──降ろして下さい──
 促され、ゆっくりと足先を地面に付かせる。
 細い指が強く腕を掴み、痛い程だ。
「大丈夫か?」
 はっきりと頷きが返る。
 まだ門の内側だ。空は思いの外明るい。月が丸く明るく輝いていた。天気はよく、星の数も数えられる。
 一歩を出して門外へ……往来へ出る。その決意を胸にルシェラは空を見上げ、深く息を吸い込んだ。
 僅かにひやりとした空気が肺を満たす。それが熱に火照った身体には心地よかった。
 指の力が緩む。リファスの腕から離れる。
 代わりに、門扉に手が触れた。
 弾みで、ひらりと肩掛けが落ちる。
 慌ててリファスが拾い上げ肩にかけ直そうとしたが、それを払う。
「ルシェラ、冷えるよ」
──大丈夫です──
 振り返り微笑む。
 月の光の下、その姿は自ら光を放っている様にさえ見える。
──懐かしい事……──
 清光に目を細める。
 国にいた頃に、一度だけ連れ出して貰った記憶があった。その時には周りは木々に囲まれ、また、広く空間も空いていた為に白く薄ぼんやりと輝く様な世界だった。
 ここは、少し違う。
 門の前は少しばかり開けているし、月が見えぬ程でもないが石と漆喰で造られた建物に取り囲まれている。
 少し息苦しい気がした。
 ただ、やはり昼とは印象が違い、静かで落ち着いた雰囲気がする。
 一歩踏み出す、その事に軽い緊張を覚えはするが、それ以上に気分が昂揚している。
「ルシェラ……」
──ご心配は無用に。月が……お守り下さいます──
 丸く、仄白く、照らしている。
 陽の光よりも澄んだ透き通る様な光が全身を洗ってくれる、そんな気がした。
 天上へ手を伸ばす。
 昼に陽の光を受けて軽く爛れた手の甲が、見る間に癒えていく。
「それ……」
──月は清浄で美しいもの。わたくしを癒してくれるもの──
「ああ…………優しい、暖かい光だよな……」
──陽の光は身を貫く様なのに……月に弾かれるだけで、全く色を変えて行く……──
「本当に……行けるのか?」
 微笑む顔に清光が輝く。
 美しい。
 リファスは伸ばしかけた手を握り、太股に付けた。
 ルシェラを阻む事は出来ない。

 心配ではあるが、不安は感じない。
 一歩を踏み出すルシェラを、固唾を呑んで見守る。
 砂利の擦れる音がする。
 足を持ち上げ、一歩、踏み出す。
 まだ身体の半分は門の内だ。
 ドキドキしているのはリファスとその更に後ろで見ているサディアだけで、ルシェラ自身はそうでもなかったらしい。
 案外にあっさりと次の一歩が出る。
 直ぐに門から手が離された。
「ルシェラ!」
──大丈夫ですから。本当に──
 振り返り、リファスに手を差し出す。
 それを取り、リファスはルシェラを腕の中に抱き込んだ。
──人の気配は、余り無いのですね。昼とは違う……全く、怖いものなんて感じない──
「私が感じるものは、夜気の他、昼とそう変わらぬ気配だが……。やはり、日中に何かあったのではなかろうか」
 外の様子を伺いながら、サディアも横に並ぶ。
 きょろきょろと周りを見回すが、やはり暗い他に何の変化もない。
「今は無事だな?」
──ええ。ご心配には及びません──
 リファスと手を繋ぎ、機嫌も具合も良さそうににこにことしている。
 その様子に、リファスとサディアは顔を見合わせて安堵の吐息を洩らした。
「今特に往来のない時間だろうから、大丈夫なのだろう。この様に少しずつ慣らして行けばよい」
──そう……でもないようですけれど……?──
「?」
「ああ……夜の市が立ってるから……かな? 分かるのか?」
──ええ……あちらの……少し、遠方にも思いますけれど……──
 建物の向こうを見詰める。
 そして、少し首を傾けた。
──人の気配を数多く感じます。けれど……怖い感じは致しませんね──
「ああ……本来人とはその様なものだ」
──少し近づいてみても構いませんか?──

