ルシェラは、階段を目の前に立ち尽くしていた。
 上りの階段の先にリファスの部屋はある。
 手摺りに縋るが、一段分足を上げようとしてもとても届かなかった。
 そもそも、この身体に生まれてこの方、それ程に足を上げる様な動きをした事がない。
 困惑して、後ろに控えていたエルフェスを振り返る。
──……あの……お手伝い頂けますか?──
「畏まりました。お手を」
 片手は手摺りに縋りながら、もう片方を手と言わず腕からがっちりとエルフェスに支えられる。
 見た目の華奢さとは裏腹に、舞手であるエルフェスは実のところかなり筋肉質である。身長も変わらず、それが故に、確実に自分より体重の軽いルシェラを支えられない事はない。
 引き上げる様に、一段一段をゆっくりと上がる。
 一段上がる度に、ルシェラの呼吸も上がる。顔は蒼褪め、しかし額にじっとりと汗が滲んでいる。
 折り返しも含めて二十段程の階段の中程、踊り場とまでは言わないが少し幅の広くなっている段で立ち止まる。
 重力に負けるルシェラの身体をエルフェスは引き留めなかった。
 膝を付き、手で身体を支えている。
 その背をそっと撫で擦り、様子をただ伺う。
「……母を呼んだ方が宜しいですか」
──いいえ……。こんなに多く動いた事がなかったものですから…………直ぐに落ち着きます。少しこのままに……──
「畏まりましたわ。殿下のお望みのままに」
 痛みなどを覚えている訳ではなさそうな事に安堵する。
 歩く事もなかなかままならないのだ。階段は少しばかり大きな障壁だったのだろう。
 緩慢に顔を上げ、階段の上を睨んでいる。
 乙女じみた線の細い顔立ちが、何処か精悍に見えた。
 他人に頼る事を極力拒みたいのだろう。
 人としての自立を強く願っている事が感じられる。邪魔は出来ない。

 数分して、次第に呼吸が落ち着いてくる。
 ルシェラは壁や手摺りに縋りながらゆっくりと立ち上がった。
 険しい視線は変わらない。
──情け無い事ですね……──
「いいえ。大変に頼もしく思えますわ。ですが、ご無理はなさらない方がよいと思います。一つずつ出来る事を増やしていけばよいのですから。人はその様にして成長していくものです。誰だって一飛びに何もかも出来るわけではありませんわ」
──……有り難うございます……──
 はっと強く息を吐き出す。
 そして、再び上を目指した。

「リファスも直ぐに参りますでしょう。私の部屋は隣ですから、何かありましたらお呼び下さいね」
──はい。お気遣い、痛み入ります──
 リファスの部屋の前まで辿り着く。
 未だリファスはサディアの所にいる様だった。
 扉を開けて中に入る。
 整然と無駄のない部屋だ。多少色気に欠けるが、ルシェラにはよく分からない。
 殺風景というわけでもない。壁沿いに、幾つかの楽器が掛けられている。本棚も幾つかあり、ぎっしりと本が詰まっていた。
 実を取る、リファスの性質のよく現れた部屋だ。
 腰掛けられそうなものは机に設えられた椅子と寝台しかなく、ルシェラは迷わず寝台の端に座った。
 疲労がある。上体を寝台に倒す。
 不思議な、心地よい香りが鼻を掠めた。
 目を閉じる。
 リファスの匂いだ。温かな、優しい、リファスそのもの。
 頬を寝具へと擦り寄せる。
 胸が高鳴っていた。理由など分からない。その高鳴りに、自然に口の端に笑みが滲む。
 先程のリファスの様子は大変に気がかりだったが、それが薄らぐ程に、ルシェラの心は温かかった。
 目を開け、視線を部屋の中へ向ける。
 リファスの過ごしている部屋。
 この様に明るく暖かみのある部屋で暮らしたなら、リファスの様に優しく心根のよい人間になるのだろう。
 高鳴る想いがルシェラを落ち着かなくさせる。
 寝転がったばかりだというのに、また身体を起こす。

