食卓へ夕食が運ばれる。
 ルシェラのたっての希望で、食堂に一同が会する。
 完全に蘇りつつある記憶が、ルシェラに毅然とした態度を取らせていた。
 この家の家長……父親にも、漸く会う心づもりが出来た様だ。
 リファスの用意した服を纏い、靴を履き、手を引かれて姿を現す。
 食堂には、エリファを除き全員が揃っている。
 リファスの父ファディスも、今日は非番だった。

「あぁ…………」
 呻く様に声を上げ、ファディスは顔を伏せた。
「あなた……」
「……………………確かに……この、お顔立ちは………………」
 暫く俯いていたが、意を決して立ち上がり、深く礼を取る。
 正しい貴族式の礼だ。ルシェラはともかくも、傍らのサディアは不思議そうに小さく首を傾げる。
「ようこそ、我が家へお越し下さいました。ティーア王子、ルシェラ殿下。ラーセルム王女、サディア殿下。ファディス・グレイヌール・アトゥナと申します。心より、お二人を歓迎致します。どうぞ、おくつろぎ下さいます様」
「丁寧な挨拶、痛み入る」
──長らくお世話になりながら、これまでご挨拶も致しませず、まことに申し訳ございません──
 ルシェラは支えられながらも深く頭を下げる。
 声はファディスにもエリーゼにも届かない。リファスが通訳して漸く理解に至る。
「勿体ないお言葉にございます。さあ、どうぞお席へ。愚息が、心ばかりではございますが、お食事をご用意しております」
「かたじけない」

 支えがなくては座りの姿勢を維持できないルシェラの隣にはぴたりとリファスが寄り添う。
 力のない手を支え、匙を口まで運んでやる。
 皆で一緒に録る食事とは言え、ルシェラの前に並ぶものは内容も少しばかり違えていた。
 面倒な事だが、ルシェラの事となればリファスにそれを感じる事もない。
 味付けも薄く、材料も薄く小さく切ってある。
 小さく口を開けてリファスから食事を受けるルシェラを、ファディスはひどく複雑な表情で見詰めていた。
 夜とはいえ、そこそこに金のあるこの家の中は明るい。
 洋燈や蝋燭ではなく、部屋を照らしているのは光輝石と呼ばれる魔法玉である。
 火輝石とは違い光は発するが熱は齎さない。火輝石に比べて光の色が青白く、また用途の範囲が狭い為に余り好まれてはいない為多少安価ではあるが、中流以上の家庭でしかそう見かける事のない高級品だ。
 火輝石の赤みがかった光に比べ、比較的昼日中に似た色の光は、ルシェラの顔立ちも顔色もをはっきりと見せつける。
 人形の様な美貌が、リファスの手や言葉に依って様々に変化を見せる。
 愛らしく美しい。
 ファディスには分からないが、睦まじく会話をしている様だった。
 娘も息子も、サディアも、それは優しく楽しそうな様子を見せている。
 夫婦二人、蚊帳の外に置かれているのがよく分かった。
 エリーゼは気になどしていないが、ファディスは何処か落ち着かない心持ちになる。