「駄目だっ!!」
 ぐっと抱き寄せ、門の内に引き込む。
「っ、ぁ……」
「リファス!!」
 サディアが険のある声を上げるがリファスは聞き入れない。
──リファス殿……??──
 何故リファスが怒鳴るのかが分からない。ただ、月の光に落ち着いている為か、怯えや震えは来なかった。
「……夜の市なんて危ない。そんなに治安の悪い街じゃないけど……夜の市は子供は行っちゃ駄目だ」
「どうした……? 確かに、今はもう暗いし、まだ若すぎる私達の歳で余りうろうろと出歩くのはよくないとも思うが……」
 それにしても、怒り方が尋常ではない。
「駄目だ……絶対…………」
 リファスの方が震えている。
 そう思えて、ルシェラは腕の中で藻掻き、リファスと向かい合わせになって目の前のしっかりとした身体を抱き締めた。
──無理は申しません。……人の気配が恐ろしいものばかりでないと言う事はよく理解致しました。明日……厳重に装備を調えて、お昼にもう一度挑戦致しましょう──
 リファスの髪をそっと指先で梳く。
 慰められるばかりだったルシェラが、リファスを慈しもうとしている。
 サディアは目を細めた。
「……リファス、お前の方に問題がある様だな。家の中へ戻ろう」
「…………すみません…………」
──リファス殿、参りましょう……──
 ルシェラの手が背に添う。リファスは抱き返す。
 そして、そのまま家へと戻った。

「ご無事でしたか、殿下」
 エリーゼの問いに、頷きで答えてみせる。
 それより、と居間に戻って長椅子へとリファスと並んで腰を下ろした。
 至近距離でリファスの顔を伺う。
 暗がりでは分からなかったが、皓い頬が蒼褪めている様に見えた。
──リファス殿…………?──
 二人で寄り掛かり合って座っている。
 どちらかが崩れれば、共倒れになるだろう。
「リファス、どうしたの」
「リファスは、何か夜の市に厭な思い出でも?」
 そうとしか考えられずサディアが問う。
 エリーゼとそれに続いていたエルフェスが息を呑むのを見逃すサディアではなかった。
「ルシェラは大丈夫だ。しかし、夜の市へ近づこうとした途端、この様だ」
「そう……ですか…………」
 リファスの側に寄り、エリーゼはその艶やかな髪を撫でる。
「リファス、後はいいから、もう下がってお休みなさい」
「でも、ルシェラが」
──わたくしは問題ありません。サディアもおりますし。リファス殿は今、大変に休息を必要としていらっしゃる様にお見受け致します──
 未だ微かに震えが残っている。
 ルシェラはぎゅっとリファスを抱き締めた。
 他にどうすればいいのか分からない。ただ、自分に震えが起こった時にして欲しい事をそのまま伝える事しかできない。
 ただ、抱き返してくれる事が嬉しかった。嬉しくて、ついリファスを抱く腕にも力が入る。
──貴方がわたくしを側に置いて下さると仰有るなら……共に休みましょう──
 髪と耳朶に唇が触れる。瞬時に、リファスの頬や耳が紅く染まった。
「…………ごめん、ルシェラ。お前に気を遣わせたりして……」
──当然の事でございましょう? 貴方は常にわたくしにお心砕き下さる。わたくしも、貴方の為に何かできる事があるのなら貴方にお伝えしたい、ただ……それだけの事…………──
 周りに複数人がいる事など最早念頭にない。
 僅かに顔を離し、見詰め合う。
 心配げなルシェラに対し、リファスは血の気のなかった頬を染めて僅かに潤みかかった黒目がちの瞳で見詰め返す。

