優しい風が窓に吹き込み、窓掛けをそっと揺らしている。
 寝台に届く程の強さではなくても、部屋の空気を様々に変えていく効果はある。
 リファスはルシェラの手を握り締めたまま微動だにせず、ただひたすらその顔を見詰めていた。
 やはり飽きない。
 そういうものではないのだ。ルシェラの美しさは、リファスには何の意味もない。
 そんなものがなくても、リファスの心に変わりはないのだ。
 断言できた。

 諭す事を諦めた母エリーゼは既に部屋を去っていた。
 優しく暖かな空気の満ちる室内が切ない。
 朝から既に昼近くになっている。日差しが僅かずつ強くなり、窓辺を明るくしていた。
 陽の光は怖い、と言っていた。
 それを思い出し、手を解いて窓を閉めに行く。

 と、離れるのを押し留める様に手が握られた。
 薄く目が開いている。
「……目が覚めたか?」
 囁く様な声音で優しく尋ねる。
 応えは返らず、けれども満足げな笑みと吐息が零れ、再び目が閉ざされる。幸せそうな顔だった。
 吊られて微笑みながら、一度は浮かせた腰を椅子に落ち着ける。
 熟睡出来る程の体力はないのだろう。リファスの些細な動きにも微睡みから引き戻されてしまうのだ。
 仕方がないと、リファスは窓掛けがこれ以上風に翻らない様に祈るに留める事にした。

 リファスも離れがたく思っているが、何よりルシェラが手を放さない。
 その事が例え様もなく嬉しい。
 細く繊細な指がリファスの手を捉えて放さない。
 放さない。離れない。
 深い誓いが脳裏をよぎる。
 何に誓うと言うのだろう。
 時が意味をなしていない。出会いは一瞬のもの。その一瞬が永遠に成り代わるのに、全く時を要しなかった。
 時も場所も関わりがない。
 二人はそれでも、必ず出会う運命にあったのだ。きっと。
 否。
 「運命」などと、生易しい言葉で片付けられない。言うなれば、絶対的な絆が存在している、その様な感覚だった。

 この人は、一体誰なのだろう。
 知っている気がする。けれど、全く記憶にはない。これ程に美しい人なら忘れようと思っても忘れられる筈もないだろうに。
 時も場所も越えて……。
 どうして、知っているのだろう。
 自分の過去に何があったのか……しかし、過去と言っても現在の自分に記憶がないという事は、前世だとか、何だとか、そういう事になるのだろうか。なら、その様な時代の事を覚えていろと言う方が無理だ。
 しかし、断片的に浮かぶ「知っている」と言う感覚が落ち着かず気持ちが悪い。

「……あんたは……誰なんだ……?」
 名前を知っていた。ただ単に頭の中に浮かんだ音の羅列。それがただの偶然ならよいのだが、次第にそうは言い切れない気分になってきている。
 この美しい人に似合う音を考えて浮かべた……本当に、それだけなのだろうか。
 口にした音には聞き覚えがある気がした。そして、やたらと口馴染みのいい音でもあった。
 ルシェラ。
 そんな名の知り合いはいない、筈だ。けれど、それすら断言しきれない。

 柔らかく微笑む様に眠っている頬に指の背を這わせる。
 男だと分かっている筈なのに、つい、そうしてしまいたくなった。
 性別すら、ルシェラの前では意味がなかった。
 そう、人形に性別が無意味であるのと同じ様に…………。
 怯え、悲しみ、苦しみ、安堵。少しばかりの表情は見せてくれたものの、まだ作り物めいている事に変わりはない。
 見せられる表情があるという事は、元々知っているものの筈だ。なら、人だった…………人形を、人に戻してあげたい。
 何処かの国の伝説に、人形に魂が生まれ、ついには人になった話があった筈だ。それよりは、きっと望みのある話に違いない。

