「それで、手を取り合って何をしてたんですか?」
二口程を飲み込んでルシェラが首を横に振ったので匙を置き、口元を拭ってやりながら尋ねる。
二人が手を握り合っている様に見えた。何処か苛々する。
「町長が消えたのが昨日の夕暮れ前だそうだ。ルシェラが感じ怯えたもの、直後に出た私が感じなかったものが、何か手がかりにならぬかと思ったのだが……今お前が邪魔をした」
「それは……済みませんでした」
何故不機嫌そうにされるのか、理不尽さを感じるもののリファスはとりあえず素直に謝った。
そして三人分に深皿の肉と野菜を取り分ける。
ルシェラに勧めるが、ルシェラは首を横に振った。
額を合わせて熱を診る。また少し上がっている様だった。
「部屋に戻ろうか。少し横になっていた方が良さそうだ」
──……はい……──
水薬に粉薬を混ぜ込み、匙に乗せて口元へ運んでやる。
眉を顰めながら、ルシェラは何とかそれを飲み込んだ。
飲み込み終わってもなくならない眉間の皺を見て、水を湯飲みへ汲んで口に宛がってやる。
一口二口と飲み込んで、ルシェラは漸くにほっとした表情を見せた。
「ルシェラを寝かせたら、もう少し詳しくお伺いしたいです」
「詳しくも何も、私もそれ以上知らない。姉上様も、お前にならもう少し話す事もあるかもしれない。様子を伺ってきてはどうだ」
「今は……ルシェラの体調も悪いし、離れられません」
「私が付いていてもか?」
「……はい」
何を警戒しているのか。
サディアは軽く肩を竦めた。
馬鹿馬鹿しい。
サディアに嫉妬しているのだ。そんな自覚すらもないのかと思うと、もう少し虐めてみたくもなる。
「ルシェラが居て困る問題でもない。少し横になっただけでも違うだろう? もう下がればよい。お前には自分の食事と後片づけもあろう。ルシェラを部屋へ運んだら、暫し私がルシェラを看ていてやろう」
「…………はい」
正論に、リファスは恨めしげに押し黙った。
そのあからさまな表情に、サディアは呆れながらもにやりと笑う。
のん気に付き合ってやるだけありがたく思って貰いたいものだ。
「ルシェラ、もう横になれるな?」
──はい……少し……疲れました…………──
声をかけたサディアではなくリファスを見、ゆっくりと倒れかかる。
その背を支え、リファスはルシェラの髪をそっと撫でた。
「部屋に行こうか」
──はい……──
するりと細い腕がリファスに絡む。
「食事が終われば直ぐに行く。ルシェラ、ほどほどにな」
食器を取りながら、サディアは軽く言う。
ルシェラは微かに頷いた。
寝台に横たえられ、ルシェラは一息を吐いた。
サディアが来るまでと、リファスは傍らに椅子を寄せて座り、ルシェラの髪や頬にそれとなく指を這わせる。
「頭を冷やすものを持ってくるよ。待ってて」
──いいえ……。口づけを下さい。それで、少し楽になる……──
触れてくるリファスの指を不確かな手で捕らえ、その先へとそっと口付ける。
軽く歯を立てると、リファスはその感覚驚いたのか僅かに身を竦ませた。
更に、その指先を熱で火照る舌で捉え吸う。
「っ……ルシェラ……」
振り払えない。
目を閉じ、無心にリファスの指に吸い付いている。
赤子が乳房を探して吸い付く様だ。
ぞくぞくとした震えがリファスの背に走り、蟠って腰の辺りに落ちる。
指の先から腹、指股、そして掌……制止もなく、ルシェラは求めるままにリファスの手指を味わう。
「ルシェラ……いい加減に……」
──……口づけを…………口づけを…………──
リファスはゆっくりと手を引き、その手をルシェラの頭に置いた。
──ここでなら……触れて下さるのでしょう?──
「ああ…………」
目を開け、熱に潤んだ瞳でリファスを見詰める。
今この瞬間のルシェラの世界にはリファスしか居ない。
リファス思わず、その目を手で覆った。
そして、掠める様な口づけを刹那、ルシェラの唇に与える。
──…………ありがとうございます…………──
ルシェラは逃げる様に顔を背けた。
リファスの言う事と実際とがひどく乖離している事を理解できなかった。
──申し訳ありません………………──
「俺こそ、ごめん……俺にはこんな事くらいしかしてやれない……」
──わたくしの様に醜いものに、ただそれだけを望んで触れられる方など……おりませんのに……──
「……お前は綺麗だよ。だから、俺には……難しいんだ」
手を納め拳を握って膝に押しつける。
