病室に寝かせた少年の乱れた髪を軽く結ってやり、汚れた顔を濡らした布で拭ってやる。
 そうして、リファスは思わず息を飲んだ。

 こんな美しい人間が存在する事が、奇跡に思える。
 閉ざされた目を縁取る睫は長く、青冷めた頬に陰翳を落としていた。
 形の良い唇も色を失い、潤いもなく乾いている。
 何時か物の本で見た神殿彫刻の聖女に、似ているともなく似ていた。
 男である事は先に着替えさせた時に理解はしているものの、顔を見ていると確かめ足りない気分になる。

 時折その美しい顔が苦痛に歪む。
 夢でも見ているのか、何かを言う様に唇が動く。
 けれども、呻き声の様なもの以外、発せられる事はなかった。

「あんた、一体何なんだよ……」
 大体、人が空から振ってくる事自体がおかしい。
 転移の魔法の失敗などならあり得なくもないが、こんな身体で魔法を使おうと言う事が不自然だ。
 魔力は体調や精神と深い関わりを持つ。
 身体を悪くしている状態で使っては、命取りにもなりかねない。
 まして、生体転移の魔法は、数ある魔法の中でもかなりの上位に位置し、健康であっても老人または幼少の者が使う事は魔道士協会が発行している仕様書の中でも特に禁止されている程だ。

 何かから逃れてきた。
 この仮定が、リファスの中では一番しっくりくる。
 警戒心が強い事や、身体の無理を押してまで接触に過剰な反応を示す事、転移の魔法を使ったであろう事。
 何か、重い事件にでも巻き込まれている……と考えるのは、リファスが探偵小説などの読み過ぎという訳でもない。

 ラーセルム剣士協会 階級 剣聖。
 ラーセルム吟遊詩人同盟 階級 神手。
 この国内最高位の二つの肩書きが、揃ってリファスのものだ。
 剣士の仕事は、主に警護や有事の傭兵業など、言うに及ばないし、吟遊詩人も、歌って奏でるだけではない。
 音に魔力を乗せ、魔道士が齎す以上の魔法的、又は神聖な力を発揮する特殊な職業だ。

 ラーセルム国内、ひいては世界でも有数の教育機関、ラーセルム王立学院を、リファスは十二の歳に卒業していた。
 通常八歳で入学、十八で終業するところを、六歳で入学、十二で終業、とは、前例のない話だった。
 今は実家でのうのうとしているものの、十四という歳にして、国内でそれなりの名も博している。
 無論、有事の際に駆り出され事も、何度かある。
 勘などを持ち出せる程の経験はまだないが、それを補う天与の才と知識に恵まれていた。

 まだ浅いながら、傷付き苦しむ人々を幾人も見た。
 彼からは、それと同じ空気を感じる。

 じっと顔を見詰め、考えに耽る。
 見飽きる顔立ちではない。
 美人は三日見れば飽きるとも言うが、ただの美人の域を遙か彼方に逸脱していれば、むしろいつまで経っても慣れる事が出来はないものなのかも知れなぃ。
 まだ数刻しか経ってはいないので仕方のない事でもあろうが、気を抜くと、つい見入ってしまう。

 その長い睫が、微かに震えた。

 ゆっくりと瞳が開かれる。
 ただ光のない瞳でぼんやりと天上を見ている。
 傍らのリファスに気付く事はない。
 ただ、身体が、再び震え始めた。
 表情は全く変わらない。
 それでも、リファスは直感的にこの震えを怯えだと感じていた。
 出来るだけ警戒心を抱かせてはならない。にっこりと微笑みながら話しかける。

「参ったな……。俺はリファス。歳は十四。剣士だ」
 手を差し出してみる。
 やはり、反応はない。
 大きな緑玉色の瞳がじっと天井を見詰めている。
 吸い込まれそうな瞳だった。
 深く、虚ろで…底が澱んでいる様に見える。

「あ、」
 リファスに反応したわけではなかろうが、初めて動く。
 唇が戦慄き何かを呟いた様だった。しかし、音になっていない。
 口を開閉させ……噎せ始める。
「声、出ないのか」
 おそらくはそう言う事なのだろう。
 この様子では本当に聞こえてもいないのかも知れない。
 そして……目も。
 目の前で手を振ってみるが、全く反応がなかった。
「ごめん……無理させて……」
 真面に動く事もままならない身体の上に、目も耳も、口さえも使う事が出来ないのだ。
 恐る恐ると言った風情に、リファスはその手を取った。
 ゆっくりと握り締めてやる。
 今度は、逃げなかった。