「ぁふぅ〜〜」
 考え事もいいが、欠伸が出てくる。
 手の温かみを受けていると、次第に微睡みが訪れてくる。
 今朝は結局遂行は出来なかった頼まれごとのお陰で尋常ではなく朝が早かったのだ。こう穏やかで暖かい空気に包まれていると、上瞼と下瞼が次第に仲良くなっていく。
 動くものの気配には敏い様に訓練されているし、容態が悪化したり、彼の目が覚めて動きが出れば気がつくだろう。
 謎や分からない事だって、軽く眠れば頭の中も整ってくるかもしれない。
 手を握ったまま寝台に上体を倒す。
「ふぁぁあ……」
 やはり耐え難い。
 大きな欠伸を一つして、リファスは目を閉じた。眠りに落ちるのは早かった。


 手が、暖かい。
 知らない、分からない、温もりだった。
 優しくて心地よく、力強い。
 知らない。分からない。けれど……とても懐かしい。
 余りに暖かく、夢と現実の狭間を彷徨いながらも意識が浮上していく。

 外の匂い。
 外に出た時に嗅いだ事のある、地面の匂い。
 木々の葉の匂い。
 風の匂い。
 水の透明な匂い。
 暖かな火の燃える匂い。
 触れる優しい空気。
 夜を照らす月の光。
 温かく包んでくれる、金の光────。

 断片的に思い出す。
 知らず、再び涙が溢れていた。
 懐かしく、狂おしいまでに愛しい。
 紗が掛かった様にはっきりとはしないけれども、確かに、常に側にいてこの手を取っていてくれた人が…………。

 何故分からないのだろう。
 けれど、この手はもっと幼い頃に悪夢から救い出してくれたものに良く似ている気がした。
 月光のみに照らし出される部屋。その中で夢に泣き叫ぶ自分は、その手に救われたのだ。

 薄く目を開ける。
 繋いだ手が暖かい。
 身体の隅々までを優しく暖かいものが満たしていた。苦しくもなく、熱っぽさもない。痛みもない。
 握り合った手の先に視線を移す。すらりとした腕。そして繋がる、
「っ……ぁ……!!」
 目を閉ざした顔。
 一度に僅かばかり前の記憶が脳裏を巡る。

 目を閉ざした顔。
 満たされている身体。
 眠る様に、けれども呼吸をしていない…………。

「ひっ……ぃ……」
 手を振り解く。
 震えが止まらない。敷布を掻き、身体がずり下がる。
 また、過ちを、

「どうした!?」
 振り解いたばかりの手が取られた。
 力強い声が聞こえる。
「ごめん、ちょっと寝ちまって……何か、怖い夢でも見たのか?」
 手を引かれ、抱き起こされそのまま抱きすくめられた。髪が繰り返し撫で付けらるた。
 震える身体がたくましい腕に包み込まれる。
 腕の中は温かかった。
 何故だ。
 何故、この男は生きている……。

 満たされているのだ。身体の不調も癒える程に。それ程の生命力を与えられて、与えた人間が生きている筈もない。
 その為に、これまでとて大勢の人間から命を奪ってきたのだ。
 それなのに。

 ――何故生きている……――

「っっ!! な、何……」
 男の手から驚愕が伝わる。
 何が起こったのか分からない。
「今の、あんたの声か?」
 尋ねられる。しかし、ルシェラには反応を返す余裕などない。
 ただひたすらに混乱している。

――貴方は、誰…………――

 この男は一体誰なのだ。
 知っている空気がある。匂いがする。
 身体を満たした生命はこの男から感じる気配と同じなのに、何故生きていられるのだ。先程までと変わりもなく。
 分からない。

――誰…………――

 今日意識のある間で、一体どれ程の涙が流れただろう。それでも、きりがない。
 ただ懐かしく、いとおしかった。
 その想いがより身体と心を満たしていく気がした。
 誰なのかは分からない。
 彼の生命を受けて、それでも確かでいられる、その存在が不思議で、かつ恐ろしく思える。
 怖い。けれど、いとおしい。
 分からない。何も、分からない。
 この存在が稀有で大切で、いとおしく懐かしい、そんな抽象的な事しか分からなかった。
 怖い。
 浮かぶ温かな感情が理解できず、より困惑し、恐怖が増す。
 分からない事は怖い。
 突き放そうと腕を動かすが、男の腕は緩まなかった。