──この身を引き裂いて、貴方にこの醜い心をお見せすれば、その様な幻想も抱かれませんでしょうに──
「馬鹿言うなよ」
──…………わたくしが貴方に抱く想いは、陛下がわたくしに抱いたものと同じ……陛下は、これを、愛だと仰有った…………わたくしは、貴方を愛しているのでしょう。貴方はそれにお気付きだから、わたくしに触れない…………──
ルシェラはごそごそと丸くなり、頭を半分程まで掛布の中に埋めた。
──醜い……とても醜い感情です。……分かっているのに……貴方を求める事を止められない……──
泣いているのだろう。震えているのが分かる。
「……話が同じ所を巡り続けてるな……」
自分が伝えるべき事を伝えていないから、それは、リファスにも痛い程よく分かっていた。
「愛ってものは……醜いものなんかじゃない……」
掛布を引き、ルシェラの頭を覗かせる。
椅子から立ち、寝台に腰掛ける。
寝台が沈んだのを感じ、ルシェラは僅かに振り向いた。
「相手が厭がってるのに押しつけるのは……そんなのは愛なんて言わないけど」
長い髪に触れる。
ルシェラはびくりとして、ますます身を竦ませる。
「俺だって……きっと………………俺も、醜いかな」
──そんな!!──
ルシェラは身を翻し、半ば起き上がった。
「……っは……」
支える腕は直ぐに頽れ、半端な格好で寝台に倒れ伏す。
肩を支え、抱き寄せる。
腕の中の存在が例えようもなくいとおしい事だけは、確かな実感だった。
「……………………相手も同じように想ってるなら……それは醜くなんてない。そういうのが、本当の……愛とか、そういうものなんだと思う…………」
濡れた頬を合わせる。
言わなくてはならない。
「………………愛しているよ。ルシェラ……」
緊張に声が掠れる。
心臓がばくばくと、このままだと破裂してしまいそうだ。
じっとりとした汗が額に滲む。
「愛している……」
一つ一つの言葉を噛み締める。
はっきりと、ルシェラの耳殻へと注ぎ込む。
ルシェラはうっとりと目を閉じ、美しい声とそれに滲む慈しみ、温もり、優しさに感じ入った。
「……お前の言うとおり、これは醜い感情なのかもしれない。側にいたい、お前の望む全てを叶えてやりたい……そう思うのはお前にとっては余計な事で、単なる押しつけかもしれない。でも俺は……本当に、お前の全てを叶えてやりたいから……お前が拒むなら……お前の幸せを願うからこそ、離れる事も出来る……」
強い感情がルシェラを巻き込んでいく。
けれどそれこれまで感じた何よりも心地の良い感情だった。流され、翻弄されても後悔はない。
ただ荒れ狂うばかりだったセファンの感情とは違う。
リファスは、胸の痞えが取れた事を感じていた。
やっと言えた。
安堵で僅かに力が抜ける。
空かさず縋り付いてきたルシェラの腕に、例えようもない安堵を覚えた。
だが、同時により一層の不安が浮かぶ。
伝えて良かったのだろうか。
想い合ったが為に、これからどれ程の奇禍が見舞う事だろう。
身体の芯からの震えが起こる。
守りたい。
ルシェラを守り幸福を感じて貰う事だけが、自身の人生の全てだと思えた。
「ルシェラ……俺には……何も出来ないかもしれないけど……だけど……」
──……側に……居て下さるのですね…………──
「お前が許してくれる限り、ずっと……例え死が二人を別っても…………今のお前も、これから先のお前も、この命が費えるまで…………誓う」
──何に……誓って下さいます……──
「お前と……永遠に闇を照らす月に」
──わたくしも……誓いましょう。月と貴方に…………貴方を守り、貴方の為に生きる。わたくしの全てを貴方に捧げます──
身体をずらし、ルシェラはリファスの唇に齧り付いた。
「ん、っ……ぅ……」
舌を吸い、唾液を啜る、その激しさにリファスは瞬く間に翻弄されたが、もう拒みはしない。
ルシェラが口づけに集中できる様に、ただ抱き締める。否、そのうちに、そんな意識すらもなくなり、ただルシェラの感覚と甘露の様な唾液に酔った。
「はっ…………ぁ、ぁふ……ん……っ……」
ルシェラが求めてくれる、それだけで嬉しくて仕方がない。
意識がぼんやりと霞んでくるのは、息が継げないからなのか、生気を吸われているからなのか、全く区別など付かなかった。
ルシェラの背に爪を立てる。
短く形よく切り揃えられている為に、爪先はただ着物の上を滑る。漸くにその着物の布を掴んだが、それは最早精一杯の行為だった。
「は、ん…………」