 ごほん、と咳払いがした。
 見かねたサディアが水を差す。
「二人でいた方が休まるなら、そうすればいいだろう。それならそれで、早く下がれ。目も当てられん」
 苦笑を洩らすサディアに、リファスはぱっとルシェラから離れた。
 ルシェラにはその行動が理解できず小首を傾げる。
「じゃあ……もう休む……。あ、その前に、サディア様、部屋にご案内致します。風呂などの場所も」
「風呂は昼にお借りしたので分かる。部屋への案内を頼もう」
「ルシェラ、ここで待ってて。後で俺の部屋に行こう」
──貴方のお部屋……先に行って、お待ちしていても宜しいですか?──
 屈託なく微笑みかける。
 リファスも微笑み返し、頷いた。
「一人で大丈夫か?」
──この建物の中なら……縋る場所も多くございますし──
「姉貴、付いていってくれるか」
「了解。殿下、お邪魔は致しませんから、少し後ろから付いて参りますわ。宜しいですか?」
──はい。心強いこと──

「……お前もいろいろある様だな」
「まぁ……少し」
 案内した客室に入るや否や、サディアがしんみりと呟く。
「夜の市のついでに襲われでもしたか」
「っっ!」
 ぶるりと身体が震え、それを押さえ込む様に両腕で身体を掻き抱く。
 それを見て、サディアは直ぐさま頭を下げた。
「すまない。図星を当てるつもりはなかったのだが」
「いっ……いいえ…………ちょっと……。……ルシェラの前では話題に出さないで下さい」
「重々承知している」
 サディアが応接用の椅子に腰掛けたのを見て、茶を淹れにかかる。
 ラーセルム式の作法である。宿泊する部屋に通した客人へは、まず茶が振る舞われる。
「どうぞ」
「かたじけない」
 一口口を付け、サディアはリファスの様子を伺う。
 愁いを帯びた顔立ちは精悍な中に影を滲ませ、どきりとする程の色香を醸して見せる。
 だが、サディア重く吐息を洩らしただけだった。
「ルシェラが待っている。私はもう十分だから、早く行ってやれ」
「いえ、あの……」
 リファスは思案に暮れた表情で、サディアの側に跪く。
「お伺いしたいんです」
「何だ?」
「俺には昔があると仰有った。貴方がたと同じ様な存在だと」
「そうだ。覚えていなくても……」
「…………同じ様な存在なら、何故、俺は何も覚えていないんですか?」
 顔が上げられる。
 潤んだ瞳は仔犬の様だ。サディアは眉を顰めた。
「ご存じなんでしょう? 教えて下さい」
「詳しく言うと余りに長い。…………お前からは、人として生きる程の力以外全てが奪われている。三千年をかけ僅かずつ取り戻してきている様だが……まだ意味は成さない」
「……どうして……」
「お前は……かつて、神々の王とルシェラを巡って争った。……争ったというのもおかしいか。お前とルシェラが愛し合うところへ割って入られ、お前は隙をつかれて神々の王に、この星へ封じられた。記憶その際に共に封印された。長きに渉る封印の末、この大地の……世界の維持の為にお前の力は奪われた。…………信じるか信じないかはお前の勝手だが」
 サディアには、もとより隠すつもりもない。
 リファスは一息に捲し立てられた言葉を消化するのに精一杯で、異論も、反論も、疑問すら未だ湧かない。
「…………えっと…………」
 頭痛がする。胸の奥に、ちりちりした厭な感覚も覚えていた。
 手の甲を額に当てる。
 何処かの小説か伝承歌の様だ。
 だが、荒唐無稽だと笑うより、息を呑む様な緊張感の方が先立った。

「……今は一つ一つ、目の前に山積された問題を片付けていく他ないが……いずれ、お前も全てを取り戻せるだろう。今は未だ……辛抱して欲しい」
「……はい…………」
「さぁ、ルシェラが待っている。早く行ってやってくれ。お前にも、ルシェラの手が必要だろう?」
 リファスの肩に触れる。
 リファスは深く頭を下げた。
「はい」
 立ち上がる。そして、一礼をして部屋を辞した。


作 水鏡透瀏

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