「っ!!」
 ガラン、と派手な音が台所に響く。
――あ……あ……――
「ああ、ごめん。怪我はない?」
――…………はい……申し訳ありません……――
「気にすんなよ。姉貴なんてもっと酷いんだぜ」
 転がった薄手の金属製の鉢を拾い上げ、ルシェラに微笑みかけて見せる。
 中身は細切りにして揚げた根菜だった。汁気もなく、掃除にそう手間はかからない。
「ごめんな、お前には少し重かったよなぁ」
 慌てて首を振る、すっかり萎れてしまったルシェラの頭を優しく撫でる。
 そして、自分の手元にあった別の鉢の中身を一つ抓み、ルシェラの口に放り込む。
 さくさくとした食感だが唾液と混じると溶けていく。口内に柔らかな甘みが広がった。
「ん……」
 食したことのない、けれども甘くて美味しい味わいにルシェラは目を細める。
「ちょっと待ってて。直ぐ片付けるから」
 流しに落ちた鉢を置き、手際よく床を片付ける。板張りのそこはそれなりに掃除しやすい。
 手を洗い、まだ硬直しているルシェラの手をそっと包む。
「初めてだもんな。少しずつ慣れればいいんだ。俺だって、最初の頃はよく手を切ったり、いろんなもの床に落としたり……大変だったんだぜ」
 細い指を開かせ、手を拭う。

 椅子に座り、作業台や流しに寄り掛かりながらリファスに全てを任せる。
 リファスが作り出していく菓子や食事を眺めるのは、実に興味深く楽しい事だった。
 自分が何も知らなかった事を知らされる。その事は悲しく恥ずべき事の様に感じたが、それも今は昔。そう思えば興奮もしよう。
 だが、その昂じた気分が、ルシェラの身体には多少障った。
 僅かに動悸が上がっただけでも手が振るえる。それが折り悪く、リファスがルシェラにも出来る仕事と頼んだ根菜の揚げ物に塩をまぶす作業に当たってしまったのだ。
 気分がいいとはいえ、自力のみで身体を起こせる程ではない。リファスもそれは分かっていた。ただ、ルシェラに出来る事を試させてやりたかっただけだ。
「後はこれを窯に入れるだけだから。焼き菓子と飲み物でのんびりしよう。さっき口に入れてやったの、飲み込めただろ?」
――ええ……――
 硬い乳酪を卸したものをかけた魚を乗せた耐熱深皿を火を起こした窯に放り込む。
「先に食卓に行こうか」
――はい――
 背に腕を回され、ルシェラは迷うことなくリファスの肩に腕を伸ばした。
 軽々と抱き上げられる。
 うっとりと肩に頭を預け、リファスを見上げる。
 精悍で美しい。
 口元に笑みが滲むのを、止められはしなかった。

 と。

「リファスー、ここなんでしょー、何か飲み物と食べ物出して」
 台所から他へ繋がる扉が突然開く。
 ルシェラは思わずリファスにぎゅっと縋りついた。
 いきなりの事に身体ががたがたと震え始める。
「あ、エル姉? 仕事は?」
 ルシェラを抱き直し宥める様に背を撫でながら、リファスは何とか応じる。
 この次姉は行動がいちいち唐突で脈絡がない。
 巫女の衣装の上から軽く薄手の外套を羽織っただけの姿で現れている。そして、悪びれもせず応えた。
「忘れ物。そしたら、いい匂いがしてきたから、何か抓んでから戻ろうと思って」
「……菓子が少し焼けてるよ。飲み物は適当に」
「昼ごはんがお窯に入ってると見たけど?」
「…………エル姉は職場で出るだろ。これは俺達の」
「俺、達…………あ、あら」
 反応が鈍い。エルフェスは漸くリファスの腕の中で小さく震えている存在に気付いた。
「ごめんなさい。ええと…………」
「いいから、適当に抓んでさっさと戻れよ」
「あんたは黙りなさい!!」
 姉を押しのけようとしたリファスを突き放し、エルフェスは一歩近づいた。
 ルシェラを凝視している。
「この子…………いえ、この方は…………」
 妙に真面目な表情をしている。
 ルシェラが明かした身分についてはリファスと母のエリーゼが知るばかりで、エルフェスが知る由もない。
 そして、一週間を過ごしていてもルシェラが部屋を出たのは初めてだ。当然ながら顔を合わせるのは初めてだった。

