「はぁい、どちら様ぁ」
「私だ。……エルフェスか?」
聞き慣れた声がする。
「何だ、お姉ちゃん。何で呼び鈴なんて鳴らすのよ」
疑いもせず玄関の扉を開ける。
「あ……え? あ、あら……」
「お前こそ、この時間に何故家にいる」
「忘れ物を取りに帰っただけ。それより、」
「ああ、お客様をご案内した」
町の衛兵をしている長姉エリファの予想通りの姿はあったものの、その背後にとてつもなく見慣れない馬車がある。
一地方領主程度では乗る事など許されないであろう。実に瀟洒で重厚なものだった。
「お姉ちゃん、これって」
「ティーア王国駐ラーセルム大使、ノーヴェイア卿だ。我が家を訪ねてあらせられた。母さんを呼んでくれ」
「大使様ご直々に!? 直ぐに呼んで来るわ。リファス!!」
弟を呼びながら家の中へ駆け戻る。
リファスはまだ台所で、ルシェラを抱きかかえていた。
「静かにしろよ」
「その方を連れて応接室に行きなさい」
「何で」
「ティーアの大使様がお見えになったの」
リファスと、その腕に抱かれたルシェラの身体が同時に強張る。
「…………マジかよ……」
ルシェラの様子を伺う。
ルシェラは、顔を上げようともしない。
「…………ルシェラ……行けるか?」
やはり反応はない。
「ルシェラ…………」
「いいわ。大使様には申し上げておくから、ゆっくりなさい。私はお母さん呼んで来るから」
震え、怯えきっている。無理を通せそうにはない。
エルフェスが部屋を辞すと共に、ルシェラはリファスに強く強く縋りついた。
期待はしていたが、望んではいなかった事だ。
「……無理はする必要ないからな」
頷きすら返らない。
ルシェラには、状況と自分の感情を処理する事で一杯だった。
この幸福感は、ここにいなければ与えられないものだ。しかし……。
セファンに平身低頭して謝れば、再び声掛けがある程には許して貰えるかも知れない。その微かな期待が、ルシェラに全ての決断を鈍らせる。
このまま逃げては、もう二度と……月に一度の逢瀬すらなくなるのだ。
たとえこの身体のみを求められているのだとしても……それで、セファンはルシェラを忘れたわけではない。そう、それを確かめる事だけが、ルシェラをルシェラとしてこの世界に繋ぎ止めているものかの様に感じる。
リファスに対する可能性は、ただの可能性であり、確信ではない。
セファンが触れる事は確信だ。この顔がある限り……どれ程の逆鱗に触れようとも、一切触れられもしなくなるなどという事はあり得はせまい。
まだセファンを信じていた。
セファンにとって気に入らぬ事を一つ一つ改善して行きさえすれば、きっと、いつか。
暗く冷たい場所で一人待つ事も、見ず知らずの男達に身体を開き僅かな温もりと命を得る事も、思い出すだに身が震える。
それでも。
それでも……男達を宛がってまでルシェラを生き延びさせている。セファンはまだ、ルシェラに死ぬ事をよしとはしていない。
生きさせようとしているという事実。セファンが口でどの様に命じようと、ルシェラの心はセファンから離れる事が出来なかった。
――…………参ります……――
「行けるのか?」
――はい……――
強張っている腕を何とかリファスから離す。
「着替えはないけど、髪くらい梳かして行こうか」
――ええ……――
大使が誰かなど知らないが、見っとも無い姿は見せたくない。
椅子に縋って立ち上がろうとしたが上手くいかない。見かねて手を貸した。
「ちょっと待ってて、洗面台に椅子を用意してくるから」
――ええ――
リファスが用意をする間に、そっと手を伸ばして作業台の上を探り、指先に触れた鉢の中の菓子を一つ口に入れる。
醜態を晒したくない。少しでも摂取できるものは摂取しておきたかった。
大使というものは、他国において国王の名代である。セファンの名代、そう思えば、虚勢であっても自分を保っていたい。
「お待たせ」
椅子を出すだけの行為。直ぐに戻ってくる。
移された洗面台の前の席で、十分に櫛を通される。
「会わせたくないな、大使様になんて……」
――……一週間を経て、やっとお越し下さったのです。貴方の母上様もこれでご安心なさる事でございましょう――
「…………これで、俺達……お別れなのかな……」
――………………貴方について来て頂きたいとは申せません。しかし……それ以前に、大使がどの様な話をしに参ったのか、それを聞かぬ事には……――
