「本当に…………呆れるくらいに相変わらずだな、お前達は…………」
 華奢な指先で湯飲みの把手を弄りながら、サディアは冷たい視線を寄越す。
 そんなものは何処吹く風と、ルシェラとリファスは寄り添っていた。
 焼き菓子を小さく砕いてルシェラの口元まで運ぶリファスと、リファスに凭り掛かってそれを唇の間に入れて貰うルシェラと。
 眺めているだけで馬鹿馬鹿しい気分でいっぱいになる。
 それはエルフェスも同じと見えて、それから目を反らしつつ茶と焼き菓子を楽しんでいた。
「私の話を聞いているのだろうな、お前達」
──聞いておりますとも──
 リファスから目を離すのは片時とて惜しいと言わんばかりに、気怠げな視線を寄越す。
「お前が、是が非でもセファン殿に会いたいと言うなら連れて行ってやりたいと思うが……」
「それは、無理です。漸く家の中は少し動ける様になったけど……庭にも一人では出られないのに」
 ルシェラの胸元に零れた菓子の欠片を払ってやりながらリファスはきっぱりと否定する。
「大体、お前は過保護すぎる。何も覚えていないというのは嘘でないのか?」
「昔の俺も、こんなだったんですか?」
「変わりなどないよ。時が止まっている様だ。料理の腕も、また相変わらずに良い事だ」
 言いながら菓子を口に放り込む。外はさくさくと、中はしっとりと、絶妙な焼き加減で楽しませてくれる。鼻に抜ける芳ばしい香りと香辛料がより深い味わいを生み出していた。
「今日の夕食が楽しみだな。お前に食事を作って貰うと、他の何を食べても味気なく思えてならない」
「……頑張って作ります」
「ルシェラも、国にいた頃より豊かになったのでないか?」
──ええ、大変に。お食事がこんなに楽しく待ち遠しく思えるだなどと、これまで考えた事もございませんでしたのに──
 柔らかな微笑みを浮かべ、リファスに視線を送る。
 細められた目は、心からの幸福と喜びに溢れていた。

「わざわざ……セファン殿に会わずともよいと思うのだがな……」
──いいえ。……このままでは、わたくしにとっても、陛下にとっても、良くない事だと思うのです。陛下は本当に……ただただひたすらに、兄であった頃のわたくしを愛し、求めていた。三十年以上の時を経ても、未だに…………その手から逃れたわたくしを、それでもそう思って下さっているかは分かりませんけれど…………せめて、一言詫びねば、国守の名も廃りましょう──
「義理堅い事だ」
──あの方を受け入れられなかったのは、わたくしの罪なれば……──
 ぎゅっとリファスの手を握る。
 瞬く度に潤んでいく瞳がリファスに縋る。
 握り替えされた手に安堵し、ルシェラはリファスの肩に頭を預けて目を閉ざした。
「ルシェラ、外に出るという事は、同時に多くの人間に触れねばならぬという事だ。常にリファスに触れていられるわけではない。お前は知らないだろうが、ひと度往来に出ればこの家の中やお前が過ごした土地土地とは違い、守られてはいないのだ」
──ここは、守られているのですか……?──
「建物はただそれだけで結界となる。この家は特にエルフェス殿とリファスがいる為に恒久的な力を受け続けているのだろう。非常に安定していて包まれる感じがする。ティーア王宮でお前が過ごしたのは塔か離宮だと思うが……そこも、歴代の国守が過ごした場だろう。国守……守護者は人心に影響を受けやすいから、王宮本体から少し離れた場だったろうと思うが、それはお前を守る結界の一つなのだ」
 守る、とそう口にしながらもサディアは眉を顰め、茶を一口口に含んで喉と唇を潤す。
──塔は、とても……冷たく……寒い場所でした。それでも…………王宮本殿より幾らか過ごしやすかったのでしょうか。誰かに連れ出して欲しいと、ずっと……願い続けて参りましたけれど…………陛下のご判断は正しかったと……──
 繋いだ手がかたかたと震えている。
 リファスは思わずその手の上に更に手を重ね握り締めた。そして下になった手を抜き、ルシェラの薄い肩を抱く。
「セファン殿が、セファン殿なりにお前を守ろうとしていた事はお前とて感じているだろう?」
 震えながらも確かに頷きを返す。
──やはり、あの方にお会いして……直接お詫び申し上げたく思います。わたくしは……あの方のお優しさにも、お応えできなかった……──
「心を守る術をお前が覚えられたなら、権謀術数渦巻く王宮の舞踏会にも堪え得るだろう。あれは感情の坩堝なのだから。狭い空間に、百を超える人々が集まり、表面は取り繕いながら腹には黒々強いものを溜め込んでいく。それは街の往来の比ではない。…………今セファン殿の事を考えただけで怯え震える様で、お前はどの様にして人心に堪えるつもりなのだ」
──人とは……それほどに…………恐ろしいものなのですか?──
 これまで悪意らしい悪意に晒された事のないルシェラにはサディアの危惧が分からない。
 目を閉ざしたまま、不安げにリファスに身体を預け胸元に額を押し当てる。

