耳慣れた鳥の鳴き声が爽やかな寝起きを演出してくれる。
 身体が覚えている時間通りに目が覚める様に訓練されている。
 だが、その爽やかさの中にいつもと違う気配を感じて目を開けた。
「っっ……!…………」
 驚きに上げかけた声を飲み込む。
 朝の光が柔らかく窓辺から注いでいる。季節に合わせ手薄での窓掛けが掛けられ寝台にまで光は届かないが、それでも部屋はすっかり明るい。
 美しい顔が間近に迫っていた。
 そこで漸く片腕が痺れている事に気が付く。
 ルシェラの頭が肩口に乗せられ、腕を抱き込まれていた。一晩そうだったのだろう。
 幸せそうな寝顔だった。
 瞳の印象が薄らぐと、余計に人形めいて見える。薄紅く頬に差した色味が、今朝の体調を物語っている。
 ルシェラの体温が今の季節には少し暑い。
 汗ばんでいる身体を感じながらも、ルシェラを起こせはしない。
 ただその美しい顔容に魅入りながらルシェラが起きるのを待つ。

 ルシェラの顔を見ているだけで、心が温かいもので満ち溢れ、口元には笑みが抑えられなくなる。
 ただひたすらに愛おしい。
 ルシェラがずっとこんなにも穏やかで幸福そうにしてくれるなら、他に何も望むものはない。
 側にいたい。側にいて欲しい。その為になら、どんな事だって出来る気がした。
 救われているのは自分なのだ。
 ルシェラを救うつもりでいながら、その存在に自分の心が助けられている。強くなれる。
 リファスが拒絶したいものはたくさんあった。だが、ルシェラの為になら、それらの事も堪えられる。
 昨夜のような醜態は、これ以上晒せない。
 強く、誓う。

 そのうちに、穏やかで規則正しい呼吸が僅かに乱れた。
「ん……」
 起こしたかと恐る恐る様子を伺うが、そうではないらしい。
 更に腕を抱き込もうとしてリファスの方へと更に転がるが、身体に当たってまた元へところり、戻っていく。
 仕草が幼い。
 戻って行くついでにリファスも引き摺られた。
 ルシェラは非力な様でいながら、体調が悪い時以外の腕力はともすればリファスを凌ぎそうだ。
 起こしたくない気持ちも相成って、素直に引っ張られてしまう。
「ぅ、ぁ……」
 ごくり、と自分が唾液を呑む音が不愉快な程大きく聞こえた気がした。
 ルシェラの呼吸が鼻先や唇に触れている。
 顔が近すぎる。
 頬に上る熱を抑える術など分からなかった。
 離れようにも抱かれた腕を引き離せない。
 自分の吐気を当てるのも申し訳ない気がして、顔をあらぬ方向へと逸らせる。無理な体勢だったもので、首が音を立てた。
 睡眠で疲れを取るより、寝起きから大変な気配だ。

「ルシェラ……」
 流石にこのままでもいられない。
 小さく声を掛けてみる。
 ルシェラは身動ぎもしない。
「……ルシェラ、そろそろ…………」
 起きてくれない。
 リファスは心底困って軽く腕を引こうとした。
 しかし、ルシェラの力が強い。藻掻く。
「ん……ぅ…………」
 リファスの動きが気に入らなかったのだろう。ルシェラが寝返りを打つ。
「うわっ」
 引く力に負けて……信じられない事だが、完全に負けて、ルシェラの上を転がって反対側へと落ちる。
 暫く呆然として、リファスは動けなかった。
 甘く見ていた。
「…………ぅ……ぅん…………」
 長い睫毛が震える。
 ゆっくりと開かれる瞳にも、リファスはまだ自分が振り回された事について取り戻せていなかった。
──……リファス殿?──
 寝起きの為か、何処か伝えられる声がぼんやりとしている。
 それが例えようもなく艶めかしく、リファスは再び全身を紅く染めた。
「お…………おはよ…………」
 聞き苦しく声がひっくり返る。
──おはようございます──
 僅かに目を眇めてリファスの顔を確認したのか、ルシェラの顔に笑みが広がる。

 小作りな顔がリファスの頬に擦り寄る。
──目が覚めて、一番に目にするものが貴方のお顔だと言う事が、今日一日のわたくしの幸福を表しているかの様……──
「体調はいいみたいだな」
 やっと本調子を取り戻せる。
 頬に伝わるルシェラの体温は温かいが熱過ぎはしない。
──貴方と共に夜を過ごしましたのに、わたくしに何の変わりがございますでしょう──
「……朝ご飯、用意するからさ。……腕、離せるか?」
──ぁ…………申し訳ありません。一晩この様に……貴方の自由を奪っていたのですね。……本当に……申し訳のない事を……──
「いいんだ。お前がそうしていたいんなら。でももう朝だし、そろそろ起きなくちゃな」
──はい……──
 名残惜しげに、ゆるゆるとルシェラの腕が離れる。
 そのルシェラの額に掛かった髪を払ってやり、恭しくその額に軽い口付けを落とす。
「ちょっと待ってて。お前のはここに運んでやるから」
──昨晩の様に、わたくしもご一緒してはいけませんか?──
 離したばかりの腕に触れる。
 上目遣いに見詰められ、リファスは跳ねる鼓動を抑え切れない。
「いっ……いいよ。じゃあ、起きて、着替えようか?」
──はいっ──

