「駄目、だ、ルシェラ……」
貪る様にリファスの全身へと口づけを繰り返すルシェラに反し、リファスは昂ぶる事が出来ないでいた。
しかし、存外にルシェラの力は強く、無理に出なければ引き離せそうにもない。
乱暴にしたくはなく、リファスはただ言葉で諭そうと試みた。
「そんなに苦しそうに息してるのに……」
ルシェラの呼吸は酷く荒く、しかし弱々しく、時折詰まる。それでも、ルシェラは必死で行為を続けていた。
――助けて…………助けて……ぇ……――
リファスの股間へと己の腰を擦り付けながら、ルシェラはリファスを昂ぶらせようと無意識の行為を繰り返す。
「…………ルシェラ……」
ルシェラが尽くそうとすればする程、リファスの気分は冷めていく。
何がルシェラをこうさせているのか……考えるだけで気分が悪くなった。
「いかせて」。
その懇願が口を突くまでに、ルシェラはどんな躾を施されてきたというのか。
許して、助けて、いかせて……。
ただの自慰だ。誰に許しを請い、助けを願わねばならないというのだろう。
そうルシェラを躾けたものに対し、強い憤りを感じる。胸糞が悪くなる、というのはまさしくこの場合を指す言葉だろう。
美しい顔が苦しみに歪んでいる。
歪ませているのは何者なのか。ルシェラをこうまで苦しませているのは……。
「ルシェラ……駄目だよ。苦しむのが分かってるのに、俺には出来ない……」
「ぁ……はっ……ん……」
ルシェラの両頬を手で包み、僅かに反らせる。
涙と汗で濡れた顔が物欲しげにリファスを見詰める。
手と服の端でそれを拭ってやりながら、リファスはルシェラと額を合わせる様に顔を近づけた。
「……早く寝るんだ。それがいいよ……」
ルシェラは舌をリファスの唇に這わせた。
しかし、リファスは顔を引き、ルシェラの耳元へと移った。
「寝るんだ。いい子だから……」
低く、優しく囁く。
その甘く僅かな刺激にも、ルシェラの身体は素直に反応を返した。
けれど、背を優しく撫で擦り窘め続ける。
抱ける筈などない。
その行為こそが、ルシェラの心にとって……そして、リファスの心にとっても、大きな枷となっているのだ。
「…………今の……俺には…………助けてあげられない…………ごめんな……」
繰り返し背や髪を撫で続ける。
――何でも……致しますから……っ……だから……!――
「何をして貰ったって一緒だ。寝られないなら……寝かせてやるから……」
耳朶に唇を押し当てる様にしながら、リファスは静かに口を開いた。
「月の光の 夜語りは
幾星霜経とうとも
変わらぬ優しい物語
聖なる光の注ぐ夜 神の御胸に抱かれつつ
聞くは安らぎ 宵語り
愛なきや 恋なきや
求むるものは 暖かみ
陽に雲かけて 宵闇求め
今日はいずこへ 彷徨うか」
声に魔力を乗せ、囁く様に歌う。
催眠作用を持つ伝承歌の一つだ。
ルシェラの耳の奥へ、一音一音を注ぎ込む。
瞳が、瞬時に揺らぎ始めた。
「…………おやすみ、ルシェラ……」
ルシェラは眠気を振り払う様に首を振った。
「寝なさい」
リファスに縋る手が爪を立てる。
抵抗力が高い。
「ルシェラ。月の光がお前を守ってくれる。だから……眠っていいんだよ」
とろりと緩んだ目がリファスの様子を伺っている。
「眠っている間に、きっと……楽になるから。だから、抵抗しないで……」
優しく髪を撫で、汗と涙でどろどろになった額に、頬に、口付ける。
「いい夢が見られます様に」
ゆっくりと、更に力を込めて囁く。
かくり、とルシェラの頭が仰け反った。
力なく、リファスの上に倒れる。
眠りに落ちていた。穏やかな寝息が聞こえ始める。
やっと眠ってくれた。
リファスの歌にこれ程の抵抗を見せたものは初めてだった。さすがは国守というべきなのだろう。
そっと抱き上げて寝台の上へ戻す。そっと掛け布を掛けてやり、もう一度額に唇を落とした。
滑らかな筈が、べたべたと張り付く感触がした。
部屋を出、洗面所へ行って布とぬるま湯を張った桶を用意する。
ああも汗にまみれていたなら顔や身体を拭ってやった方がよいだろう。
そして、無理に声を出し続けていた様だったから、何か飲み物も必要だろう。
桶を持って台所へ行く。
「あ……あれ、エル姉、どうして」
寝間着の上に軽く防寒着を羽織った姉が、台所においてある椅子に座って湯飲みを手にしていた。
「リファス……まだ起きてたのね」
「うん……ルシェラが呼んだ気がして」
「様子は?」
「……今は、眠らせた」
「そう……」
湯飲みの中には何か温かい飲み物が入っているらしく、ちびりちびりと口をつけている。
「何?」
「内緒」
「……また父さんの酒瓶に手をつけたんだろ」
「あんた程じゃないわ。それに、これはただのお茶…………にちょっと落としただけよ」