「落ち着けって!!」
 この男の温もりを認めてしまうのが怖い。
「あんたが誰だろうと、俺はあんたを守ってみせる。この命に代えても。俺は、そういう存在だから……きっと」
 甘言に絆されそうになる。
 男の囁く言葉は、自分が望み続けてきたものだ。
 これまでに似た様な事を言う者もいないではなかったが、それとは全く違ものの様な気がした。
 けれど、信じたところで、そして、真実この男がそう思っていてくれていたとしても、その誓いは破られるのだ、必ず。
 ルシェラは緩く首を横に振った。

――貴方は……誰……――

 リファスの頭の中に直接語りかける声だった。
 美しく澄み渡り、涼やかでありながら暖かい。
 容姿に似つかわしい声が響く。
 耳から直接に聞こえているわけではない事は分かったが、そんな事は些末事だ。

「俺は、リファス。さっき、言ったろ?」
 逃れようとする華奢な身体を離さぬ様、強く抱き締める。
 頼りなく美しい存在。
 この腕の中にいるのが酷く自然で、それ故に戸惑う。
「思念波か何かなのかな……」
 胸元に顔を押し付けさせ、繰り返し頭や背を撫でる。
「俺も聞きたいな。あんたは、誰なんだ。……ルシェラって名前で、ティーアの出身で、国守の証っぽいものを持ってる……それは分かったけど、あんたは……俺にとって、何なんだ。……それを知りたい……。あんたが尋ねてるのも、そういう事じゃないのか?」

――貴方は……何故…………生きているのです……――

 振ってくるのは神の声だ。そう感じる。
 何故生きているか……生きていてはならない様な言い草ではないか。
「……何で、俺……生きていちゃいけない?」

――生きていられる筈がない……この身体を満たすのは………………貴方の命……――

 顔を上げリファスを見詰める。
 涙に暮れ、紅く染まる目元。薄く開いた口唇。
 リファスの様な若年者にも眩暈を起こさせる程の色香を放っている。
 思わず息を呑んだ。
 しかし、流されはしない。見慣れている……そんな気がした。
「俺の命…………? でも、俺は生きてる。この通り。ぴんぴんしてるぜ」

――貴方は……何故…………生きているのです……――

「そう言われてもなぁ……。よく分からないけど、気にすることじゃないんじゃないか? あんたは満たされて具合が良くなって、俺も別状があるわけでもないし」
 ルシェラは唇を震わせまた涙を零す。
「いい加減に泣き止めないかな…………笑ったら本当に綺麗なのに」
 涙を指先で救い、その指で無理に唇の端を上に向けて引っ張る。
 泣き笑いの顔。思わず苦笑した。
 ルシェラはリファスの反応が理解できず困惑して眉を寄せる。

――生きていられる筈がない……そうして、わたくしは……たくさんの人を殺めたのだから………………――

 ルシェラは繰り返す。
「俺が生きてちゃ、都合悪い?」
 そうとも受け取れて、リファスは尋ねた。
 途端に、思い切り首が横に振られる。
「なら、いいじゃん。……あんたの声が聞けてよかった。このまま話せるなら、筆談よりずっと、あんたを誤解しなくて済むから」
 窘める様に背を撫でる。
 擦り寄ってくる仕草はやはり幼かった。

「もっとさ、前向きな話をしよう。好きな食べ物とか、将来の夢とか、希望とか、これからどうしたいか、とか」
 ルシェラはリファスを見詰めたまま動かない。理解できているのかも怪しかった。
 それでも、言葉が通じない相手ではない事はもう分かっている。
 仕組みが分からなくても、お互いに声が聞こえる事も分かった。
 もう、リファスに迷いはなかった。


作 水鏡透瀏

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