横髪を櫛で後ろへ撫で、首の根辺りの位置で全てを纏めて濃紺の幅の広い絹紐で止める。
「……ああ、こうしてると……ちゃんと男に見えるな」
後ろから手を添え、ルシェラの頬に触れる。ルシェラは顔を反らせ、リファスを見た。
「いっそ、俺の正装でも着てみるか? 寸法は全然合わないだろうけどさ」
――面白いですね……。しかし、これ以上お待たせするわけにも参りません――
自力で立ち上がろうと試みる。しかし、直ぐにその場へ頽れ椅子に縋った。
「大丈夫か!?」
――…………ふふ……ふふふふふふ……――
「ルシェラ?」
洩れ聞こえる笑いに、刹那支える手が退ける。
――……馬鹿馬鹿しい事――
「どうした?」
――身なりを整え、髪を梳ったところで、わたくしにはこの足で立つ事も出来ない。食事を摂っても同じ…………虚勢を張ったところで無意味だというのに、わたくしはそれでも……まだこの足で立つ事を望んでいる――
「当然だろ、人なら」
――人?……そうであれば、どれ程良かったことか……――
リファスに手を伸ばす。縋りながら、再び立ち上がろうと試みる。
――貴方がわたくしを助け続けて下さった事に対し、わたくしは心よりの感謝を申し上げます。貴方にお会いできて、本当に良かった。……貴方の助けがあったればこそ、わたくしは、少しでも人に近づく事が出来た――
立ち上がりかけた膝が震えている。
再び倒れそうになり、リファスは抱き止めた。
「…………行かせたくない」
髪に口付ける。
「どうしても、行かなきゃ駄目か?」
――わたくしにはわたくしが歩まねばならない道がある。それは、ここにいては果たせぬ事なれば――
ルシェラは晴れやかな顔で微笑んだ。
そうして、リファスの服の袖を軽く引く。
――お連れ頂けますか? わたくしには、どのお部屋か分かりませんから――
「あ…………ああ…………」
リファスには、それ以上何も言えなかった。
ルシェラの顔つきは既に、自ら動く事を諦めリファスに全てを委ねていた時のものから一変している。
一週間を共にしながら、これ程に意志のある強い瞳を初めて見る。
リファスの袖を抓みつつ、ルシェラはリファスから身体を離す。
縋らない様に、両足で立とうと試みる。
均衡を取る為に足を軽く開き、拳を握っていた。
膝は酷く震えている。一歩踏み出すだけでも、この弱々しい身体は崩れ落ちてしまう事だろう。
「無理すんなよ」
触れて、囁く。しかし、手は直ぐ様振り払われた。
その行動に、ルシェラは自分で驚く。
――……あ……ぁ…………――
「……ごめん。お前にだって……自尊心、あるよな」
――申し訳ありません……そんな……つもりでは……――
「気にしなくていいよ」
ルシェラの手を掬う。
「行こう。行きたいんだろ?」
――ええ……――
手を繋ぎ、握る。ルシェラが何時力なく崩れても支えられる様に気を張った。
ルシェラの前に立ち、一歩踏み出すのを待つ。
震える足が動く。けれど、足底が床から離れない。
足指の一本分ほど、前に進む。繋いだ手に体重がかかった。
「っは……」
ただそれだけの事でルシェラは肩で息を継いだ。
しかし助けられない。ルシェラをこれ以上傷つけるわけには行かないのだ。
焦れながらも、リファスはただ見守る事しか出来なかった。
こうして一歩踏み出して、歩ける……自立出来る自信が持てなくては、自国の人間に合う勇気すらないのだろう。
話ならエリーゼがつける。ルシェラを迎えに来たなら、どれだけ時間が掛かろうと待つだろう。
否。待って貰わなくてはならない。ルシェラの心の為にも。
「少し、進めたな。その調子だよ」
ルシェラは唇を噛み締めた。
もう一歩がどうしても出ない。
握った手に冷たい汗が浮かんでいた。額にも、じっとりとして滲んでいる。
「………………は……ぁっ……」
必死さ故に顔が歪む。手に、ひと際力が掛けられた。
右の足が浮く。
一歩が踏み出された。しかし……。
「ぅ、くぅ……っ……」
踏み出した瞬間に、軸足が体重を支えきれずに頽れる。
床に倒れる前に、リファスの確かな腕が抱き止めた。
咄嗟にリファスに縋りつく。頼れるものが他になかった。
「大丈夫か?」
「はっ……ぁは…………」
自分で歩く事も出来ない。
初めて見える自国の人間に醜態を晒すのかと思うと、そのまま姿を隠してしまいたい衝動に駆られた。
感情に任せ、縋りついたリファスの背を打つ。