「父さん、今日のご飯、不味かった?」
 様子に気づいたリファスが不安げに声を掛ける。
「う、ううん……美味しいよ、いつも通り」
「そう……?」
「リファス……」
「何?」
「……うん……い、いや、何でもない……」
 血の気の失せた顔で、ちらちらとルシェラの様子を伺い見ている。
「ルシェラが、どうかした?」
 名前を出され、ルシェラもファディスを見る。
 目があった途端に、ファディスは再び俯いてしまう。
 その様子を見ていたサディアが、ふと口を開いた。
「ファディス殿は、ご出身はどちらになる? 先程礼を頂いた際に、少しラーセルムのものとは作法が違う様に思ったのだが」
「…………礼儀を知らず、お恥ずかしい事です。一衛兵には、精一杯の事で」
「そうではあるまい。我が国のご出身ではないのでは?」
「生まれと……自立するまでは、確かに。生まれはアーサラです。幼い頃の躾は忘れぬものと申しますから、何処かでアーサラ風になっているのやも存じませんが」
 答え方には淀みがない。
「申し訳ない。私的な事をお伺いして」
「いいえ。殿下のご賢察には感服致しました」
「失礼ついでに、もう一つだけ。ご生家の、ご身分は?」
 サディアの視線は射抜く様だった。
 責めているものではないが、容赦もない。
 ファディスは思わず身を竦めた。
 その背に、エリーゼがそっと触れる。
「……隠す程の事ではないわ。もう……」
「…………エリーゼ…………ああ…………しかし……」
「本当に、さすがは国守様ですわ。よくお分かりになりますこと」
 ファディスを支えながら、エリーゼは小さく苦笑してみせる。
「五古国は、同じ文化文明を元に、それぞれの道を歩んだもの。似ていながら僅かに異なると言うことは非常に多い。それに……ほぼ完全な格式ある礼の形……正しく学ばなくては、とてもそう上手くは出来ない」
「お見事ですわ」
 エリーゼは思わず拍手をした。
 その内容に驚いたのは、リファスとエルフェスである。
「ちょっと待って。お母さん、そんなの、あたし達聞いてないわよ!?」
「俺も初耳だぜ。何なんだよ」
「殿下がいらしてから、そろそろ話さなくてはいけないとは思っていたのよ。ねぇ、あなた」
「ああ…………」

「ファディス・フェテン・アトゥナ・ルエ・レイナーハ。これが……私の、結婚前の名です」
「ルエ・レイナーハ……なるほど、公家の出か。聞き覚えもあるな…………王家より、古い家の一つではなかったか?」
「よくご存じで」
 食事の途中ではあるが、すっと立ち上がり、壁に掛けられた剣を手に取る。
 柄を、サディアに向けて差し出した。
 立ち上がり、それを受け取る。
 鞘を手で撫で、確かめる。
「古いな。微かに力も感じる。ご生家から持ち出されたものか?」
 ファディスに返す前に、リファスへ手渡す。
 リファスは恐る恐るそれを受け取り、じっくりと眺めた。
 家の者が帯剣するのではなく、常にこの食堂に飾られていたものだ。そんなご大層なものだとは、考えた事もない。
「家を出る際に、母から受け取りました」
「何故、ラーセルムに……とは聞かない方がよいだろうな。誰にも、事情はある」
「さした事情ではございませんよ」
 夫婦が寄り添う。
 ルシェラ以外の全員が、それで大体を察する。
 ルシェラ一人が小さく首を傾げた。
 公爵家の子息と、王室付きとはいえ医者の娘……家が許そう筈はない。
 しかし、ルシェラにはその辺りの社会的な事情が分からない。
「…………しかし、リファス。これで……少し足場が安定したな」
「……足場……」
「王家より古い公爵家……その身に流れる血の幾らかは、アーサラ王家にも繋がっていよう。アーサラは、ルシェラの母の国でもある。我ら国守や、かつてを知る者達の証に加えて、よりルシェラの近くにいる為の膳立てが出来ているという事だ」
 リファスは剣を手にしたまま、不安げにサディアを、そして両親を……その後ルシェラを見遣る。
──…………リファス……?──
「何か…………よく、分かってないんだけど…………」
「……血は流れておりましょうが、最早、あの家は私の戻る場所ではない。公家の力などないも同じ事」
 ファディスが口を挟むが、サディアは鼻であしらう。
「その身に流るる血を全て取り替えたところで、その肉を作り上げているものを断ち切れはすまい。貴殿や、ご生家の当主がどう思い、どう仰有ろうが、周りはそうは見ぬという事だ」
 リファスから剣を取り上げ、すらりと抜き払う。
 念入りに手入れをされていた事がよく分かる。光輝石の光を受け、剣の刃もまた、美しい輝きを見せる。
 その光に、サディアは目を眇めた。
 夕餉の団欒に、ふさわしくない光景である。
 そんな中でも、様子を伺いつつ、エルフェスは匙を口に銜えていた。
 ただ、大人しく情景を見守っている。
「…………捨てられぬのだろう、貴殿も。装飾には美しいが、決して実用には足りない。手放して、もっとよいものに買い換えることも出来ただろう。衛兵として働くなれば、その方が理に適ったであろうに」
 鞘へ戻し、ファディスに差し出す。
 ファディスは微かに震える手でそれを受け取った。

