書簡を送ってから数日。
エルフェスはその連絡を心待ちにしていた。
ルシェラとリファスは、半ば複雑な気持ちで日々を過ごしていた。
そして、その日、僅かばかり午後を回った頃合いに、一人の急患が飛び込んで来た。
急患は、小汚い格好をした子供だった。目深に被り物を被っている。
「腹が痛い!! 頼む!!」
外に聞える程大きな声で叫び、診察室に駆け込んできた。同伴者はいない様だった。
「今診てあげるわ。そこに横になって」
丁度人の切れた時間だった。
一息吐いていたエリーゼは慌てて湯飲みを置き、子供を診察台へと促す。
と、子供は被り物を跳ね上げ、後ろ手に鍵を掛けた。
「なっ、」
「この様な手段を取った事を申し訳なく思う」
騒いでいた様と打って変わって、押し殺した声がエリーゼを制する。
微かに閃いただけの白い手に、それ以上エリーゼ動けなくなった。
「貴方は!?」
はらりと零れた赤味の強い金の髪。琥珀色の瞳。
目の覚める様な美少女だった。
そして、その面立ちにエリーゼには見覚えがあった。
跪き、深く頭を下げる。
「で、でんっ、」
「名も称号も出さないで欲しい。誰に気付かれるか分からない」
「…………はい」
確かな威厳。
驚きも手伝って言われずとも先を続ける言葉がない。
幾度か遠くから姿を見た事はあるし、新聞で絵姿を見た事もある。
前国王であるその父に似た面差しは、エリーゼには懐かしくさえあるものだった。
ラーセルム王国第一位王位継承権所持者にして国守、王女サディアである事は一目で知れ、疑う余地もなかった。
「貴家のご子息とご息女より書簡を賜った。この家の事はよく知っているから……信じて直接来てみたのだが……」
「父が大変お世話になっております。しかし、書簡、とは……」
エリーゼの父は王室の典医長を務めている。
サディアの父とはかつてとても幼い頃、幼馴染とも呼べる間柄でもあった。
ただ、娘も息子も、何も話してはくれていない。困惑する。
「世話になっているのは私達の方だ。グレイヌールは、大変よくしてくれる。お祖父様が増えた様だ。それで……ルシェラがここに滞在しているというのは確かな事なのか。書簡にその様に記してあったので、こうして罷り越した」
王室に残りながらも、エリーゼの父はサディアやそれを支える侯爵達と繋がり、裏から確かに通じている。
その存在に、サディアは全幅の信頼を置いている様だった。
「はい。お預かり致しております」
二人とも、自然に囁く様な声になっている。
「彼は息災か」
「……持ち堪えてはいらっしゃいます」
その答えに、サディアは全てを悟った様だった。
「…………会わせて欲しい。その為に来た」
「鍵をお開けいただきませんと」
息子と同い年の少女だ。初めの衝撃が去ればそれなりの余裕も出てくる。
促されて漸くサディアは状況に思い至った様だった。
冷静さを装い口調を大人びてみたところで、やはり何処か焦っていたのだろう。
「……すまない。あの、その前に……何か、着替えを貸して貰えまいか。この出で立ちでルシェラに会うのは……憚られる……」
薄汚れた袖口を軽く引っ張り、少しばかり困った様にエリーゼを見詰める。
漸くに歳相応の少女の顔が見えた気がして、エリーゼは小さく微笑んだ。
「少々お待ち下さい。娘の少し前のものでしたら、ご用意出来ると思いますわ。お湯もお使いになられますか?」
「ああ、手間を掛ける」
こざっぱりと身なりを整えたサディアは流石の美しさと気品でエリーゼを圧倒した。
エルフェスの数年前の服で、更にエルフェスよりも随分身長が低い為に袖や足元は少々怪しかったが、それを補って尚余りある。
風呂の隣に設えられた脱衣所の大鏡に姿を映しながら細々したところを整えていく。
「わたくしのもので宜しければ、お化粧もございますよ」
「ありがとう。紅だけ……借りようか。……貴方は、少し……お母様に似ている。大変心安く思う」
まだ僅かに濡れた髪を梳いて乾かしてやりながら、エリーゼはサディアを鏡越しに見詰めた。
「お付の方もなく、先触れもなくいらっしゃるものですから、何もご用意できず申し訳ありません」
「いや、本当に、十分にしていただいている。化粧の事までお気遣い頂けるとは思っていなかった。自分でも考え及ばなかった。女として、恥じるべきか」
「まだお若いのですもの、わたくしの様には必要ございませんわ。ただ、少しおめかしをなさりたいのではないかと思いましたの」
さっとサディアの頬が朱に染まる。
「どうして……」
「現在の殿下の御身で、斯様なところまでお独りでお越しあそばされるのは、大変危険なことですわ。初めは書簡でもお寄越しになれば宜しいのに……居てもたってもいらっしゃれなかったのでしょう? それ程までにお会いになりたいと思われるのですもの……」
「邪推……とは言えないか。暫く女手もなく過ごしているものでな……懐かしく母が偲ばれる」
頬を染め、エリーゼの手に全てを任せる。
「……分かってしまうか。私が、どれ程ルシェラに会いたかったか……」
「ええ……さぁ、出来ましたわ」
紅筆がさっと形のよい唇を撫でた。
その一刷きだけでもひどく大人びて見える。
「参りましょう」
「ルシェラ殿下、サディア殿下がお見えになられました。リファス、開けて頂戴」
「……リファス?」
サディアの大きな瞳が数度瞬かれる。