「名前くらい……知りたいんだけどな……」
 美しく……ただ美しく……。
 人形の様だった。
 体温がなければ、素直にそう信じていただろう。
 何処かの国には、人そっくりの人形を作る職人がいるとも聞く。ただ、動きはしないらしいが。

 躊躇いながらも、その頬に触れる。
 滑らかで手に吸い付く様だった。
 何処までも優しく、そっと……。
 僅かに、顔が綻んだ様に見えた。
「……うわぁ…………」

 本当に美しい。
 虚ろな表情が一瞬にして色を刷き華やいだ。
 それはほんの僅かな表情の変化に過ぎなかったが、リファスの鼓動は跳ね上がった。
 ただ……何かが記憶の片隅に何かが引っかかった気がする。
 しかし、気がしただけで、リファスは直ぐにその事を忘れた。

「心臓に悪いな、あんた……」
 表情が変わった事に続き、視線が宙を彷徨い始める。
「……目が……」
 リファスは慌てて、もう一度目前で手を振ってみた。
 今度は、視線がそれを追い始める。
「見える、のか……?」
 握った手が熱い。
 気付けば、微かに握り返されているのが分かる。
「……よかった…………」
 変化の理由は分からないが、ともかく、改善傾向にある事は分かる。
「耳はどうかな……俺の声、聞こえますか?」
 ……それには、反応がない。
「やっぱ、一気に解決ってのは無理か」

 それでも、僅かに意思の戻った瞳を見るだけで自分の行いの正しさを確信できる。
 広原に行き会わせて良かった。
 直ぐに医者に見せてやれて良かった。
 素直に喜べる。

 リファスは手を放し、側にあった用紙にさらさらと自分の名前と名前を問う文章を記した。
 それを目前に翳してみる。
 不思議そうに小さく首が傾げられ、目が眇められた。
 暫くそうしていたが、次第に諦めの色が滲む。
「見えないのか、読めないのか……どっちだろ」
 紙をもっと顔に近付けてみる。
 小さく、首が横に振られた様な気がした。
「?」
 手を、今度は佳人の方から握ってくる。
 顔に、喜色が走った。
 その余りの美しさに、時が止まる。
 僅かな表情の変化、その全てが、彼を彩る様だった。
「読める?」
 頷きが返る。
 そして、はっとした様に、リファスを向いた。
「…………聞こえた?」
 尋ねてみると、何度も頷きが返る。
 瞳から、わっと涙が溢れ出した。

 手が、強くリファスの手を握り締めていた。
 骨が軋む程に強く……けれど、リファスにはとても振り払えなかった。
 リファスの何が影響を及ぼしたのかは分からない。ただ、彼の何かを解放したのだと言う事は分かる。
 リファスは佳人を抱き締めた。
 腕の中の存在は、ひどくしっくりくる。不思議な程だった。
 ずっと前から知っていた気がする、とは、女性を口説く時の常套句だろうとは思うが、しかし、そうとしか言い表せそうにない。

「良かったな……」
 何度も何度も頷きが返る。
 見た目の年よりずっと幼い仕草で、少年は泣き続けた。
 リファスはただ頭や背を撫で、あやしつける。

 どれ程経っただろうか。
 漸く少年の涙が落ち着いてくる。
 自分の状況に気が付いたらしくリファスから手を離し、その手を庇う様に胸に押し付けた。
 途端に、顔から生気が失せ、怯えの色が滲む。
 リファスは少年の手を取り返した。
 表情は、面白い様に変化を見せる。
「俺が手を握ってる間だけ、目も耳もちゃんと使い物になるのかな?」
 推測してみる。
 僅かな逡巡の後、微かな頷きが返ってきた。
 もう、目を合わせはしない。
「じゃあ、寝るとき以外はずっと手を握って手やるよ」
 思い切り首を横に振られる。
「でも、手を放したら……目も見えなくて、耳も聞こえなくなっちゃうんだろ? 真っ暗で、静かな世界……は、好きじゃないみたいに見えるけど」
 涙に濡れた瞳で、少年はリファスを睨んだ。紅く染まった目元では迫力もない。

「俺があんたの世界になってやるよ」

 ぱっと、リファスの手が振り払われた。
 少年は身を竦ませ、再び震え始める。
 驚き、一瞬リファスも固まる。
 何か悪い事でも言っただろうか。
 リファスはただ思った事を口にしただけだった。何がいけなかったのかが分からず戸惑う。
 振り払われた手を、慎重にもう一度触れ合わせる。
 少年は震えたままリファスの方を向こうとはしない。
「……ごめん。俺……不用意過ぎた?」
 きっと大きな事を言い過ぎたのだろう。そう判断して謝る。
 ただ、首を横に振る事で応じられる。
「…………あんたの世界に、俺は必要ない?」
 力になりたいと思う。その言葉に偽りはない。
「あんたの力にはなれないか?」