 国にいた頃にはそれ相応に辛い思いもしてきたが、決定的な悪意に当てられた事は一度もなかった。
 権力欲、独占欲、その他様々な欲望には当てられてきたが、それは要するに「欲」という理由に基づいているものであり故のないものでない。
 理由が分かるものに対して申し訳ないと思いこそすれど、危惧される程に身構えたりはしない。
 乳母が殺された事も、兵士が殺された事も、セファンの仕打ちも、一部の客達の暴虐も。
 悲しく身を引き裂かれる様な出来事ばかりではあったが、ルシェラにはそれ以上の事は分からない。
──これまで、幾人もの方にお会いして参りましたが……わたくしをよく思わない方にお会いしても、取り乱したりなど致した事はございませんけれど……──
「今のお前によく分からないのだろうな。人が持つ、根源的な悪意を……」
──悪意…………──
 目を開け不安げに、サディアでなくリファスを見詰める。
 リファスの手は優しくルシェラの髪を撫でた。
「そんなの……知らなくていいんだよ」
「だから過保護なのだと言っている。一人一人の悪意には対応できても、乱反射するかの様にあちらこちらで生まれる悪意の渦に堪えられねば、王宮へ連れて行くわけにはいかない」
──悪意とは……どの様なものなのですか──
 サディアがそれほど煽るものに対して、ルシェラはただ漠然とした不安に駆られる。だが、今ひとつ想像が及ばない。
「憎しみや妬み、嫉み……様々だ。人の不幸を喜んだり、また人が不幸になる様に望んだり、そうなる様にし向けたりする思いなど……あまりに多岐に渡るから説明し難いが。一度触れればお前にも分かるだろう。……国などではセファン殿が選別していただろうし、あの男の仕打ちがどれ程辛かろうが悪意から出たものでなかったろうから……今のお前には想像し難いかもしれないがな」
──その様な…………どなたが不幸になる事も、大変心苦しく、悲しく思いますのに……──
 やはり、ルシェラには想像も及ばない。
 小さく首を傾げるルシェラに対し、リファスは困った気分になった。
 サディアに助けを求めても肩を竦められるだけに止まる。続いてエルフェスに視線を送るが、完全に無視された。
 元来おしゃべりの筈のエルフェスが、この場に限ってまだ一言も発していない。
「エルフェス殿は、如何思われる」
 気づいたサディアが振る。
 エルフェスは少し困った様に、優雅に頭を傾け考える仕草を見せる。
「そうですわね……」

 エルフェスから見れば、賢しい子供が精一杯にお互いを気遣いながら考え事をしている様子が微笑ましくてならない。
 三人の顔をそれぞれに見比べ、小さく溜息を吐く。
「それぞれの仰有り様はよく分かりますわ。殿下方の事も、リファスの事も。サディア殿下もリファスも過保護過ぎますし、ルシェラ殿下はもっとよく世間を学ばれるべきでしょう」
「私も……過保護だろうか」
 サディアは目を瞬かせ、真摯にエルフェスを伺う。
「ええ、そう思います。サディア殿下が仰有る危惧について、私もそれとなく分かるつもりでおりますわ。私も、人並みよりは多少強い感応力を持っておりますから。けれど、こればかりは感覚のお話ですから、実際に感じてみなくてとても分かるものではございません。……如何でしょう、ルシェラ殿下。これから、一歩だけ、玄関からお外に出てご覧になっては。朝方や夕時より往来の人は少のうございますし、幸い薄曇りで、殿下が恐れられる陽の光もございません。お外の感覚に少しずつ馴れていらっしゃるのが一番だと思いますけれど」
──お外へは、出た事もございますけれど──
「それは、当家の敷地内のお話でしょう? 往来へおいでになるのは、また少し違うと思いますわ」
 ルシェラの瞳が不安半分、好奇心半分に揺れる。
「まだ無理じゃないかな……一人で漸く部屋から出られる様にはなったけど……まだちゃんと歩けもしないのに」
──お外の空気が、わたくしが存じていたものよりずっと優しく暖かなものであると言う事は理解致しました。確かに……直接触れねば分からないことも沢山ございます。お姉上様の仰有る通りに…………──
 肩を抱くリファスの手に触れ、視線を送る。
 まだ不安げな様は完全に失せていなかったが、それでもリファスを窘める様に微かに微笑んでみせる。
 好奇心が勝っていた。
 また、リファスにサディア、エルフェスと揃っていればこその安心感もある。これらと共にならば、不調があっても直ぐ様助ける手もあろう。
 輝きながらも揺れる瞳に見詰められ、リファスは渋々頷いた。
「少しだけだからな。本当に……ちょっとだけだからな」
──はい──