「…………すまない。夕食の席ですべき事ではなかったな」
 軽く頭を下げ、席に着く。
 ルシェラと目を合わせ、軽く肩を竦めた。
 一人取り残されているルシェラは、分からないままにも小さく微笑む。
 それを見詰めていたファディスの片目から、一筋涙が零れ落ちる。
「ぁ…………」
「父さん?」
 直ぐに手で拭うが、リファスにも、妻にも見つかってしまう。
「あなた…………」
「すまない…………エリーゼ、少し、昔を思い出しただけだから……」
「…………ええ…………分かっているわ。もう、いらっしゃらない方に嫉妬なんてしませんから」
 直ぐにちり紙を出して、ファディスの目元を拭ってやる。
「お気になさらないで下さいませね。初恋の方に、ルシェラ殿下がよく似ていらっしゃるだけのことですから」
「ルシェラに……? それは……失礼だが、お年から察するに、現駐ラーセルムのティーア大使、ノーヴェイアの妻であった…………フィデリア殿か?」
 記憶を手繰り寄せる。
 エリーゼは僅かに眉を寄せて頷いた。
「……よくご存じですこと」
「私も、ただの王女ではない故に…………一連のことを知らぬではないのでな。ルシェラに絡む事なればある程度は把握しているし、現在ラーセルムに駐留している五古国の大使であれば、それなりには勉強している。……やはり、運命は引き合う様に成り立っているのだろう。殊に、この世界では」
「昔の事でございます。…………ただ……急に外つ国へ嫁に行ったかと思えば、死亡したとの知らせ……彼女は従姉でした。仲のよい。一言なり、別れを言えていればと……この年になっても未だ……思うだけの事…………ただ……それだけです……」
 そもそも、あまり頼りがいのある男でもないが、より弱々しく見える。
 品の良さは、ともすれば線の細さにも捉えられる。
「……母さんは……全部知ってたのか?」
「大体は。知り合ったのは王室主催の舞踏会ですもの。私も、この人も若かったから……ね」
 エリーゼは既に食事に戻っている。
「貴族の暮らしなんてなくたって、貴方達に苦労も不幸な思いもさせてはいないと思うんだけど? 今更知ったって、変わる事なんてないでしょう?」
「じゃあ、何で今まで黙ってたんだよ」
 リファスは引き下がらない。
「わざわざ言うべき機会なんてなかったわ。大貴族だと知ったからって、会いに行けて? 用もないのに、今更」
「今! 今だよ!!」

 ルシェラの肩を掴む。
 急に力を加えられ、ルシェラは戸惑ってリファスを見た。
「身分が欲しい。今すぐだ。ルシェラの側にいられるだけの、保証が欲しい!」
「リファス…………私は、家を飛び出した身だよ。今更お前が行ったところで…………無駄な望みは諦めなさい」
「会ってみなけりゃ、分からないだろ!!」
「エリーゼと二人で暮らす事を決めた時に、ファナーナ家の名は捨てた。…………未練がましいというなら、この剣も捨てよう」
 背後にあった、火のついていない暖炉の灰の中へと投げ入れる。
 掌を上に向け、軽く意識を集中させる。
 その側に常備してある紙に火を付け、小さな木切れと共に暖炉へと放り込む。
 初歩の魔術だ。衛兵として嗜みがあるなら、簡単な治癒とこの程度の火興しくらいは出来るものだ。
「なっ、父さん!!」
 更に薪を足そうとするファディスに、リファスは慌てて椅子から飛び上がると、剣を引き出した。灰が舞う。
 エルフェスは咄嗟に、好きなおかずの器だけを持って部屋の隅へ退避した。
 ルシェラはただ狼狽えるばかりで、リファスとファディスの様子を伺い続けている。
 リファスには届かない。震える手が伸び、サディアを探った。
 直ぐにそれに気が付き、サディアはその手を取る。