「……エル姉、何か分かるのか?」
「……………………まさか、ね…………」
「言ってみろよ」
「私は預言者じゃないもの。はっきりした事なんて分からない。でも……感じるの」
 そう言いながら、エルフェスはすとんと床に跪いた。
「間違っていたらごめんなさい。でも……貴方は、リーンディル神殿に繋がるお方ではありませんか?」
 この次姉の改まった姿など初めて見る。
「…………分かるのか?」
「お前には聞いてないわ。…………お答えください」
 ルシェラをそっと椅子に戻す。
 縋る手は離れなかった。身を捩り、身体すら離そうとはしない。
 リファスの腹に顔を押し付け、エルフェスから逃げる様な仕草を取った。
「エル姉、いいだろ、そんなこと」
「良くないでしょ!」
 国で一番の奉納舞の踊り手であるエルフェスの、巫女としての力は非常に高い。空の神殿の巫女舞には定まった振りはなく、感じるままに舞う。その美しさは、巫女の力次第だと言われていた。
 その感性が、ルシェラの存在を感じさせる。
「母さんには言ってある。ティーア大使館に問い合わせもしてる。充分だろ」
 ぎゅっとルシェラを抱き締め、宥める様に髪を撫でる。
「……この方なの、あんたが広原で拾ってきたって……お母さんは、知ってるの?」
「信じてないけどな」
「…………そんな…………」
 エルフェスは形のよい眉を顰めた。
「分かってるの? こんなお方が我が家にいるって言うのが、どういうことか!」
「……分かってるよ」
「分かってないわよ!」
「分かってるって!!」
 より強く、二度放さないと誓いを立てるかの様に腕の中の存在を抱き締める。
「……犬や猫とは違うのよ。そのお方は……世界の根幹に関わるんだから」
「ルシェラはティーアの国守様で王子だ。だからどうだってんだよ!!」
「…………だから子供は嫌なのよ」
 苦々しく舌打ちする。
 エルフェスの眦がきりきりと吊り上がった。

 姉弟の間の空気が見る間に険悪になっていく。
 ルシェラは堪え切れず、リファスから必死で身体を離した。
「ルシェラ……?」
――お姉上様の仰せになられる事は当然でございましょう――
「なに言い出すんだよ!!」
「…………リファス?」
 ルシェラの声はエルフェスには聞こえない。怪訝そうに弟を見遣るが、リファスは手一杯でそちらにまで意識が向かない。
――ですから、お捨て置き下さるよう幾度も申し上げましたものを――
「馬鹿! お前を一人にしたらどうなるか……」
――わたくしは、寿命の他の事由により死ぬ事は許されておりません――
「そういう問題じゃないだろ」
 ルシェラの細い両の肩を掴み、目を合わせ怒る。しかし、ルシェラは何の感慨もない目で真っ向から見詰め返す。
 リファスが、何に対して怒っているのか全く理解できなかった。

「リファス! 私にも分かる様に説明しなさいよ!」
 一人蚊帳の外に置かれていたエルフェスが声を荒げる。
 ルシェラの手がエルフェスへ伸びた。
 感じるものはリファスと良く似ている。通じ合える確証があった。そして、リファスの言い分が理解出来ないからには、縋る相手が欲しかった。
――わたくしの名はルシェラ。ティーア・ノーヴ王国第一王子にして国守。リファス殿の姉上様、お聞こえになられますでしょうか――
「っな、ぁ……」
 びくり、と大きく身体が震える。その自分の反応が理解しきれず、エルフェスは大きな目を更に見開いてルシェラの顔を仰ぎ見た。
 ルシェラの指先は極軽く肩先に触れているだけだ。しかし、ひどくはっきりとした声が脳裏に響く。
――姉上様の仰る事は全てに於いて正しく、疑いようのない事でございましょう。国より捨て置かれるやも知れぬこの身なれど、そうならなかった折に、貴方方へ降りかかる災厄に身が震える思いが致します。弟君には、わたくしをこのまま何処かへお捨て置き下さる様にお願い申し上げているのですが、聞き入れて下さらないのです……――
 エルフェスは深く首を垂れた。そうせずにはいられなかった。降る様な声は余りに美しく荘厳で、神聖だった。
「っ」
 急にルシェラはエルフェスから引き離される。
 リファスが腕を回し、自分の方へ引き寄せる様に抱いている。
 ルシェラは不思議そうにリファスを振り返った。

――せっかく姉上様とお話を致しておりましたのに――
「どうせ下らない事言ってたんだろ。捨てろとか何とか」
 リファスの言い草に、ルシェラの顔から一瞬にして血の気が引いた。眉を顰め、それきり黙ってしまう。
「……ルシェラ?」
 リファスの腕から逃れようと藻掻く。しかし、血の気の引いた身体ではさした身動きも出来ない。
「リファス、腕を緩めなさいよ。嫌がっていらっしゃるじゃない」
「……嫌だ」
「馬鹿言わないのよ」
 リファスの腕を掴み、爪を立てる。リファスは顔を顰め、渋々腕の力を緩めた。
 途端にルシェラはリファスから逃れ、思わずエルフェスに倒れ込んだ。
「あら……」
 エルフェスでも受け止め切れる程、ルシェラは軽かった。
 縋る手も少女のそれよりずっと華奢で、庇護欲をそそられる。
 思わずかたかたと震える背を撫でる。弱く嫋やかな生き物だった。
「怯えていらっしゃるの……?」
「エル姉、離れろよ」
「いい加減にしなさい。怖がってるじゃない」
 エルフェスからは女性らしいいい香りがする。こんなに女と密接に触れ合ったのは九年ぶりにもなるが、それが故に女に抱く幻想がより想起された。