 もう少しよく知りたく、僅かに蹌踉めきながら立ち上がって机や本棚へ近寄った。
 机の上には、そこだけはそう片付いてもいない気配で幾枚かの紙が散らばっていた。
 覗き込むと暗号の様なものが書かれているのが分かる。ルシェラの知っている文字ではなかった。
 絵かとも思うが、そんな風でもなくそれなりに整然と並んでいる。
 五本の線ごとに少し空間を空けて幾段が描かれ、その間や上に黒や白の丸があるものは連ねられ、またあるものはそれだけで書かれている。
 不思議な紙だった。
 他には何かないかと、今度は本棚に寄ってみる。
 背表紙を眺める。ラーセルムの文字も、ティーアと少し違うだけで元が同じなので読む事に戸惑いはない。
 薬草など、薬関係のものが多い様だった。判型や系統に合わせてよく整理されているのが分かる。
 段ごとに違うらしく、その下には何やら叙情的な題の付いた薄くて大きな本が並んでいる。
 その下の段には同じ様に判が大きく分厚い、背に人の名を記した本。
 ルシェラの知る書庫にはなかったものばかりだ。
 地理や歴史、政治や経済に関する本しかその手にした事はない。
 興味は引かれたが、自分のものではないものに手を出す程躾がなっていないわけでもない。
 再び寝台に座ってリファスを待つ。

 ルシェラには、そう長い間支えもなく起き上がっている事は出来ない。
 再び身体を倒す。
 その機を見計らったわけではなかろうが、扉が開いた。
「ルシェラ、大丈夫か?」
 リファスが戻ってくる。
 ルシェラは顔を上げ、微笑んだ。
──お待ちしていました──
「遅くなってごめん。寝間着を取ってきたから、身体を拭いて着替えようか」
──ええ……──
 腕を伸ばすと、抱き起こしてくれる。
──貴方も……大丈夫ですか? まだお顔の色が優れない様に思いますが……──
「大丈夫だよ。心配させてごめん」
 まだ微かに色の悪い頬に触れようとするが、リファスは咄嗟に身を引いた。
「っ、ぁ…………ごめん。あの……」
──……済みません…………──
 俯くルシェラに、リファスは掛けられる言葉もなく俯いた。
 だが、軽く咳払いをすると、ルシェラの服に手を掛ける。
「手、上げて。身体を拭くから」
──はい……──

 持ち込まれた湯桶に幾度も布を浸しながら、隅々まで身体を磨き上げられる。
 体調を考えて二日から三日に一度洗われる髪にもよく櫛が通され、眠るときの邪魔にならない様に緩く三つ編みを編まれた。
 全てをリファスに任せて、不安はない。
 丁寧で几帳面だ。大らかな雰囲気や見た目に反して、細やかだった。
 その辺り、ルシェラの方が余程適当だ。近寄る者に失礼のない程度なら正直なところどうでもいいと思っている。
 ただ、その尽くしてくれる様が心地いい。
──あの、リファス殿──
「何?」
──……よいお部屋ですね──
「そう、かな。有り難う。ちょっと殺風景だけど……居心地はいいかな」
 少しだが、様子が戻って来ている。
 ルシェラは嬉しくなって、先程気になったものについて尋ねてみる事にした。
──貴方がいらっしゃるまでに、お机の上の用紙を見てしまったのですけれど……──
「用紙? あ、ああ。楽譜か」
──楽譜?──
「楽を奏でる為の譜面……譜面っていうのも分かんないか……ええと……文字と似た様なものだ。丸がいっぱい書いてあったろ? あの一つ一つが音の高さや長さを表してるんだ」
──その様なものなのですね──
 寝間着に腕を通し、その腕をそのままリファスに預ける様に腰を浮かせる。
 机上を覗き込もうとすると、リファスは笑って手を伸ばし、一枚を取り寄せた。
 身体を寄せ抱きつく様にして、紙を覗き込む。
 リファスはまた身体を引いたが、ルシェラもそれに合わせて動いた為に身体は離れない。
──これは、どの様なものなのですか?──
 一つの黒丸を指す。
 リファスは小さく笑って正しい音程で一音だけを歌ってみせる。
──これは?──
 また、示された音を。
──では……こちらは?──
「それは休符だ。音を出さないっていう記号。……こうやって、音をいっぱい連ねて、音楽にするんだよ」
──奏でて頂けませんか?──
「もう遅いからな。姉貴ももう寝る支度をしてるだろうし、楽器は大きな音が出るからさ。安眠を邪魔したら殴られちまう。明日の朝でいいか?」
──ええ!──
「じゃあ、明日が早く来る様に、もう寝よう」
──……ええ……──
 少し勢いの失せたルシェラに苦笑する。
「もう少し起きていたい?」
 首筋に手を当て、熱や脈の具合を診る。ある程度熱は引いていたし、脈も乱れていない。ただ、少しばかり鼓動が早かった。
「興奮してるみたいだな」
──……すみません……。嬉しい事が沢山あったので……少し、気分が落ち着かなくて──
「外に出ても大丈夫だったとか、自分でここまで来られたとか?」
──エルフェス殿に、沢山お手伝い頂きまたけれど……それでも、自分の足でこちらのお部屋までこられた事は、大変な誇りとなりました。それだけではなくて……──
 頬が薄赤く染まっている様は実に愛らしく美しく、リファスの鼓動も跳ねる。
──分からないのですけれど…………このお部屋に来て、ここに少し横にならせて頂いたら、貴方の香りがして、貴方に包まれている様に思えて……それが、本当に嬉しくて仕方がなくなってしまって──