「ご子息は、リファスと言う名なのか?」
「ええ。……名乗っておりませんでしたか」
「書簡には、名らしいものは家の名だけで…………そうか……リファスと共にあるのか……」
サディアの表情に安堵が広がる。
サディアもまた、国守としての記憶を有する者だった。
「入るぞ、ルシェラ、リファス」
二人は丁度仲良く手を繋ぎ、ルシェラが寝台から降りようとしているところだった。
見詰め合っていた視線を緩慢に上げ、サディアの姿を認める。
「相変わらず仲のよい事だ、二人とも」
久しく見ていない姿だ。今生では、サディアも初めて目にする二人の姿。
だが、ひどく懐かしく、また見飽きた気分になるものでもあった。つい呆れた口調になる。
――……サディア!!――
リファスの手を解き、サディアに飛びつかんばかりに駆け寄る。
今日もまた、リファスのお陰で体調はよかった。
姿を認めた瞬間から満面に喜色が溢れる。
確かにその姿を覚えていた。
精悍な表情のよく似合う、少しばかり冷たくも思える顔立ち。長い睫毛に縁取られた琥珀の瞳。知性を秘めた煌めきは燃える太陽にも、また冴え冴えとした氷にも似ていた。
サディアの差し伸べた手を取り、その前に跪いて甲に口付ける。
――ああ…………記憶にある通り……貴方が、サディアなのですね……――
「そうだ、ルシェラ。……ほぼ完全に記憶は取り戻しているのか?」
口からではなく頭の中に直接届けられる声に、微かに眉根を寄せる。
だが理由を問いはしない。
全てのルシェラを知るサディアには、それが病に拠るものではない事を瞬時に悟っていた。
――力は継ぎました。貴方の事やその他の国守の事は概ね覚えていて、昔の様に振舞えると思います――
「安心した。…………本当に……久しいな…………」
琥珀の瞳が揺らぎ、涙の粒が零れ落ちる。
雫が手の甲に落ち、ルシェラの手をも濡らす。
ルシェラは顔を上げ立ち上がり、親指の腹でサディアの双眸を拭った。
斯く言うルシェラの頬も涙に濡れている。
「リファスも……息災の様で何よりだ」
「はっ……」
視線を向けられ、リファスは慌てて額づく。
リファスもまた、昔の祭りなどで遠くから姿を見た事はあったし、新聞や本などで姿を見知っている。
「リファス………………そうか。やはり、呪いは解けていないか……」
サディアは落胆した表情を覗かせ、額づくリファスの前に進んで手を伸ばした。
撓やかな白い手がリファスの前に差し出される。
リファスはそれを取り、ルシェラがした様に甲に口付けた。
「ルシェラ、お前はこの男の事をどれだけ知っている」
そっとリファスから手を引き、ルシェラへと向き直る。
――…………とてもお優しくてお強い方です。わたくしの側にいると誓って下さった……――
「出会って如何程になる」
――まだ、そう経ってはおりません。けれど……時間など……関わりがない……――
「そう経っていないのは見ていれば分かる。リファス、どれ程になる」
「はっ……まだひと月にはなりません。三週間と少し、くらいです」
再び床に額を擦り付ける様にして礼を取る。それなりの作法は習っていても、いざという時咄嗟に出て来はしない。
「そう畏まってくれるな」
苦笑しながらも、表情はどこか寂しげだ。
「人の身で過ごせる時間などたかがしれている。三週間が三年だろうが、大差はない。巡り会えたのだ。それを、運命の神に感謝せねばな」
「殿下も……ひょっとして、俺やルシェラの昔の話をご存知なんでしょうか?」
サディアの物言いを不審に思う。
その問いは想定外だったらしく、サディアは一瞬戸惑いを見せた。
「お前自身は覚えていないのだろうがな。……ああ、知っている。お前がどの時点の話を示しているのかは分からないが、ほぼ全てを知っていると言ってもいいだろう。だからこそ、より……お前達が巡り会えた事を喜んでいる」
「やっぱり、俺は…………今みたいに生まれる前に、ルシェラに会ってたんですね……」
大使の話、それがずっと心の何処かで蟠っていた。
一人が話すのと二人に聞かされるのとでは、より重みが違ってくる。
ルシェラに躙り寄り、そっとその手を取って握り締めた。
「昔の俺は……ちゃんと、ルシェラを守ってあげられてましたか?」
自身もルシェラも何一つ覚えていない。
問いかける先はサディアしかなかった。
「どうだろうな……」
サディアは口の端を吊り上げる様にして笑った。
不安げな顔になったリファスを見て更に破顔する。
「情け無い顔をするな。何時いかなる時のお前も、ルシェラに寄り添って生きていたよ。今の様に若い時も、ずっと年老いた時も。ルシェラが病み、苦しみ、死んで逝く時にも……殆どの場合で、お前はルシェラを最期まで看取り届けてきた。…………ここ数年はそれも怪しかったし、今生も期待はしていなかったが……」
サディアは膝を付き、ルシェラの前に屈み込んだ。
「この世界でお前がすべき事は、幸せに生き、そして死ぬ事だけだ。リファスが側にいさえすれば、それは成就されるだろう」
――……ええ…………貴方にもお会いできた……――
「会えたには会えたが、な……」
サディアはただ含みのある微笑を浮かべただけでそれに応じた。
続
作 水鏡透瀏
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