手からとうとう力が抜け、ずるりと滑り落ちる。
その感触にはっとして、ルシェラは唇を離した。
「はっ……ぁは……っ……」
リファスはただ荒い息を繰り返す。
「……ァス…………リ……ァ……」
ルシェラの手がリファスの頬に添えられる。
「ご……ぶじ……で……か?」
「ん……ぁ……は……っ…………ぃじょぶ………………??」
幾らか空気を貪り意識が戻ってくる。
虚ろな視線を緩慢にルシェラに向ける。
「……いま……何か……」
「そ……あれ、ば、よい……すが……」
掠れ、喉の奥に引っかかる様な声音は聞き取りづらい。
何処か、違和感を感じた。
じっとルシェラを見詰める。
リファスから生気を受け取り楽になったのだろう。
僅かに頬に紅みが差している。
「…………ルシェラ?」
「……は……ぃ……」
唇が動き、その間から音が発せられる。
「……………………ルシェラっ!!?」
脳内の神経が突然繋がった様に感じる。
がばりと起きあがり、勢いよくルシェラの肩を掴んだ。
「今、お前、話したか!?」
「……ぇ…………ぁ、あ………………」
口元を覆う。
「は…………は……い………………リ……ァ……ス……」
まだはっきりとは発声できていない。
しかし、呻き声、叫び声の他の音が、確かに発せられている。
「ルシェラ!!」
リファスは思わず、力と勢いに任せてルシェラを抱き締めた。
「わ……くし…………あ……の……」
咳き込む。
直ぐに優しい手が背を撫でた。
「無理しなくていいから。…………何か飲み物を持ってくるよ。温かいの。ずっと話してなかったんだから、ゆっくりでいいんだ」
「……だ……ぃじ……ぉぶ……」
呼吸は荒いが、熱は引いていた。
しかし、呼気の熱は去っても瞳に浮かぶ熱と潤みは変わらない。
「リファ……」
ルシェラの腕がリファスの身体を抱き返す。
「…………あ……ぃがと……ぉ……」
「うん。…………うん…………」
生の声を聞けた。
道のりは長い様でいて……しかし、ルシェラが話す事を放棄してからの時を思えば、リファスの力はあまりに大きい。
「……疲れたろう? すこし休めよ」
ルシェラは気遣いにそっと首を横に振る。
「ぁな……た……こそ……おつか……ぇ……しょう……?」
僅かに身を離し、リファスの頬に触れる。白く血の気がない。
失った生気を取り戻すには、もう少しばかり時間がいる用だった。
「俺は大丈夫だよ。ああ……でも、ほんとに……良かった……」
ルシェラを抱きかかえたまま、ごろりと寝台の上を転がる。
押さえきれない笑みが零れた。
「発声なんて、少し慣れれば普通に出来る様になるよ」
「……ぁい」
「これで、母さんとかとも普通に意思の疎通が出来るな。痛いとか苦しいとか言いたい事があったらちゃんと言うんだよ」
「えぇ……」
額を合わせる様にして寄り添う。
軽く興奮している様子のリファスに引き摺られ、ルシェラの顔にも笑みが満ちていた。
「これからもさ…………欲しいなら、いつでも言ってくれよ」
「………………はい……」
ルシェラはひどく困った様子で、それでも何とか頷いた。
何処まで要求してよいものか、加減が分からない。
「ぁ……あの…………」
「もっと、欲しい?」
こくりと頷く。
「……だぃ……て……くださ…………」
唇が頬と、口の端、そして首筋へと触れる。
「………………常識とか、良識ってのを……知らなくちゃな…………」
困る。
リファスの中の常識はやはり、自分達の年齢を大きな枷としてしまう。
ただルシェラに対してどの様に言えば納得して貰えるものか分からない。
何時、誰と事に及ぶのが適当なのか……。
この齢にして何年も大人達に愛もなく嬲られ続けてきたルシェラには、そのどちらも意味のない事だ。
リファスにはその先に、ルシェラに答えてやれる言葉がない。
「とりあえず、今はちょっとな。もうすぐにサディア様がいらっしゃるだろうし……母さんも様子を診に来るって言ってたし。邪魔が入るのは厭だろ?」
擽る様に頬に指を這わせる。
ルシェラは僅かに首を竦め、リファスの頬に軽く口付ける。
「では…………こ……のまま……も……すこし……」
次第に滑らかに発声が出来てくる。
ぎゅうぎゅうと抱き締めて頬を摺り寄せる。仕草は愛らしいが、その力は強くリファスの背骨はぎしぎしと軋んだ。
絞め殺されてもそれがルシェラの望みならば悔いはない。それ程求められている様で嬉しい。
「ル……シェラ……ちょっと、きつい……」