 凄い言葉だ。
 リファスは耳や首筋まで紅く染まった。やはり慣れない。
 そう思ってくれる事は大変に嬉しいが、それ以上に照れと気恥ずかしさが先に立って応えられない。
「そ、そうだ。あ……あの、お前に見せたい絵があったんだよ」
 ルシェラの身体を僅かに引き離し、横たえさせて立ち上がり本棚から一冊抜き取った。
 本棚の三段目。分厚く、人の名を冠したルシェラに何の本だか分からなかったものの一つだ。
──絵? 前に見せて頂いた、湖や花などの……──
「うん。それもなんだけど……これだ。俺が、小さい頃から惹き付けられて止まなくて……」
 ルシェラを抱き起こし、並ぶ二人の膝の上に画集を広げる。
 それは宗教画の様に見える絵だった。
「好き……って言うのとも、少し違うんだけど……」
 背景は暗闇に月。そこに浮かび上がる様な聖人の姿がある。男女の別は分からないが、ただ美しい。
 白か白金の淡い髪に、白い肌、白い衣。
 優美な形で佇み、暗闇の中でただ白く輝いて見える。
 ルシェラには手法など分からないが、大変に精緻で人物の表情も細やかだった。指先の形一つで空気を全て支配しているかごとくの迫力も感じる。
 色の数は多くないのに、何処か鮮やかな印象が残る。
──これは……──
「……お前に……似てないか? 何となくだけど」
──そうでしょうか……?──
「これは五百年くらい前の絵だからな……。リーンディルに壁画とか天井画も書いた画家だから、お前を……ティーアの国守を素にしててもおかしくはないかも」
──ええ…………──
 物珍しげに、絵の上を細い指が辿る。
──何と仰有る方がお描きになったのですか?──
「ソウザンって……家の名前なのか、本人の名前なのか、それ以外なのかも分からない。謎の天才画家って言われてるけど、作品だけは沢山残っててさ。この絵と同じ人を描いた作品と風景画しかないんだけど、どれも透明感のある、泣きたくなるみたいに綺麗な絵で……」
──描いた方の、深い思念を感じます……──
 指先が描かれた人物の輪郭を辿る。
 鮮やかで華やかな中に、この描かれた人物に対する深い情念を感じる気がした。
 白と黒の色を鮮やかに見せるのは、その想いの力、そう感じる。

「本物を一回見てみたいんだよな。アーサラの王立美術館に所蔵されてるのが一番多いんだけど、なかなか行けないよなぁ」
──そのうちにリーンディルへ参ります。リーンディルへはアーサラを経由して参りますでしょう?──
「そうだな。……その前にやる事は、たくさんあるけど」
 画集を閉じ、机に投げる。
「さぁ、本当に、もう寝ないと」
──はぁい──
 足を寝台の上へ上げて貰い、壁沿いに置かれた寝台の、奥の方へころりと転がる。
 掛布の下へ潜り込み、リファスが並ぶのを待つ。
 リファスは自分も着替えを済ませると部屋の照明を落とし、ルシェラの隣へと潜り込んだ。
「おやすみ、ルシェラ」
──おやすみなさい──
 ルシェラの手が弄り、リファスの手を握る。
 誰かと寝床を共にして、ただ並んで眠る。
 何も起こらない。ただ、眠るだけ。
 物足りないより何より、それだけの事がたまらなく嬉しい。
──貴方が心配で、一緒に眠りたいと思いましたのに……──
 例えようもない安堵と幸福に包まれているのは自分だ。
 リファスの腕を抱き込む様に、リファスに少し近づく様に寝返りを打つ。
 いい夢を見られそうだった。


作 水鏡透瀏

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