 言葉が発せられなくても、手を触れ合わせていると何となくこの少年の心が伝わってくる。
 負の感情、だった。
 リファスに向けられたものではなく、自身と……世界に向けられた。
 憎んでいると言う程強くはなくても、悲しい……寂しい感情だ。
 職業の故か感受性の強いリファスは人より多少強い感応力を持ってはいたが、ここまでを感じ取れるのは初めてだった。
 この少年から溢れ出して来るのだろう。
 いてもたってもいられなくなり、リファスは少年に腕を伸ばした。

 抱き締める。
 少年は逃げようとするそぶりを見せたが、直ぐに諦め、リファスの腕に縋りついた。
 再び涙が溢れ出している。
 リファスは頬を合わせ繰り返し髪を撫で付けてやる。
「ここにはあんたを傷つける人なんていないから。俺がちゃんと追っ払ってやるから。俺、こう見えてもこの国で五本の指には入る剣の使い手なんだぜ。安心していいよ」
 よく聞こえる様に、ゆっくりと優しく耳元で囁く。
 声が僅かに魔力を帯びていた。吟遊詩人の手だ。曲が乗らなくても、声自体が力を持つ事はある。リファスは全てにおいて天賦の才に溢れていた。
 そもそもが、芸術を司る神の光臨とまで賞せられている。美声も天賦の一つだった。
「あんたが何処から来たのかなんて知らない。でも……ここは遠いところだ。違うか?」
 首が横に振られる。
「今は……今だけは…………考えなくて、大丈夫だから」
 何処までも、歌う様な響きを帯びている。
「俺を、信じて」

 少年は、肩で息を継ぎながらリファスの肩に額を押し付けた。
 弾みで、呼吸補助装置が外れる。
 リファスは慌てたが、少年は動じなかった。
 動悸が激しい。けれど、リファスから離れようとはしない。
「苦しいだろ。ちょっと顔上げて」
 それでも、顔を押し付け続ける。
「少しでいいから…………」
 出来るだけ口元に装置を近づけてやるが、一向に応じない。
 ただ甘える様にリファスに擦り寄り続ける。
「生きていたいだろ、まだ」

 肩の上下が次第に弱まってくる。
 リファスは仕方なく、力に任せて少年を引き離し、手早く装置を付け直した。
「いいよ、もう……」
 気をつけながら抱き直す。
 彼がこうしていたいのなら、自分は受け入れるまでだ。
「生きるのを諦めてるのか、あんた……」
 自分とそう歳も変わらない子供が生きる事を考えない、それがどれ程悲しい事か…………リファスはそれをしっかりと受け止める事の出来る人間だった。
「拾ってきただけの責任は持つ。あんたが充分に癒えるまで、俺があんたを守って見せるから」
 出逢ったばかりの筈だ。
 けれど、その誓いは口先だけのものではなく、本心から滲み出てきたものである事をリファスは痛切に感じていた。
 分からない。
 分からないけれど、確かに……腕の中の存在を愛しく思う、その気持ちに偽りはないと感じる。
 出会いの印象はそうよいものだった訳でもない。
 よく見れば美人だったから、などという単純なものでもない。
 いうなれば、運命の神が背を後押しした……そう受け取るのがいいのかもしれない。

 少年は再び補助を受けながら必死の呼吸を繰り返している。
 手がぎゅっと、リファスの服を掴んでいた。
 警戒心は薄らいでいる様だ。
 美貌とは非均衡な幼い仕草が、余計に庇護欲をそそる。
「名前、呼べないってのも不便だよな……あんた、名前は?」
 答えは返ってこない。
「適当に、呼んでいい?」
 微かに頷きが返った、気がした。
「……何がいいかな…………あんたに似合う、綺麗な名前がいいよな……」
 前髪を手で払って顔をじっと見詰める。

 美しい。美しい人。
 白金の髪。翠の瞳。
 額に滲む汗すら、いとおしかった。
 指先で額と顔の輪郭を辿り、軽く汗を拭う。
 やはり、こうして抱き合っている事が堪らなく心地よい。
 欠けていた何かが埋められていく。この感じを……かつて………………。

「………………ルシェラ…………」

 口をついて出る一つの名。
 無意識に、浮かんだ音を口にしただけだった。
 しかし、
「あっ、」
 途端に、腕の中の存在が弾かれた様に身体を震わせ、腕から抜け出た。
 手の一部をリファスに微かに触れ合わせて、目を見開き、リファスと見詰め合う。
 その奇妙な状態のまま、二人は暫く動けなかった。


作 水鏡透瀏

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