言ってみるが、腕の力は緩まなかった。
身体の境すらなくしてしまいたい、その想いが痛い程……実際に痛いが……伝わって来る。
少しばかり苦しくても、その腕を解く事など考えられもしなかった。
じっとそのままルシェラの体温を感じる。
息遣い、鼓動、ほんの僅かな身体の動き、その全てがいとおしくてならなかった。
目を閉じると全身がただルシェラを感じ、天も地も、寝台の感覚さえ失せていく。
心地いい。ずっと、これを求めていたのだと実感できた。
季節的にはそこそこに暑い筈だ。だが、ルシェラの体温が自分のものの様に感じ、鬱陶しくも思わない。
生気を失った疲れとその心地よさ、そして何処か酸素が足りずにぼんやりとして次第に瞼が降りてくる。
「ぁふ……」
欠伸が出る。
「サディアが……来る、まで……すこし……」
「うん……扉が叩かれたら……起きられるよな……?」
「ええ……」
抱き合った腕は解かない。
ルシェラはいとおしげにリファスの頭を撫でた。
リファスの意識はすっと温かい闇に落ちていった。
「……………………全く……少し気を利かせてやるとこれだ……」
音も立てず、微かに扉が透く。
目だけを覗かせて様子を伺うが、微かな寝息も扉まで届きはしない。
サディアは再び静かに扉を閉じ、向かいの壁に凭れて溜息を吐いた。
まあ、この真っ昼間に事に及んでいなかっただけよいのだろう。
おそらくは、リファスの理性が勝ったのだろうとは思うが。
抱き合う様に眠っているらしい事は分かった。
勢いよく扉を開ければ起きるだろうしそうしてやりたい衝動にも駆られるが……寸でのところで思い止まる。
ルシェラの幸福の為だと言い聞かせ、小さく深呼吸をした。
手早く食事を済ませて来てみれば、扉を叩いても返事などなかった。
僅かに扉を開けて様子を見ると、それはもうたっぷりと、深々と、口づけを交わしている現場だった。
慌てて扉を閉め、少し時を待って見てみればこの体である。
より一層苛々したくもなる。
時間を無駄にはしたくもなく、一人で明日の支度を調える為に商店街へもう一度行く事を決めた。
起きるまで、こんな輩は放置するに限る。
市井は、サディアにとっても物珍しい。相変わらずエルフェスの昔の服を借りている上へ、自分が着てきた外套を羽織って顔を隠した。
交易の盛んな街だ。サディアの面立ちをかつての王都などで見かけたものがあるかもしれない。
先はほんの僅かな間だからと気を許していたが、一人でうろつくともなれば話は違う。
ここにいても苛立ちが募るだけだ。
とんとんと階段を駆け下り、診療所を覗く。
午前は老人で溢れているものだが、午後はそうたいした患者も来ない。もうじき往診に出かける頃なのだろう。エリーゼはその支度をしている様だった。
「あら」
サディアに気付き、顔を上げる。
受付と診察室内に一人ずつ配された看護師達も気付き、不思議そうな視線を向ける。
それを見てエリーゼは直ぐに何言か伝え、二人は席を外していく。
「どうなさいましたか」
「少し、出て来ようと思います」
診療所や病院になど入った事はない。
物珍しげに見回しながら、サディアは一歩中へ入った。
エリーゼは手を休め、少女らしい様子を見せるサディアに微笑む。
「お一人で? 危のうございますわ。どちらへ」
「商店へな。明日の用意をしたい。私もルシェラも何も持ち合わせていない故。飲み物や簡単な食料、ルシェラの為に綿入れの背置きや毛布もいる」
「本日はわたくしの往診先も二件しかございません。少しお待ち頂けますなら、わたくしも同伴致しましょうか?」
「助かる。私も、慣れぬこと故」
「リファスと、ルシェラ殿下には」
「二人とも眠っている。邪魔はしたくない」
「かしこまりました。少しばかり、お待ち下さいませね。支度を致しますから」
「分かった。それまで、庭を拝見させて頂いていよう」
「はい」
玄関から出て、前庭をぶらつく。
手入れの行き届いた庭だ。リファスの業だというのは、サディアにはよく分かった。
美しさを手がけるという事に於いて、この地上にリファスを凌ぐものなどそうは居ないだろう。
こんなこぢんまりとした所であっても、植物に対する愛情がよく分かった。
季節に合わせた香りの良い多弁の花が咲き誇っている。
花に宿る精霊達が華やぎ元気が良くかしましいのは、よくよく手をかけられているからだ。
花弁に触れ、精霊達に軽い労いを送る。
「お前達は恵まれている。思いに応え、美しく香りよくな」