──あの、リファス…………少し暑いのですけれど……──
「今日はこの季節にしては少し冷えるし、ちょっと風も出てるから体調を崩したら大変だろ。ほら、雲が少しでも切れたら良くないから、これも被って」
 陽除けの薄布を頭から被せられ、目元を残して顔そのものを隠す様に巻き付けられる。
 茶会が終わって直ぐに、リファスはルシェラの為の衣類をずらりと揃えてみせる。いつか外に出る日の為にと三週間のうちにリファスが購入したり作り上げたりしたものだった。
 身体も一切の身体が見えない程に重ねた衣類に包まれる。晩春の頃でまた朝夕は冷える事もあるが、日中は十分に温かい。
「リファス、それはさすがにやり過ぎだと思うわ」
「守り過ぎって事はない!」
「あんたにとっても、外があんまりいい所じゃないのは分かってるけど……それでも、これはちょっとどうなのよ」
「私もそう思う。ルシェラ、もっとはっきり拒んだ方がよいと思うが。それでは鬱陶しかろうに」
──ええ……でも…………リファスはわたくしをお気遣い下さっているだけですから……──
 苦笑しているものの、その表情は非常に柔らかく幸せそうだ。
 国にいた頃の側付き達は何処か乾いて事務的だった事に対し、多少度が過ぎていると思うがリファスの想いは温かく何処までも優しい。
「…………もういい。勝手にしろ……」
 付き合うだけ疲れる。
 サディアとエルフェスは顔を見合わせ、揃って溜息を吐いて肩を落とした。
 そんな二人も視界に入らない様子で、リファスはルシェラの足下に片膝を立てて跪く。
 恭しくさえ見える様にルシェラの足を持ち上げ、立てた自分の膝の上に乗せた。
──これは?──
「裸足じゃあ……庭ならともかく、表に出るのは危ないからな。足に合うといいけど」
 よく鞣した柔らかい革で作られた華奢な作りの靴だ。とりあえずはそれなりの年齢の男故に長さはあるが、幅は細く甲も薄い。
 そっと足を持ち上げて足を差し入れる。
「靴屋のおじさんにはちょっと無理言ったけど……さすがの俺も靴までは作れないからな。硬くて痛かったりしないか?」
──ええ、今のところは……立ってみなくては分かりませんけれど──
 靴らしい靴を履くのは初めてで、感覚がなかなか掴めない。
 紐を編んだものを履いた事はあっても、それでどれ程歩いたかと問われると答えに窮する。
 両足に履かせて貰うと、足先をリファスの膝から降ろし、椅子の肘置きに縋りながらそろそろと立ち上がる。
「大丈夫か? 足の寸法は、十分に測ったつもりなんだけど」
──ええ……大丈夫だと思います……──
 手を肘置きからリファスに移し、その肩に置く。体重を全て預けるかの様に力が込められる。
「無理はするなよ」
──はい──
「痛くないか?」
──ええ。特に問題はなく思います──

 たかが靴一足を履くだけで一大行事だ。
 女二人は複雑な表情のまま二人を見守る。
 殊にサディアの表情は固く、唇は引き結ばれていた。
 漸く靴を履いた足で立ち上がり、リファスと腕を絡め合って歩き始めるルシェラを見ても、全く表情は晴れなかった。
 ルシェラが嬉しそうな様子を見せる度に、サディアの口の中に苦いものが広がる。
 思わず目を反らしたサディアの肩を、エルフェスはそっと支えた。
「…………エルフェス殿……」
「見ていて差し上げなくては」
「分かっている…………だが…………こんな些細な事が、ルシェラにとって珍しい程の喜びだと、知りたくなかった……」
「これが普通の事であるとご理解頂くのが、周りの者のすべき事でしょう。これからですわ」
「…………エルフェス殿はお強い方だ……」
「さあ、お外へ行ってしまいますわ。わたくしたちも参りましょう」