「下らない事、って言ったわね、お前。下らなくなんてないわよ、この方が仰った事は……」
 蒼白で震えているルシェラの様子を伺いながら言葉を選ぶ。
 巫女として神殿に仕え、地域住民の精神的基盤である自覚もある。人の心には多少敏感な自負があった。
 それはリファスも同じ事だか、いかんせん、年齢……ひいては経験が違った。この齢のニ、三歳というものは、それなりに大きい。
「お前にも仰った事があるんでしょう? その言葉を言うまでに、どれだけ思い切った物事があると思ってるの……」
 リファスの視界から遮る様にルシェラを抱き寄せる。
 ふくよかな胸にルシェラの顔が埋められた。
 柔らかい、暖かい。
 ルシェラは目を閉じた。
 暖かいものに包まれ、安心する。
 落ち着いた様子になったルシェラに、リファスは唇を噛んだ。
 そんな安らぎをルシェラに与えてやるのは、自分一人で十分だ。
「離れろよ、エル姉」
 自然に声が低くなる。
「…………いい加減にしなさいって言ってるでしょ。この方の言う通りにできないからには、私達みんなでお守りして、ティーアなりリーンディルなりへお連れしなくてはならないんでしょう? お前一人でどうこうしようなんて、思い込まないでよ」
 手触りのよい髪を繰り返し撫でつけ宥めながら、エルフェスは弟を睨んだ。
「でも、」
「……分からない子ね」
「大使館からだって、何も言ってこないじゃないか。だったら、ルシェラはどこにも行く必要なんてない。俺が全部面倒見て、ずっと側にいてやるんだ」
「馬鹿! ここにいて何をして差し上げられるって言うのよ。せめてラーセルム王家にご連絡して、御身を引き受けていただくのが筋でしょう」

 子供と話すのは苛々する。
 エルフェスは大きく溜息を吐いた。
 「下らないこと」そのただ一言での怯え様を見る限り、国守の身分も王子としての身分も信じがたい。ただ、エルフェスの巫女としての力が、ルシェラの持つ運命をそれとなく悟らせる。
 ルシェラから聞こえた言葉も、ルシェラが国元でさした保護も受けていない事を示している。
 だからと言って、リファスの言い分も行き過ぎている様に思えた。
 全部面倒を見て、ずっと側にいる。
 子供の言い草だ。
「それが出来ないなら、神殿でお預かりするわ。一般民家にこの方がいらっしゃればどうなるか、お前だって想像くらいつくでしょ?」
 下手を打てば、どの様な罪をでっち上げられるか分かったものではない。
 ルシェラを守る意味もあるが、それ以上に、この家を守らなくてはならないと意識が告げる。
「お前一人には任せて於けないわ。他人の心を考えられない人間に、この方の面倒は見られない。お前も吟遊詩人なんて名乗ってるんなら、少しは考えなさいよ」
 口の悪い姉に言われたくはないが、ルシェラを怯えさせたのはリファスの不用意な一言だ。それを思えば、反論の余地もない。
 リファスは口を噤んで俯いた。

「とりあえず、司祭様に相談してみるわ。お前は言葉にしっかり気をつけて、この方をお守りしてなさいよ」
「……分かったよ」
 むくれながらも了承する。エルフェスに主導権を握られているのが面白くない。
「ルシェラ猊下、大変ふつつかな弟で申し訳もございませんが、暫くご辛抱くださいませ」
 優しく髪や背を撫で、諭す様に言う。ルシェラは潤んだ瞳を上げ、エルフェスを見詰めた。
 リファスに触れている時より視界も暗く声も遠いが、全く閉ざされている訳ではない。微かに聞こえたエルフェスの声に、暫く考えた後、小さく頷いた。
 エルフェスに縋っていた手指を一本一本ゆっくりと開く。
 リファスの顔は見られず俯いたが、それでも、促されるままにリファスの腕に触れる。
 リファスの持つ独占欲が恐ろしかった。
 セファンとの日々がルシェラに重く圧し掛かってくる。
 震え、怯えながらも人に縋るしかない自身が堪らなく不甲斐なく辛かった。

「じゃあ、私は一旦神殿に戻るから」
「ああ…………さっさと戻れよ。忘れ物取りに帰っただけだったんだろ」
「あ! そう、だったわね。忘れてた。…………あら?」
 ちりん、と遠くで鈴が鳴っている。
「お客さん?」
 玄関の呼び鈴だ。診療所のものとは音色が違う。
「はぁい」
 リファスに預けたルシェラを心配そうに見遣りながら、エルフェスは玄関に出た。


作 水鏡透瀏

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