話しかけられた精霊達がざわめく。
サディアの特質に気が付き、幾つかがサディアを取り巻きその肩や胸元に止まる。
「香水など、比べものにならないな」
花そのものの香気がサディアを包む。
「ありがたく受け取ろう」
そうしているうちに、エリーゼがやってくる。
「徒歩になりますけれど」
「構わない。そう遠いものではないだろう?」
「良い香りが致しますわね」
「花々がとても美しく、良い香りを漂わせてくれている」
「?」
ものの言い方がよく理解できなかったが、エリーゼは深くは聞かなかった。
「さぁ、遅くなってはいけませんから、参りましょう」
往診を終え、必要だと思われるものをエリーゼに助言して貰いながら買い揃える。
少々量がかさんだ為にジェイの父が営む運送屋へ立ち寄ったが、もののついでと結局その場で翌日の契約を交わす。用意として買い込んだものは、明日の事だからとその場に預けて帰る事にした。
送るというジェイを固辞して、帰路につく。
エリーゼと並んで歩く事が何故か嬉しい。
サディアは遠慮するエリーゼから無理に往診鞄を取り、後について歩いた。
浮ついている為に、周りに対する注意力が途切れる。
家への近道にと、大きな建物の間を抜ける裏路地へ入る。
と、急に風が頬を掠めた。
ざわり、と背筋が泡立つ。
サディアは咄嗟に持っていた医療鞄をエリーゼに押しつけ、壁を背にする様にして庇い立った。
剣は携えていない。己の不覚を呪う。
人影はない。
しかし、サディアの感覚は危険を告げている。
「どうなさいました」
「厭な……」
ひゅっと空気を切り裂く小さな音がする。
何かがサディアの頬を掠めた。ちりと微かな痛みが走る。
「大気よ、私とエリーゼ殿を守れ!」
ふわりと足下から風が巻き上がり二人を包む。
「一体、」
「昨日から気づかれていたか、今朝顔を見られたか……」
地に手を突き、意識を集中させる。
殺気は一つだった。
その事に微かに安堵しながら、何も得物がない事を悔やむ。
黒い影が視界に入った。
「何者だ」
答えはない。
両手に禍々しいものを感じる。
「地よ、割れよ!」
地に触れた手から精霊へと命じ影の足場を崩す。
「風よ!」
飛んで逃れた先を狙い、風が捕らえた。
しかし、それは片腕だけに止まり、残された手から黒い稲妻が二人へ向けて放たれる。
「くっ……」
大気の守りに阻まれ、稲妻は守りの表面を走って消える。
守りの術を中心にした簡単な術は使えるが、サディアの戦う力はそう大したものではない。
自身が殺される事などは案じていないがエリーゼを守らねばならない。相手に自分の身柄が押さえられるのも望ましくはない。
サディアの力では防戦一方で、相手の魔力が尽きるか飽きるか、止められる程の者が通りかかるかしか手がない。
見られる事をよしとしない相手ならば誰か一般人が通りかかるだけでも逃れる事は出来るだろうが、街の者を巻き込む事にでもなれば寝覚めが悪い。
気が急く。
エリーゼの存在が判断を鈍らせていた。
「参ったな……」
「これは、一体」
「分からない。しかし、私と分かって刃を向けているのだろう」
「この壁は、いつまで持ちます」
「私の力が尽きるまでは持つ。相手が上回れば分からんが…………とりあえず、今のところは大丈夫の様だな」
影が大気越しに蠢いているのが分かる。
刃は押し返され、しかし、魔法で打ち破る事も出来ない様だ。
「何か武器でもあればよいのだが」
「……持ち合わせは……鋏か針くらいですわね……」
「鋏か……ないよりはいい。お借りしたい」
鞄を探り、刃渡りの少しばかり長い鋏を取り出してサディアへ渡す。
それを構え、サディアは刃を撫でた。
撫でるに従い、刃が風に包まれ伸びていく。
小剣程の長さに達したそれは、まさに風の刃だった。
サディアには、こうして芯となるものがなければ武器を作り出す事も出来ない。
「私ではこれがやっとだ。……貴女は動くな。この中から出ては、保証できない」
「はい」
大気を裂く様に刃を突き出す。
影はあっさりと避けたが、サディアは逃すまいと大気の守りの枠から飛び出た。
直ぐ様横合いから白刃が突き入れられる。
身を反転して躱し、刃を跳ね上げた。
影と対峙する。
それは背の高い男の様だったが、人としての感覚に薄い。黒い服に被り物をして、面と向かっても影の様だった。
ただ、不愉快な感覚だ。
サディアの剣技は人並みより少々優れているという程度で、護身の域を出ない。