理不尽だが、リファスはただルシェラを受け止めた。苛立ちは分かる。
「……どうしたい?」
――……………………分かって……います…………――
リファスの背に爪が立った。
「行こうか?」
――……お願い……致します…………――
言葉を受け、リファスはルシェラを抱き上げた。
何の苦もない軽々とした動作に、ルシェラは余計渋面になる。
「応接室の扉の前で降ろす。そこからは、支えるから、自分で立て」
――……お気遣い、ありがとうございます……――
応接室は診療所に続く扉の直ぐ側にあり、中々立派に作られている。
家の部分と診療所部を合わせれば、この町で神殿に次いで大きな建物だった。
調度も上質なもので揃えられており、これも神殿に次ぐとの評判だ。
一国の大使を迎えるに当たっても、急の訪れに慌てる事がない程度の用意はあった。
ルシェラはリファスの手に因ってその扉の前まで導かれる。
そっと爪先を床に付き、リファスに頼りながらも自分の足で立つ。
深く深呼吸をした。
扉の中からはぼそぼそと人の声らしいものは聞こえるが、扉が分厚く、内容までは聞き取れない。
「大丈夫だと思ったら言え。扉、開けるから」
ルシェラの心の準備が整うのを待つ。
ルシェラは厳しい表情で真っ直ぐに扉を見詰めていた。
力強くありながらも、まだ何処か虚ろな部分を持ち合わせている。
人形は、未だ人になりきれてはいない。
――大丈夫です……――
ルシェラの手が伸び、扉の取っ手に手をかける。
しかし躊躇う。その手にリファスは手を重ねた。
「……いいな」
――ええ……――
やっとの思いでルシェラは頷いた。
リファスは扉を軽く叩いて来意を知らせる。
「どうぞ」
中からエリーゼの声がした。
重ねた手が取っ手を回す。
「フィ、フィデリア……!!」
扉を開け、中に入る。
ガチャンと陶器の割れる音が響いた。
音と声に驚き、ルシェラはリファスの腕に倒れ込む。
割れた湯飲みから机へ、そして床に敷かれた絨毯へと茶色い染みが広がっていく。
「……フィデリア?」
発せられた音に記憶がなく、エリーゼは首を傾げる。
呆然と湯飲みを取り落とした体勢のまま、固まっている品のよい壮年の男は、ルシェラから一切視線を反らせない様だった。
「リファス、ルシェラ様をこちらに」
男を置いてエリーゼは促す。それに従い、リファスはルシェラを連れて母の隣に座った。
「大使、こちらがルシェラ様でございます。お確かめ下さい」
呼ばれ、男は漸く我に返る。
しかし、ルシェラはリファスの肩に額を当てて俯き、顔がよく見えない。
「ルシェラ、顔を上げられるか?」
直ぐ様首が横に振られる。
「構いませぬ。無理にとは……」
ノーヴェイア卿に覇気はない。
「このお方は、本当にティーア・ノーヴの王子殿下にして国守様であらせられますの?」
まだエリーゼは半信半疑だ。
「…………まず間違いなく」
ルシェラを見詰めていた視線を反らせる。そのまま俯いた。顔にも血の気がない。
「そのお顔が何よりの証……か……」
ノーヴェイア卿は席を立ち、机を周ってルシェラの足元に跪いた。
「アルディナスト・レティアン・リア・ノーヴァイト・ノーヴェイアと申します……殿……下…………」
殿下、呼ぶに戸惑っている。
名を聞き、ルシェラは僅かに顔を上げた。
何処か……聞き覚えのある音の様な気がする。
ちらりとノーヴェイアの顔を伺う。
見覚えがあった。
もう、ずっと昔に、何処かで……。
――おとうさま……?――
出て来た言葉はひどく幼い。
聞こえた声に聞き覚えがなく、リファスは思わずルシェラの顔を覗き込んだ。
じっと、大使を見詰めている。
――……おとうさま…………――
これまで聞こえていた声とはまるきり違う。幼く、舌足らずな声だ。
「……お父様?」
意味を理解できず、リファスはただ復唱する。
それを聞いて、ノーヴェイアの表情が変わった。
涙が、溢れ出す。
「……ルシェラ…………やはり、お前は…………」
大使の手がルシェラに伸ばされる。
ルシェラはリファスから離れ、素直にその手の中へ身を委ねた。
とさり、と床に下り、大使の顔を見上げる様に微笑む。
しかし、リファスと離れた事で直ぐ様視界は閉じた。
ルシェラは眉根を寄せ、しかし、包まれる温もりに嬉しげな微笑を崩しはしなかった。
続
作 水鏡透瀏
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