 リファスの腕に縋りながらも、一歩一歩ゆっくりと足を進める。
 開けた玄関の扉から、ささやかな風が吹き込んでいた。
「門が見えるだろ。あそこまでがうちの敷地。あれから先が本当の外だよ」
 リファスの足で普通に歩いて二十歩ほどの距離。それがルシェラにはひどく遠く思える。
 門から玄関までは薄く切った石が美しく並べてある。その周りには背の低い花々が植わっていて、一部は今まさに花の盛りを迎えていた。
 薄曇りではあるが気温は比較的温かく、空気は乾いて心地いい。
 ルシェラはそっとリファスから手を放した。
「直ぐ後ろにいるから。大丈夫だよ」
──ええ……──
 扉の把手に手をかけ外を見詰めて真っ直ぐ立つ。
 小さく息を吸い、一歩、踏み出す。
 リファスの優しさと靴屋の職人芸の詰まった靴は、ルシェラの足を優しく包んでいた。
 探り探り歩を進めるルシェラの直ぐ後ろに立ち、リファスはひどく心配そうだ。
 サディアとエルフェスも更にその後ろについて、らはらと見守る。
 歩き始めたばかりの赤子を見守る一団の様に、それは微笑ましい光景でもあった。だが、その見守られているのが十四の年ももうじき終えようと言う少年である事に、いささかの悲しみも覚えないわけにはいかなかった。

 距離を考えればひどく長い時間が過ぎる。
 偶にふらりと蹌踉めく事はあっても転ける事はなく、ルシェラは無事に門に手をかけた。
 肩が浅く早く上下している。
 リファスはその華奢な肢体を後ろからぎゅっと抱き締めた。
「よく頑張ったな。縋るところもなくって…………」
──……いいえ…………。ここまでが、結界の中なれば…………──
 荒い呼吸を繰り返しながらもルシェラはきっぱりと顔を上げ、門の向こうを見詰める。
 往来は丁度人の切れた時間で、人気はなかった。
 ほぼ街の中心ではあるものの面しているのは表通りではなく、また、商業施設などからは少し離れている為に一日中そう騒々しい場所ではない。
 ルシェラは再びリファスを払うと、僅かに摺り足で門の外へ出た。

──え、っぁ…………あ…………──
 はっきりと、ルシェラの身体が震える。
 頽れそうになる身体をリファス咄嗟に支えた。
「ルシェラ!?」
──ぁ…………あ…………──
 視線が定まらず宙を彷徨う。
 リファスは咄嗟にルシェラの身体を門の中に引き摺った。
「どうした!」
 サディア達も駆け寄る。
 ルシェラははっきりそれと分かる程に震え、リファスの胸元に顔を埋めた。
「ルシェラ?」
──…………な……に……………………──
 ルシェラは悲鳴にも似た感覚を皆に伝える。
 サディアは思わず往来に飛び出した。
 周りを見回す。人気はまだない。
 ただ、周りを囲む建物の向こうは大通りで、往来もそれなりにある事は分かった。
 煩雑な人々の気配と思いが流れている。それは、街の中であれば当然のものだった。リファスにはそこまでの感覚はないしエルフェスやサディアは馴れて気になどならなくなっている。
 だが、ルシェラには未知のものだった。
 王宮の敷地の中でも辺鄙な場所へなど知った者しか事なかった。場所を移されては、余計に人など来なかった。
 この街へ来た時は早朝で人通りなど全くなかったし、その後はまともに敷地の外へも出ていない。
 サディアが言う程の悪意は感じなくとも、ただ入り込む人の心に混乱する。
 震え、怯え、リファスにただ縋る。
「…………言ったろう。緩衝材があればこそ、今までお前は堪えてこられた。これより外へ出るには、お前は馴れなくてならないのだ」
 ルシェラに触れ、サディアはそっと髪を撫でた。
「家の中へ。ここでも、今のルシェラには辛かろう」
 立たせようとするサディアに対し、リファスはそれを振り払ってルシェラを抱き上げた。


作 水鏡透瀏

1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12/13/14/15
16/17/18/19/20/21/22/23/24/25/26/27/28/29/30
31/32/33/34/35/36/37/38/39/40

戻る