向かい合っていれば分かる。これは、「人」ではない。
術の力を感じる。恐らく人に似せて作られたものだろう。
手順を踏めば解体出来るだろうが、やはり、瞬時に行うには力が足りない。
「……やはり、リファスくらい同伴させるべきだったか」
間合いを計りつつ後悔するが、今更遅い。
影は湾曲した細い刃を持つ剣でサディアを斬りつけてくるが、行動は一定していて次第に読めてくる。
余裕は出てくるが、だからと言って逃げ出せる状況でもない。
刃を避け、弾き続けるにも限界はある。
相手の動きは衰えないが、サディアには次第に疲労が出てくる。
「ちいっ」
左上腕を刃が掠める。
捕まってから逃げる手を考えた方が、周りへの被害少ないかもしれない。
一瞬、そんな考えが脳裏を過ぎった。
その隙が祟る。
「くぅっ!」
膝を付く。
脇腹が深々と切り裂かれていた。
ルシェラより、回復の程度は遅い。
傷に手を当て力を注ぐ。
刃を頭上で受ける。
力が僅かに及ばない。
覚悟を、決めざるを得なかった。
しかし。
「何をしている!?」
頭上を、何かが通り過ぎたのが分かった。
向かってきていた力が怯んだのが分かる。
「ちょっ……魔生成生物!? 我が主にして神、エメスアトゥルー、その力を我に貸し与えたまえ!」
青白い閃光が走る。
聞き覚えのある声だった。
何とか顔を上げると、光に取り囲まれ影がその存在自体を薄れさせていた。
顔の辺りに小柄の様なものが突き刺さっているのが分かる。
「消えなさいっ!」
影の足下が、地に溶けていく。
振り返ると、二人の女の姿があった。
「殿下!!」
「お母さん!!」
光が薄れていく。逃げ消え去った様子だった。
駆け寄ってくるのは、確かに、リファスの姉二人だ。
「姉上様方…………」
ほっとして、地面に尻を付く。
風の刃を消し、大気の守りも解く。
エリーゼもサディアに駆け寄り、頬と上腕、そして脇腹の傷を確かめる。
「血はもう止まっておりますね……。エリファ、直ぐにお連れして頂戴」
「はい。殿下、失礼を」
小柄なサディアを軽々と抱き上げる。
まだ脇腹は痛むのだろう。眉が顰められる。
しかし、サディアはエリファの腕の中で藻掻いた。
「もう大丈夫だ。歩ける」
「大事があっては困ります」
弛まぬエリファの腕の力に諦める。
エルフェスは影の消えた所へ立ち、地に触れる。
他の土に比べ、何処か粒子が粗くざらざらした感じがした。
「一体何だったのよ、今のは……」
立ち上がり、手を拭う。
そして手巾で僅かにその土を拾い上げた。
「お前達こそ、どうして二人で通りかかったの……?」
二人の就業時間は基本的に違うし勤め場所も離れている。示し合わなければ共に帰宅する事はない。
「お姉ちゃんが神殿まで来たのよ。仕事の関係で。そのまま上がりだって言うから、一緒に帰る事にしたの」
「そう」
「お二方が来て下さって助かった」
サディアは深く頭を下げる。
「あれは……魔道で作られた生物の様に思いましたけど……とても、禍々しい感じが……」
「……エルフェス殿の巫女としての力が大変優れておられたのが、何よりだった」
「姉が先に一撃を入れてくれたからです。私だけでは、避けられていました。それに……あれは逃げただけでしょう。また来るかもしれませんわ」
とりあえずこの場に居続けても仕方がない。
帰路に着く。
微睡んでいたルシェラとリファスが起きたのは、些か日が落ち始めた頃合いだった。
寝過ごしたとリファスは飛び起きようとしたが、ルシェラの腕が変わらず絡んで起き上がれない。
「……ルシェラ」
「ん……」
頬を軽く擽ると、ルシェラの目が薄く開く。
「結構いい時間だ。俺、ちょっと食堂とか片付けてくる。お前はもう少し寝てるか?」
「…………いいえ。わたくしも……」
「寝起きだし、何か飲んだ方がいいかもな。一緒に行くか」
「はい」
唇と喉が少し渇いている。ルシェラは素直に頷いて微笑んだ。
リファスから腕を解く。
先に起き上がって寝台を降りたリファスへ手を差し伸べると、抱き上げられた。
「……歩きます」
「大丈夫か?」
「はい……。ゆっくりなら」
リファスに縋りながら床に足を着く。
生気を受け取りゆっくりよく休んだ為か、案外に足はしっかりとしていた。
「参りましょう」
「うん」
丁度良い位置に来る額に口づける。
ゆっくりと食堂へ降りると、サディアに加えてエリファ、エルフェス姉妹にエリーゼと顔を揃えていた。
