「んー、じゃあ、まずは好きな食べ物からな。何が好き?」
 無邪気な問いに、ルシェラは悲しげに首を振った。
「ない? それじゃ、好きな味は? 甘いとか、辛いとか……酸っぱいとか、苦いとか」
 変わらず首を横に振る。
――分かりません……――
「食べ物を口にした事がない、とは言わないよな。どんなもの、食べたことある?」
 ルシェラは小さく首を傾げた。
「ティーアの主食って何だっけ」
――粥以外には存じません――
「……そっか…………」
 ルシェラの口調はにべもない。
 リファスはそれでもめげなかった。
「果物とか、何が好き?」
 気を取り直し、質問を続ける。
 食べ物の話題ばかりと色気の欠片もないが、一番共通しやすい話題だ。リファスの興味にも一致している。
 しかし、ルシェラは再び首を傾げた。
 それを見て、リファスは眉を顰める。
 呆れただとか、そういった感情ではない。
 禁じえない同情と、ルシェラのこれまでを慮る事が出来なかった自分への後悔だ。

「ごめんな。食べられそうなら後で幾つか持ってきてやるよ。丁度庭にも少し生ってるのがあるし」
――あぁ、――
「何?」
――大変、幼い頃……挽いた麦を水で練って焼いたものなど……食した覚えがございます――
「ああ、それ、美味しいよな」
 他に入っていたものがあるとか、発酵させるのだとか、些末事はどうでもいい。長い言葉で応えてくれた事に嬉しくなる。
――とても……ミルザの携えてきたお食事は、どれも……大変味わい深いものでございましたから――
「ミルザ、って、ばあやさんとか?」
 母を呼ぶ呼称ではない。それがしっくり来るように思えた。
――ええ…………――
 ルシェラは悲しそうに、遠い幸せを見詰める様に微笑んだ。

「その人、他にどんなものを持って来てくれた?」
――様々に……。どの様に工面したものかは存じませんが…………けれど、もう…………余りに遠き記憶ゆえに、その味わいの詳しい事は思い出せません……――
 美味しかった。ミルザの与えてくれるものなら、どんなものでも。そうとしか表現出来ない。
 それは全てがルシェラの数少ない幸福の記憶に直結していた。

「……ミルザさんが作ってくれた料理には程遠いかもしれないけど……良かったら、俺が作ったのも食べてみてくれないかな」
 それとなくルシェラの想いを感じ、言葉を選ぶ。
 ルシェラは戸惑いを隠せない。口から食事を摂る、その一連の行為を既に忘れかけている。
「冷めちまったな。温め直して来ようか」
 側に置いてあった重湯を一匙掬い軽く唇を付ける。僅かな温かみが残っているが、それだけだ。
 と、ふと、ルシェラが幽かに動いた。
 リファスの唇の真向かいへ唇を寄せる。紅い舌が僅かに覗き、少しばかり重湯を舐め取る。
 睫が触れ合う程に……顔が近付く。
 伏せがちに瞳が間近に迫る。
 リファスは魅入られた様に動けなかった。
 そんなリファスを他所に、ルシェラは続いてはっきりと匙に口を付けた。
 微かに、唇が、触れ合う。
 状況を理解するより先に、かっと頬へ血が昇った。

 男の唇だ。
 そうは思っても、嫌悪感など微塵も浮かばない。
 ただ、微かにも触れた温かみが心地よかった。
 じわりと、そこから優しい温もりが広がっていく想いすらする。

――……ミルザと……同じ味の様に……感じます……――
 声がし、我に返る。
 ルシェラは嬉しそうに微笑んでいた。
――大変、美味しく思います。もっと……頂けますか――
「あ、ああ、直ぐに……冷めちまってるけど、いいのか?」
――充分に……温かみのあるものを口にする事は稀でございますから……――
 一匙を掬ってルシェラの口元まで運ぶ。
 薄く開かれた唇の間へ、匙を傾ける。
 少しして、こくり、と喉が上下するのが分かった。
 僅かに重湯の付いた唇がふわりと微笑む。
 手拭で軽く口元を拭ってやる。
 釣られて微笑が浮かぶ。心に暖かいものが満ちていく。
 もう、一匙。
 ルシェラはまた、ゆっくりと、けれどもしっかりと、飲み込んだ。