凄みのある視線でリファスをちろりと見遣る。
美しく信奉者も多い筈のこの姉に恋人の一人も出来たことのない理由が、何となく分かる気がした。
「…………で、何で起きてんだよ、姉貴も」
「……どうしようかと思って」
「何が」
「…………まだルシェラ様は動ける状態ではないのでしょう?」
「ああ。……それが?」
勿体ぶった言い回しが気になる。
エルフェスは側のもう一つの椅子を引き、リファスに座るよう促した。
少しの時間ならあるだろう。
リファスは促されるままに従って椅子に腰掛ける。
「サディア殿下の居所が分かったの……と言うか、公然の秘密で、下々のものと他国の人間が知らないだけって状態だけだったみたいなんだけど」
「ホントか!?」
「ええ。でも……問題は、私達じゃとてもじゃないけどお会いできるわけがないって事よね、と思って……」
「何処なんだ」
額を突き合わせ、自然に声が小さくなる。
「殿下のお祖父様に当たられる、レイナーハ候爵の所に身を寄せていらっしゃるらしいわ。直接確認なんて出来てやしないけど」
「下々のエル姉が、よく教えて貰えたな」
「世界でも屈指の巫女なのよ、私。下々じゃないの」
自慢する風でもなくさらりと言ってのける。真実なので、呆れはしても口を挟む事は出来ない。
「どうすればいいかしらね」
「明日、ルシェラが落ち着いてたら……相談してみる」
「お答えになられそうなの?」
「……無理、かな…………」
苦しみに歪む顔を思い出し、釣られる様にリファスの顔も歪む。
容姿にも出自にも雰囲気にすら合わない卑小な言動だった。
一刻も早く助けてやりたい。
しかし、その、王女サディアと会うことで、ルシェラの何がどう変わるのか……想像もつかない。
それより、変化のない穏やかな日々でルシェラの心を気長に癒してやる事の方が先決だと思った。
「…………なぁ、助けを呼びたい時って……どんな時だ?」
「……何の話? 自分では解決できない問題が起こった時じゃないの、普通は」
「だよな……」
ルシェラの悲痛な叫びがまだ耳から離れない。
リファスは頭を抱え俯いた。
ただ守りたい、それだけなのに……それさえも全く侭ならない。
ルシェラさえ幸せなら……ただそれだけで構わないのに。
「…………エル姉……。巫女として、話を聞いてくれないか」
「巫女として……? それは、守秘義務を守れって事?」
「……それだけじゃない。空の神殿の巫女として、聞いて欲しい……」
「空の神殿は愛の宮。恋愛を主に司ってるの。分かってるわよね?」
「ああ……」
「あんた…………まさか……」
リファスの苦痛に満ちた声に、エルフェスは姿勢を正した。
「恋だとも、愛だとも分からない……。ただ、苦しいんだ…………」
縋る様な視線を姉に向ける。
潤んだ黒い瞳は子犬の様だ。
「空の神は自由を好む。心が自由にならない恋愛はするべきではないし、心が自由の翼を持てるなら、相手がどうであれ問題はない。それが神殿の教えよ」
「……うん……。いや、俺の事はいいんだ。この感情がどんなものであっても、ルシェラに伝えるつもりもないし……恋愛とかそういうのじゃなくたって、結局、人をどれだけ想うかって話だろ。だから、巫女として聞いて欲しいって言ってるんだけど」
浮かんでいた透明な涙が一筋流れ落ちる。
黒目がちの大きな瞳が赤く染まっていた。
「……仕方ないわね。聞いてあげる。まぁ……あんただから、タダでいいわ。明日の朝ごはんを一品増やしてくれたら」
エルフェスの気遣いに、リファスは小さく苦笑して頷いた。
「……了解」
「で?」
リファスは桶を台に置き、涙を湛えてはいるものの真っ直ぐにエルフェスを見た。
「ルシェラを幸せにしたい。ルシェラは幸せになるべきなんだ」
「そうね。誰だって、幸せになるべきなのよ。人の幸せを侵さない程度にね」
「それは……俺の手に適う事なのか分からない。でも……幸せになって欲しい。何の非もないのに人に縋って、許しを請い続けるなんて……幸せだとは思えない。ルシェラの許してって声を聞いてるだけで……俺、辛くて……ルシェラを殺して、俺も死にたくなる」
「穏やかじゃないわね」
「申し訳ありません、ごめんなさい、お許しください、そうやって、ずっと……叫び続けるんだ。触れている間中、ずっと……ずっと…………」
頭を振っても振り払えない。
身を切り裂く様な、悲痛な叫びだ。
「俺には、その叫びを受け止めてやれない。それが、何より辛い……」
「あんたが許したのでは駄目なのね……」
「俺には……動けなかった……ルシェラが望む様には……どうしても」
「何を、望まれているの?」
「…………言えない……」
縋る手。許しを請う瞳。悲鳴。荒い息。