やたら空気が張り詰めている様に思い、ルシェラを座らせてリファスは部屋を見回す。
「何か、あったのか?」
「あんたが片付けもせずに暢気に昼寝してる間にね」
エルフェスの物言いは強い。
その様子に深刻な事態を思い、リファスもルシェラも表情を改める。
「何があった?」
「襲われた。人ではないものに」
サディアが答える。
「怪物とか、魔物とか?」
「違うな。人が作りし、人に似せたもの。出来はそこまで良くない様だったが」
自嘲を浮かべるサディアに対し、ルシェラはある臭いに気が付き眉を寄せた。
「サディア……お怪我を……?」
「ん……少しな。……………………? お前、今」
ルシェラの顔を凝視する。
気恥ずかしげに微笑みを返す。
そして、喉と唇に触れた。
「リファス殿の……お陰で……取り戻しました……」
「そうか…………。それは良かった」
何が行われたかまで聞きたくもない。それ以上は聞かない。
エリーゼとエリファも驚いている様子だったが、サディアが納得したのを見て二人も口は挟まなかった。
「お怪我は……いかがなのですか?」
「もう癒えた。お前程でなくとも、並の人よりはな」
「然様でございますか……」
椅子を僅かに寄せ、サディアに手を伸ばす。
傷を負った場所を的確に探り、触れる。
サディアは僅かに身を捩った。
「厭な…………」
「ああ……。ここに居続けるのも危険だろう」
「早く……発つべきですね……」
「とりあえず、明日の朝に発つように契約は済ませてきたし、物資も多少預けてある」
「……そうですね……」
手を納め、側に立つリファスを見上げる。
不安げな表情に、リファスはルシェラの髪を撫でた。
「サディア殿下、先程の敵ですが」
「何か」
エリファが足下に跪く。
「町長が消えた直前にあった来客に関する証言と、類似点が多く見られます。何か、関係があるかもしれません」
「類似点?」
「わたくしも、垣間見ただけですので、印象のお話になりますが」
「どの様に」
「背の高く細身で黒い、影の様な人物と。気配に薄く、まさしく影の様だったと見た者は口々に申しておりました。正面から来、目通りをしたにもかかわらず、誰も人相まで見ていないのですが」
「顔など、私も見ていないな。あれ程至近距離にありながら。半ば隠れていた様には思うが……」
ふむと考え込む。
「エルフェス殿は、まず、魔生成生物だと仰有ったな。何故そう思われた」
「え? あ……そう、ですわね…………勘です。咄嗟にそう思ったのですけど……そういえば、何故かしら」
頬に手を当てて考え込むが、よくは分からない。
「真っ黒に見えましたの。そのものも、影も、その背後まで…………術ではなくて、呪や念の様なものを強く感じて……」
「やはり優れた巫女でいらっしゃる」
「そうでもありませんわ。本当に優れていれば、逃がしはしませんもの」
逃した事が悔しいのだろう。顔にありありと不機嫌が浮かんでいる。
「他に怪我人が出なくてよかった」
「とんでもない事です。サディア殿下が、何よりお怪我をなさってはならないお身体ですのに」
「私やルシェラは刃などで死ぬ事はない。貴女方に怪我がなくて幸いだった」
「そんな……」
頬の傷も腕の傷も最早跡形もない。
しかし、だからといって痛くないわけではなかろうし、大体王女が刃傷沙汰などあり得ない。
更に言おうとしたが、サディアの窘める様な微笑にエルフェスは口を噤んだ。
「俺、準備してくる」
ルシェラをサディアに預け、リファスは早足で食堂を出て行く。
「あ……」
「任せておけばいい。身近に刃傷沙汰で、動転しているのだろう」
「……ええ…………それで、お心当たりは……」
「昨日からつけられていたか、今朝顔を見られたか、どちらかだろう。直接にここへ来なかったのは……居所が掴めなかったか、ここへ立ち入る事が出来なかったか…………ともかく、まっとうなものではあるまいな」
「…………セファン陛下、でしょうか…………」
ふるりと身体が震える。
ルシェラを抱き寄せた。
「恐らく違うだろう。あの方は、もう少し上手く振る舞う。…………お祖父様の下で、探ってみる必要があるだろうな」
「……町長の件も関わる様であれば、情報を頂きたく思いますが」
「私…………」
エリファは職務上尤もだが、エルフェスも申し出る。
「同伴してはいけませんか? 私も……私の力は、お役に立ちませんかしら」
「エルフェス!!」
エリーゼが制止の声を上げるが、エルフェスは引かない。