 手が伸び、匙に手が添えられる。まだ匙を支えられるだけの力はない様だったが、食欲がある様になっているのが嬉しい。
「ゆっくり、な。腹がビックリしちまうから」
 掬った粥を口まで運んでやる。
 ルシェラは素直に口を開けた。
 小鳥に餌をやっている気分になるが、それでもつい先程まで拒んでいたものを受け入れてくれている。
 食事を取れるなら、体力の回復もまだ見込みのある話だろう。

 固形が分からない程に炊かれた重湯は、ルシェラが毎日のように口にしてきた唯一の蛋白源にも少し似た食感で、飲み込み易い様だった。
 それとこれとを一緒にしてはリファスが気の毒だが、ルシェラのこれまででは仕方のない事だ。
 あれのお陰で、重湯もそう胃に辛いものではない。
 素直に喜べないにはしても、僅かな利点はあったものだ。

 リファスの与えてくれる食べ物は、とても優しい味わいだった。
 飲み込む度に口の端に笑みが満ちていく。
 ずっと怯えや警戒心を剥き出しにしていたルシェラの様子の変化にリファスは満足する。
 料理が好きなのは、音楽に通じるものがあるからだ。
 どちらも、人を幸せにする力を持っている。
 食事はただ腹を満たして生命を維持していくだけのものではない。
 美味い食べ物とそれを共有する人と、暖かく楽しい会話。
 その全てを提供したい。それが、自身の天職なのだ。それに繋がる事なら、何にでも挑戦してみたいものだと思う。

 半分程口を付けた所で、ふとルシェラの口が閉ざされる。
「お腹一杯になった?」
 こくりと頷きが返る。
 当分たいしたものを食べていなかったなら、これでも食べ過ぎたくらいだろう。
「よく食べました。胃が慣れるまでは暫くこんな感じだろうけど、少しずついろんなもの持って来てやるよ」
 ルシェラは微笑み頷く。
「顔色も大分良くなったし、この調子ならきっと大丈夫だよ」
 皿と匙を置いた手が頬に添えられる。その温もりにルシェラは目を細めた。
 何をされても全てが優しく暖かい。「幸福感」とはこの様なものではないかと、思うとはなしに思った。

「あんたにもし……行くところがないのなら…………ずっとここにいればいいよ。俺が側にいるから。俺が、あんたの居場所だから……」
 口元を拭い、少ししっかりと抱き寄せる。
 髪に頬を寄せる。香料ではない……けれども、立ち昇る様な良い香りがしていた。
――貴方は……何故…………――
「あんたを知ってる気がするんだ。全然……覚えてもないんだけど……でも……あんたを放っておけない」
――わたくしは……そこまでお心砕き頂く程の存在ではございません……――
「それを決めるのはあんたじゃない。俺だ」
――貴方はわたくしの何をご存知なのです。何もご存じないのに、何故そうまでわたくしに執着なさるのです――
 執着される事が怖い。
 これまでの生活の全てが、ルシェラの中に恐怖心だけを植えつけている。
「執着……なのかな。そう取られても仕方ないかもしれないけど……あんたが嫌ならいいんだ。無理にとは思ってない。でも、そんな身体のあんたを一人にするなんて事、俺じゃなくたって出来やしないと思うんだけどな」
――わたくしの事など、お捨て置きくだされば宜しいものを――
「まだそんな事言ってるのか」
 呆れた思いがするが、それを直ぐに収める。
 分かっている筈だ。苦しみを感じていないわけがないのだから。今だとて、体調は改善されたかもしれないが匙の一つも持てない。そんな身体で、一人何処へ行こうというのか。
「どのみち、自力で歩ける様になるまではここにいるしかないだろ?」
――……はい……――