──……どうして。………………怖い…………──
「リファスはお前の為に動いている。意味も分からぬままに怖がるな」
──けれど……──
「何が怖い」
──お怒りが……お父上様に、あの様な…………──
 父の言う事は、どれ程理不尽に感じられても故のない事ではない筈。ルシェラには、父に逆らうという事自体が理解できない。
 当然ながら、怒りを向けるという事も、理解の範囲ではなかった。
──リファス殿、お父上様にその様な……どうか、お鎮め下さい……どうか…………──
 リファスの感情に、肌が粟立つ。
 ルシェラはとりあえずそれを恐怖だと受け取ったが、どうも、何処かが違う様に感じる。
 不安で仕方がなかった。
「ルシェラは黙ってろ! 父さん、俺は、これを持ってアーサラに行ってくる。魔法道を使えばそう遠い所じゃない。諦めるのは、それからでも遅くないだろ!?」
 突き放され、ルシェラははっきりと狼狽して口元を覆った。
 蹌踉めいたところをサディアが支える。
「リファス、しかし、それは急が過ぎる」
 サディアが諭すが、耳を持たない。
「時間は、限られてる……」
「だからこそ、暫し待てと言っている。闇雲に会いに行ったところで、証がその剣一つではどうにもなるまい」
「でも、」
 強く剣を抱く。
「……三月の後、アーサラ王が我が国に来る。その場で、出来る様なら引き合わせてやろう」
「三ヶ月も、待つなんて……」
「では、ルシェラ一人をここに残し、アーサラへ行き、下手をすれば盗人の疑いでもかけられて投獄されてくるか? その剣一つを証に乗り込むのは、余りに無謀というもの。そういった可能性も、ないわけではないぞ」
 握っていたルシェラの手をリファスへと差し出す。
 ルシェラは逃れる様に手を引こうとしたが、サディアは許さなかった。
「…………ルシェラには、他に寄る辺もない。私が側にいても…………お前がその手を取る以上に、ルシェラに安らぎを齎す事も出来ない。……それでも、お前は……この手を置いてアーサラへ行くか」
 皓く撓やかな指先が震えている。
 ルシェラは誰を見ればこの不安が僅かにでも薄らぐものかと、それぞれの顔を伺うが、元より弱い目にはぼやけた顔しか映らない。
──…………リファス殿…………──
 今にも泣き出しそうに唇が震えている。
 リファスは、剣を片手にしたまま、ルシェラの手をサディアから受け取った。
「………………ごめん……ルシェラ…………」
──…………わたくしには……よく分からない事ですけれど…………貴方が、わたくしの為を思って下さっている事は、よく分かります。その為に、動こうとして下さっている事も。けれど、今の貴方は……少しその一事のみに囚われていらっしゃる様にお見受け致します。……サディアのお話も、伺ってからでは遅くないでしょう。わたくしにも……未だ、それ程の時間は残されていると思うのです……──
「ああ…………」

「…………すみません、サディア殿下…………父さんも…………」
 ルシェラに言葉を尽くされては、この場は引き下がるしかない。
 軽く頭を下げる。
「早く座りなさい。もう冷めてしまってるし……少し灰もかかっちゃったわね」
「作り直すよ」
「勿体ないわ。皿の下の方のものは食べられるでしょう。エルフェスが死守したものもあるし」
「……褒めて欲しいわね。全く」
 甘辛く味を付けた肉が乗った皿を食卓へと戻す。
「そういえば、お姉ちゃん、遅いわよね。お姉ちゃんがいれば、もう一つくらい守れたのに」
「あら……そういえば…………今日は早番……だったわよね?」
「ああ、確か…………何かあったのかな」
 皆で揃って時計を見る。
 本来帰ってくる筈の時間から、二時間程が過ぎていた。
 趣味は庭いじり程しかなく、また外で飲む前には夕食の要不要を伝えるのが常である。
 軽く眉を寄せて、ファディスは時計から目を離した。
「食事が終わったら、少し出てくる」
「そうね、珍しい事だし……何かあったなら心配だから」
 ファディスも食器を取り直す。
 漸くルシェラも落ち着き、リファスと繋いだ手を軽く握った。
「ごめん、ルシェラ。食べようか」
──ええ……──


作 水鏡透瀏

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