 ルシェラは自分ではまともに着替えが出来ない。時間を掛ければ何とかならなくもないが、釦を一つ掛けるにも時間が掛かり、紐の類に至っては壊滅的だ。
 型や色の選び方にも大変に問題があり、美的な感覚も皆無と言って過言ではない。
 勝手に用意されたものを手足を伸ばしているだけで身に纏えた、その育ちが問題だったのだろうが、それだけではなくルシェラには元々その素養がない様にも思える。
 身綺麗に清潔にするという考えはあっても、着飾るだとか、自分をより良く見せるという発想を全く持ち合わせていない。
 それでも、リファスは少しばかり厳しく、出来る事はどれだけ時間が掛かろうが納得のいく状態になるまで根気よく付き合った。
 そのうちに、階下からか、朝食の美味しそうな匂いが漂ってくる。
「あ……母さんが作ってくれたかな」
──わたくしの為に……申し訳ありません──
「いいんだよ。先に台所に行った人間が作るって決まりになってるんだから」
──ですが……──
「悩むんなら、釦に集中しろって」
──はい……──
 美しく気品と威厳のある姿故に、基本的にどの様な姿でいてもそれが礼服で出もある様な印象を与えはするが、それとこれとは話が別だ。
 せめて、常識と釦を掛ける程度の器用さを身につけて欲しい……というのは、リファスの老婆心だろうか。
 一つの大きめの釦を掛けるのに三分程の時間を要して、ルシェラはリファスを見詰めた。
──……お腹が空きましたね──
 実のところは、起きたばかりでまだ食欲などない。
 だが、起床時のリファスを見た瞬間に充填された気力は何処へやら、既に今ひとつやる気も失せている。
「お前からそう言う言葉が聞けるなんてな。………………仕方ないなぁ。一つ出来たもんな」
 ルシェラがこの訓練に飽きた事を感じてリファスは仕方なく残りの釦を掛けてやった。
「冷めちまってるかもな。行こう」
──はい──

「遅かったな」
 サディアは既に食後のお茶に入っている。
「おはよう、ルシェラ」
──おはようございます、サディア──
「リファスも、おはよう」
「おはようございます」
 ルシェラを食卓に着かせ、リファスは食事を取りに台所へと向かう。
「どうだった、リファスは」
──どう、と申されましても……──
 澄ました、しかし少しばかり下世話な視線を向けられるが、ルシェラ小さく首を傾けた。
 サディアが何を聞きたいのか分からない。
「閨を共にしたのでないのか?」
──大変よく眠れました。リファス殿のお側で眠ると言うだけで……大変に心安らいで、心地よく思います──
「…………そうか」
 素なのはよく分かっている。
 軽く呆れながらも諦める。
 だが、少々不安でもあった。サディアは、ルシェラについての殆どを知っている。
 人の生気なくしてどれ程安楽に暮らしていけるものか……リファスと出会い、共に過ごしているならば当然毎夜の励みもあろうと思っていた。
 昨日の話で身体の繋がりを持った事を知って安堵していたが、そこまで親しくもしていないのだと知ると心配にもなる。
 ルシェラが求めるものはリファスのみ。そのこれまでの記憶がサディアには生々しいというのに、当人達にとっては全く覚えのないものなのだ。
 直ぐに戻って来たリファスが手際よくルシェラの食事を並べて行くのを眺めながら、サディアは茶に口を付ける。

「私は数日で戻らねばならん。お祖父様へのご報告もあるし、お前を迎える準備もある。……今日はどうするのだ?」
「今日は……晴れてるな……。日が陰るまで、外に出ない方がいいか」
「そうでもないかもしれないわよ」
 台所仕事を半ば終えたエリーゼが顔を覗かせる。
「馬車があるわ。乗り降りに気を遣えば、少し出るくらいの事は出来るんじゃないかしら」
──馬がいるのですか?──
 小さく千切った麪包を口に運んでいたルシェラの面に喜色が走る。
「馬が好きなのか?」
──大きくて優しい生き物でございましょう? 一度だけ、垣間見ました。触れる事も、近づく事も出来ませんでしたけれど──
「うちで飼ってるんじゃないんだけどな。世話の手間が掛かるし、人を雇える程の家でもないし。必要な時だけ借りてくるんだ」
「馬車か……いいかもしれないな。乗り物の中なら私達の力で守る事もできようし、まず街を見てみるのも良いだろう」
 サディアの肯定を受け、ルシェラは嬉しげに繰り返し頷いた。
 その頭を撫で、リファスも了解に頷く。
「朝飯が済んだら、馬と馭者を借りてくるよ」
「馬車自体はこちらに?」
「ええ。片付けてございますわ。職業柄、その辺りは用意しておりますので。ルシェラ殿下が中で横になれる様な作りのものもございますわ」
「それは助かる。案内してくれ。結界を施しておきたい」
「畏まりました」
──お任せ致します──
 茹でた野菜を裏ごしして作った汁物に口を付け、ルシェラは微笑んだ。