「……しかし、ご職務もあろう」
「長いお休みくらい許されますわ」
エルフェスはサディアとルシェラをじっと見詰めた。
心底心配しているのは分かる。しかし、サディアにも、ルシェラにも、関わりのない者を巻き込むつもりはない。
「お申し出はありがたく思う。しかし……」
「……これは、わたくし達のこと……ご迷惑は……」
「リファスを連れて行かれるのでしょう?」
ルシェラは身を竦ませた。
ルシェラにとっては、リファスとて全く関わりのない者である。
それを巻き込もうとしている自分への、家族の抗議の様に感じた。
「……申し訳ございません…………リファス殿にも……ご迷惑を……」
「エルフェス、いい加減になさい」
「あの子では役に立たないのではございません? 今日だって、殿下をお守りできませんでしたわ」
「それは……わたくしの……」
「いいえ。すべき事を何一つしていないのですもの。殿下に責はございません」
全く引き下がらない。
サディアはじっくりとエルフェスを眺めた。
「命の危険というものを、お考えではないようだな」
「分かっておりますわ。せめて、ファナーナ候のお屋敷まで」
黒い瞳は決意を滲ませてきらきらとしていた。
潔い。率直な人柄が好もしかった。
サディアはルシェラと顔を見合わせ、暫くして溜息を吐いた。
「そうまで仰せ下さる事を大変に感謝する。本日助けて頂いたそのお力は、確かなものだと思う。祖父の屋敷まで……同伴して下さるか」
「はいっ!」
「ですが……往き道にも、危険がないとは言い切れないでしょう……? わたくし達には大丈夫かと存じますが…………リファス殿や、お姉上様には……大変、危ないのでないかと思うのです……」
ルシェラはエルフェスに手を伸べ、額に触れる。
ちり、と疼く様な熱が走った。
柔らかく淡い光が微かに残る。
「これよりも……ご無事でございます様に……」
サディアとルシェラが許せば、エリーゼとて口は挟めなくなる。
また、ファナーナ候の屋敷までは往復でも一週間はかかるまい。大した距離でもないし、エルフェス一人ならメルスティアとアウカ・ラダーム間は定期馬車も利用できる。
気をつける様に申し伝えるのが精々だ。
息子の躾を間違ったと思わないが、娘二人はどうにも男勝りが過ぎる。
自身も若い頃には色々と……と思わなくもないが、それにしてももう少し温和しくしとやかに出来ないものかと思う。
朝の仕事前に干した洗濯物を取り込みにエリーゼは立ち上がり、エリファは剣の練習へ、エルフェスは明日の準備に取りかかった。
食堂にはサディアとルシェラが残される。
「…………道中で襲われる危険もあるな」
「……大丈夫でしょう。わたくしにも……剣などお借りしたいものですが」
「そうだな。だが、お前が剣を抜くには及ぶまい。戦いの際には、精霊達へ存分に命ずればいい」
「ええ……」
それから夕食が済むまで、ルシェラの側にはサディアが寄り添い、リファスはひどく忙しそうで会う事が出来なかった。
エリーゼからルシェラへの投薬の方法や薬の調合などを叩き込まれる。
そして、やっと食事の後に一人では済ませられないルシェラと共に風呂に入り、身体を清めて寛ぐに至る。
ルシェラの希望でリファスの部屋へ行き、共に寝台に横になる。
「楽器も、お持ち下さいね」
「うん。お前は、どれが好き?」
「どれでも……貴方が演じられるものであれば」
直ぐ側にある柔らかな頬に口付ける。
「剣の予備がありましたら……一振りお貸し願えませんか」
「いいよ。……そうだな。道中に何もないとは言い切れないし…………でも、使えるのか?」
「学んではおります。動ける体調でしたら……どうにかは」
「そうか……お前は俺が守るから。大丈夫だよ」
「ええ」
唇を重ねる。
全ての垣根を越えた二人には、最早何もいらなかった。
翌朝。
まだ薄暗い。その中に到着した馬車に、馬が気の毒になる程の荷物を積み込んだ。
リファスの荷物がとりわけ多い。ルシェラとの二人分の衣類に楽器、武器に加え、ルシェラの為の薬剤が嵩張っている。
馭者はジェイの父だった。遠い上に、一目で一行をただ者ではないと見抜いた為に、とても息子には任せられないと思ったのだろう。
荷に加えて四人の少年少女を積み込み、馬車は朝靄の中を静かに発車した。
終
作 水鏡透瀏
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