 ルシェラは憔悴しきった様子で俯いた。
「ゆっくり体力つけて、歩けるようになったら……せめてティーアまで送ってやるから」
――……いいえ、それには及びません。……分かって……いるのです……私に帰る場所などない……ごめんなさい。それでも、わたくしは……ティーアに対する責任を果たさなくてはならない……――
 再び涙が溢れた。
 リファスは繰り返し髪を撫で付け、落ち着かせようと試みる。
「責任って?」
――わたくしは、国にあり、国を守らねばなりません。……それは最早不要の事なのかもしれませんけれど……でも、わたくしは…………そう、きっと、自分にも役割があるのだと、信じたいのです……――
 宝玉の様な瞳が僅かに上げられ、リファスと視線を交わす。
 それは数多くの躊躇いに揺れていた。
「帰る場所がないのに、国にあって国を守る……って、何か矛盾してないか?」
 ルシェラは唇を噛み、再び俯く。
 リファスに縋る指が小刻みに震えている。
 考えたくない事だった。目を反らしていたい事だった。
 国を守る、そう思う事で自我を保っていたが、最早その役割を果たさなくなって久しい。
 考える事すら放棄していた。
 現金なものだ。満たされ始めると、直ぐ様自尊心を守ろうとする。

 自分自身に対する嫌悪感が込み上げ、思わずリファスを突き放して身を翻し、掛布を頭まで被って丸くなる。
 視界が閉ざされ音も聞こえなくなったのは幸いだった。
 リファスの優しい力を感じていると、余計に我儘が過ぎてくる気がする。
 贅沢を言える身ではない。甘えてもならない。この身に許される事ではないのだ。
 今しがた飲み込んだばかりの重湯が喉元を駆け上ってくる。
 気分が悪かった。
 口に至る前に何とか飲み込んだが、それでも胃の違和感が消えない。
 痙攣する様にえずいた。

 ルシェラの突然の変わり身が理解できず、リファスは取り残された気分で丸まったルシェラを眺めていたが、掛布を挟んでも分かる症状の変化に慌てて背を撫でる。
 顔を見せたくないならそれもいいが、布が掛かったままでは呼吸も苦しいだろう。
 そっと布を引き剥がす。
 血の気の引いた顔。繰り返される嗚咽。咄嗟に口元の下へ手拭を敷いた。胃の中の物はさっき飲み込んだ重湯が少しと胃液だけだろう。
「吐いた方が楽かもしれないぜ」
 背を繰り返し撫で摩る。
 ルシェラはそれでも、ぎりぎりの所で踏み留まっていた。
 無意識にリファスの手を払う。
 全ての仕草が悲しい。

 リファスは焦れたがこれ以上無理にどうこうする事も出来ず、自分の不甲斐なさに歯噛みする。
 状態が行き来している。
 浮上したかと思えば直ぐにこの様だ。
 急いてはならない。ルシェラを蝕むのが身体の病だけではない事は、既に充分に分かっている。
 身体の病ならまだ、症状を和らげる手立てもあるだろうし、世界でも屈指の医家の血を引く身としての自負もあり何とかしてみせようとも思う。
 しかし、心ばかりは……。
 心の病も種類によっては薬のある場合もある。
 だが、ルシェラはどう見ても、その程度で済む様には思えなかった。
 時間が必要なのだ。
 されども、ルシェラには潤沢な時間がある様でもなかった。

 彼にとっての幸せとはなんなのだろう。
 口元が唾液と重湯とで糸を引いている。息が詰まらない様に、軽くうつ伏せにしてやる。
 汚いとは思わなかった。
 ただ、いとおしい。
 双眸から涙が溢れて来るに任せる。
 守らなくてはならなかったのに守れなかった。
 それも、こんなになるまで……側にもいてやれず。
 自分は何の為に生まれてきたのだ。この命は、きっと、この人の為の物だろうに。
 考えが突飛だという事にも気がつけない。
 リファスは既に、心をルシェラに支配されていた。
 その言葉程には苦しいものではなく、むしろその支配が心地いい。

 守りたいものをやっと手に入れたのだ。
 もう誰にも邪魔はさせない。
 ルシェラの身体や心も同じ事だ。
 守って行こう、包んで行こう。
 それが、自分の役目なのだから。


作 水鏡透瀏

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