍がルシェラを見舞うのだろう。
リファスはその場から逃げる様に、ルシェラを置いて大樹の裏へ周った。
根元にどさりと座り込み、抱えた膝の間に顔を埋める。
風が前髪を揺らした。
逃げ出したリファスを追う事も出来ず、ルシェラはただ馬に縋って立ち尽くした。
ルシェラにはリファスに対する感情を表す言葉がない。
ただ、振る舞いをあからさまにする事しか出来ない。
だからこそ余計に、リファスの態度がもどかしく、物悲しかった。
態度にも、言葉にも、リファスは何も表してくれない。
ただ、その瞳の色だけでルシェラはリファスを知るしかない。それが、不の感情ではなくどちらかといえば……自分の感じている想いと似たようである様に感じるのに、リファスはそれを隠す。
隠すという事は、そう感じているのは自分だけで、リファスは不快に思っているのかもしれない。
ルシェラは堪らなく不安だった。
漸くに馬から離れ、リファスが敷いた布の上に座る。
馬はそれに従って、綱の弛みがなくなるまでルシェラの側に寄った。
鼻先を寄せる馬の頬や鼻面を撫で、ルシェラは涙を堪える。
言葉を知らぬ、知っていても、それが正しい意味なのかすらも分からない自分が、どうしようもなく惨めで、心もとなかった。
リファスは逃げてしまった。
どれ程気になっていても、伝えるべきではなかったのだろう。
リファスの手が去る事は、ルシェラにとって何より耐え難い。
側にいてくれると言った、それまで疑いたくはなかった。
膝を抱える。
顔を埋めた膝に、ぽつりぽつりと雫が落ち、淡い染みを幾つか作っていた。
「…………どういうことか。この様は……」
ジェイが背後に控えていることも忘れ、サディアの声が低くなる。
せっかく気を使って二人きりにしてやったというのに、この薄暗い気配は何なのだろう。
サディアはルシェラの傍らに膝をついて顔を覗き込んだ。
「リファスはどうした」
ルシェラは首を横に振り、腕を伸ばし指で大樹の裏を指す。
埒が明かぬと、サディアは樹の裏へ周った。
「リファス!」
リファスは既に顔を伏せてはいなかったが、何処か呆けて景色を眺めていた。
緩慢に、視線がサディアへと向く。
「……あ……サディア様……」
「あ、ではない! 何だ、この様は。睦み合っているのではなかったのか」
サディアの勢いは、胸倉を掴みかねない。
「……ちょっとした……手違いで。やっぱり昼間の外に出るべきじゃなかったなって……」
「何を気にしている」
「…………外でルシェラに触れるのは……怖いんです……」
「………………お前…………何を思い出した」
目に光を走らせたサディアに、リファスは首を傾げて見せる。
「何、って……」
「何処にいても精霊は全てを見ている。太陽に知れるのが怖いか……?」
「…………動物だったら……嘘も、隠し事もなく全部伝えられるんでしょうけど……俺はあいにく、そこまで単純明快には出来ていないんです」
「ルシェラは単純だからな。求められて、拒絶でもしたか。ルシェラを泣かせるなど……お前の本意でもあるまいに」
「泣いて………………そっか…………」
リファスは手の甲で自分の涙を拭った。
「…………俺……本当に、ルシェラの側にいてもいいんでしょうか。あいつと外に出ると、そんな……不安が、湧いて……」
「……呪いは解けずとも、お前の力が戻って来ているのだろう。かつての感覚を思い出せばこそ、そのような気持ちにもなるのだ。……だが、忘れるな。お前がどの様に感じていようと、ルシェラはただひたすらにお前を求めている。それを厭わしく思わないなら……ルシェラの為に尽くして欲しい」
サディアはリファスの腕を掴み、引いた。
リファスも渋々と立ち上がる。
「涙を拭いて、戻れ。私は先にルシェラを馬車に乗せている。…………ルシェラに対して、罪悪感だけは持ってくれるな。少なくとも、罪人はここにはいない」
「はい…………」
樹を周っていくサディアの背を追いながら、リファスは自分の頬を叩いた。
緑を渡る風が、やはり、優しげに木々の枝を揺らし、リファスの髪も揺らしていた。
続
作 水鏡透瀏
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