 用意を調え、ルシェラは壁に縋りつつも玄関に立っていた。
 リファスが外へ出る為にと用意した上着や手袋や帽子などは、気を遣ってくれている事は分かるが、ひどく窮屈で暑い。
 昨日の昼間と同じ様だ。
 辟易して首を取り巻く薄紗を掻き分けて息を吐く。
──あの……ここまでして頂かなくても……──
「晴れてるんだから……また爛れたら大変だろ。爛れるだけならまだしも、錯乱するし」
──貴方やサディアが手を握っていて下さればきっと大丈夫です──
「出来るだけの事をしておくに越したことないだろ」
 リファスは取り合わず、玄関の扉を少し透かせて外を見る。
「リファスの思う様にしてやれ」
 苦笑しながらルシェラの肩に手を置く。
 ルシェラはサディアを見て、小さく頬を膨らませた。
 リファスやサディアの言う事も分かるし、昨日の陽の光が自身に及ぼした影響について忘れたわけでもない。
 ただ、もう少し薄手のもので身体を覆っても良いのではないかと思う。
 少しばかり面白くなくむくれていると、外の様子を伺っていたリファスが、扉を大きく開けて掛け出て行く。
「来た様だな」
──近くで、馬を見られますでしょうか──
 東に向いた玄関は今まだ、時間的にルシェラが考えもなく顔を出せる日照状況ではない。
「どうだろうな……手袋は外せないだろうが」
──近くに行ってみたいのです。人以外の生き物の側には、近寄ったことがないものですから──
「……今は馬に馬車を取り付けているところだ。邪魔も出来まい。後ほど時間を貰ったのでよいか?」
──はい……──
 光の入らないところまで玄関先に出る。

 四頭の馬を、少年二人が馬車に取り付けていた。
 一人はリファス、もう一人見慣れない者がいるのは、馬と共に頼まれた馭者だろう。
 リファスと同輩ほどに見える……という事は、ルシェラやサディアともそう変わりはせまい。
 取り付けが終わると、リファスに連れられて二人の前に来る。
「友人のジェイです。馬屋の息子。ジェイ、こちらは、」
「ウルガと申します」
 リファスの紹介を遮るその声が何処から出たのか、思わずリファスとルシェラはサディアの顔を凝視した。
 サディア・ウルガ・ファナーナ・レイディエント・アルフェイト・ラーセルム。
 ウルガも、サディアの持つ家の名や称号も含めた名の一部ならば、嘘は吐いていない。
 名乗るには、サディアの名は余りに不都合だ。
 ただ、声音がひどく優しく柔らかい。微笑みさえ浮かべている。
 ジェイと紹介された少年は至って普通の顔立ちと体格と雰囲気で、目を白黒させながら深く頭を下げる。
 これ程の美少女を見たのが初めてなら、声を掛けられたのも初めてだ。
「本日は馬のお世話をお願いできるとか。この街には不案内なものですから、大変嬉しく思いますわ」
 誰が喋っているのだろう。サディアの女言葉など初めて聞く。
「もう出られますかしら?」
「は、はいっっ!!」
「では、お願い致しますわ」
 手が差し出される。
 ジェイは困ってリファスを伺った。
 リファスはサディアの様子が信じられず、はっきりしない反応しか返せない。
 サディアは優雅な角度で小さく首を傾け、手を差し伸べたまま微笑む。
「お連れ頂けませんの?」
「い、いいえ!! どうぞっ」
 手を取り、礼儀もなく引っ張る。そもそも、市井のただの商人の息子に、それ程の教養はない。
 サディアは素直に引っ張られながら、リファスに向けて小さく顎を杓ってみせる。
 そこで漸くサディアの意図に気づき、リファスはルシェラの側に寄って手袋をした手を取った。
「行こうか」
──はい──
 サディアとは反対側の扉を開け、ルシェラを乗せる。その隣にリファス自身も乗り込んだ。
 四輪で向かい合わせて二人ずつ座れる綿の入った長椅子が設えられている。
 幌は着脱が出来たが、今はしっかりと掛けてあった。両側のガラスの窓にも、薄手の窓掛けが掛かっている。
 長椅子はすこしばかり動く様に作られており、いざとなればルシェラが横になる程の長さになるし身体を固定する平紐が付けられていた。
 車内は乗り込んでみれば案外に広く、ゆったりとしている。
「ジェイ、頼むぜ」
 馭者席に繋がる小窓を開けて声を掛ける。
 元気の良さそうな顔が覗いた。
「はいよ」
「静かにやってくれよ」
「分かってるって」
 馬はゆっくりと進み始めた。


作 水鏡透瀏

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