全てが思い出され、リファスは拳を握り締めた。
「言えない……」
掌にじんとした痛みが走る。強く握り過ぎて爪が食い込んだらしい。剣を持つには邪魔になるが、シータを爪弾く際に必要なもので、少しばかり長くしてある。
「……言えないのなら聞かない。だけど……そんな様でルシェラ様を受け止めて差し上げられるの?」
リファスは力いっぱいに首を横に振った。
そんな事は言われるまでもなく分かっているつもりだ。
「俺にとっても……ルシェラにとっても、望ましい事だとは、どうしても思えないから……例え、ルシェラが望んでも、俺には出来ない……」
「望ましくはない事、なのね……」
「……こんな場合じゃなければ、それから、俺がそれに対して思うところがなければ、受け入れたかもしれないけど…………今の俺には到底考えられない……」
「……何となく、分かったわ。そういう、こと?」
エルフェスは弟の過去を思い、出来るだけ軽く尋ねた。
リファスは僅かに逡巡した後、頷く。
「ルシェラ様って……男性、よね?」
「心が自由の翼を持てるなら相手は関係ないって……姉貴が言ったばかりじゃないか」
「そうね……うん。そうだけど……」
エルフェスは形のよい眉を僅かに顰めている。
それを見て、リファスの表情も曇った。
「身内のことだと受け入れられない?」
「そうじゃないわ。ちょっと……そうね。驚いたの。あんたがまさか、男性を愛せるなんて、思わなかったから」
過去の事から男を怖がっていた。
確かにルシェラは男らしさには欠けるし、その美貌は少女とも見まごう程だが、それでも男であることに変わりはない筈だ。
「性別なんて全然考えた事ない。ただ、ルシェラを守りたい。幸せにしたい。それだけで、他の事なんて……何も……」
「それでいいのよ。恋に落ちたら他の事なんて何にも考えられなくなるものだもの。雑念がないのは純粋な証」
「たった三週間一緒にいただけ……そう言うかも知れないけど、時間も関係ないんだ。触れた瞬間から、身体がルシェラを知ってる気がした。触れた手も、抱き締めた腕も、ルシェラを知ってた……そう思った。母さんには、美貌に惑わされてるだけだって言われたけど……それだけじゃないって断言できる。だって、やっと、また巡り会えたんだ。運命の神が、俺達を引き合わせてくれた。俺はきっとルシェラを知ってる。大使が言ってた過去の俺って……本当に俺の過去なのかもしれない。その気になってるだけじゃないって……そう思う」
大粒の涙を零しながら、それでもリファスは必死に訴えていた。
ルシェラが大切でどうしようもない。
やっと、また、巡り会えた。
前世の話など知る由もなくとも、それが嘘やまやかしでない事だけは切に感じる。
大使の話を聞いてから惑わされたのではない。
大使の話を、リファスはもとより知っていた。それを思い出したのだ。
「いいのよ。あんたが運命を感じたと言うなら、それは確かに運命なのだから」
「…………ルシェラがどう思ってるかは分からないけどな。知りたいとは思わないし……」
「どうして? ルシェラ様も満更ではない様に思うんだけど」
リファスは泣き顔のまま、やっとの思いで微笑んだ。
「苦しめたくないんだ。俺の想いはきっと、ルシェラにとって直ぐに受け入れられるものじゃない。それなら……ルシェラの最期の時まで、何も言わずに側にい続ける方がいい。今以上に関係が壊れていくのなんて……我慢できない」
壊れるくらいなら、隠し通した方がいい。側にいられるだけで自分は幸せなのだ。ルシェラが、笑ってくれるならそれだけでよいのだ。
ルシェラを困らせたり苦しめたりするのは本意ではない。
「ルシェラ様は……あんたに、あんたを望んだんでしょう? 嫌な相手になんて、抑えの効かない衝動に駆られていたって縋ったりしないわ。まして身を預けようなんて、出来る筈ない。望ましくない行為なら尚更……あんたに縋ったって事は、ルシェラ様もご存じないわけではないのだろうし……あんたと同じ様な経験があるなら、余計に……違う?」
口に出すのは憚られる。
エルフェスとて妙齢の女性である。
「………………うん……。ルシェラは、俺よりよっぽど酷い目に遭って来てる。そのルシェラが、それでも俺に縋ってくれた……」
「あたしがそれとなく聞いてみてあげるわ。体調がよくていらっしゃる時にでも、引き合わせて頂戴」
「……いや、いいよ。だから…………壊したくないんだって……」
リファスは臆病そうに首を竦め、力なく微笑んだ。
エルフェスは思わず手を伸ばし、弟の頭をそっと撫でた。
続
作 水鏡透瀏
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