青褪めていた頬に、次第に僅かな色味が差してくる。
 少しばかりルシェラも慣れてきた様で、窓の外をしきりに気にしている。
「少し落ち着け、ルシェラ」
――ええ、ですが…………何だか、心安く、心が躍る様な心地がして――
「活気のある辺りだし……楽しそうな者が多いからだろうか。引きずられているな」
――楽しい……これが…………あまり感じた事のない気配ですけれど、厭な気はしないものですね――
 微笑む顔が心持ち紅潮している様でさえある。
 平和で活気のある街らしく、ここにいる限りではルシェラが恐れる類の気配は全くなかった。
 窓に指が伸び、掛け金を外す。
――大丈夫…………怖くない……怖くない…………――
 確かめる様に繰り返す。
 窓からは、先程より強くいろいろな匂いが漂ってきていた。からりと乾いた匂いはリファスの部屋ほどではないにしろ、何処か心地いい。
 手は扉にも伸びる。
 しかし、把手に手を掛けただけで躊躇い手を回せない。
「……気が逸っているな」
 苦笑しながらサディアは膝を詰め、ルシェラの片手に触れた。
「開いてみるがいい。自分の手で。……大丈夫だ。何があっても、私が全力で守る」
――女性の貴女にその様な事を……まことに情けのない事です……――
「女だ男だというのは好きになれないな。欠けた部分を補い合うだけの事に、そんな理屈は必要か?」
――いいえ。すみません…………けれど、わたくしには、それがとても大きな事だと思えるのです。男でありながら、男として認められず、さりとて女では決してあり得ない、わたくしは、とても中途半端な存在です。ですから……余計に、性差というものを重んじ、大切にしたい。男であることに縋り付きたいのかもしれない。浅ましい事ですが……――
「……私はお前を守りたいし、お前に守られたい。それではならないのか?」
──いいえ。……お気に障ったのであれば、心よりお詫び申し上げます──
 サディアの手を握り返す。
 そうして、ゆっくりと扉の把手を回して開ける。

 しっとりと小さな手が伝える温もりがルシェラを安定させる。
 ルシェラの方が些か華奢な感は否めないがそれは骨が浮き筋張っているからであり、サディアの手はさすが少女の……姫君のものだけあって小さく柔らかい。
 サディアの齎してくれる温かく柔らかな感情が何なのかルシェラには分からない。分からないながら、口元が微かに綻んだ。
 リファスのくれるものととても似ている。似ているけれども、もっと柔らかい。ふわふわとして真綿の様だ。
 開いた扉からは更に煩雑な気配が忍び寄って来たが、サディアのお陰かその当たりさえも何処か柔らかく感じる。
「どうだ?」
──ええ……ご心配なく……──
 そっと手を外す。守られない世界を知らねばならない。一つ一つ、断ち切れるものは断ち切らねば意味がない。
 繋いだ手を離した瞬間に僅かな悪寒を感じて身体を震わせたが、何とか踏み止まる。
「ルシェラ!」
──……大丈夫……です……──
 サディアの手を求めようとはせず、自身の両腕を掴む様にして堪える。
 扉が開いたとはいえ、まだ車内だ。結界は効果を弱めながらも存続している。
──そう……怖くはありません。ただ、少し……気分が悪くて……──
 口と胸に手を遣る。
「先程リファスが、ジェイ殿に飲み物を頼んだといっていたな。少し様子を見てくる」
――…………ええ…………――
 薄い胸が浅く喘ぐ。
 サディアはルシェラの髪を軽く撫で、視線を外す事なく馬車から降りていく。
 ルシェラは不安げに見送った。

 馬車の周りを一周する。
 男二人の姿はない。
 試しに商店街の方へ顔を覗かせる。
 サディアも人前へ大っぴらに顔を出せる身ではない。頭から布を被る。
 きょろきょろと見回すが見当たらない。
 仕方なくサディア自身で飲み物を買い求める事にした。
 当然ながら普段は財布など持ち合わせないが、この街に来る際にそれなりの額をかなり細かく崩した金を祖父より借り受けている。
 白銅貨を数枚握り、飲食店を覗く。
 店の前と売り場の奥に少しばかり座席が設けてあり、また売り場の横には立ち飲み用の台が連なっている。
 奥の座席に、見覚えのある姿があった。
「……私達を放って、いい気なもの……」
 果汁を基にした飲み物と麦で作った茶を売り場で求め、紙の容器に注いで貰っている間に座席に近寄る。
「ルシェラは」
「心配ならすぐに戻って。気分を悪くしている、わ。……ジェイさんが飲み物をお持ち下さるとお前が言ったから、待っていたのに」
「……そっか……」
「独りにしておくのは心配。私はもう戻るから……なるべく早く」
 慣れぬ品のよい女言葉はどうにも舌を噛みそうになる。
 店のから飲み物を受け取り、額面の小銭を渡して去ろうとする。
「さ……っと、ウルガ様!!」
 リファスが咄嗟に呼び止める。
 呼び止めたものの、リファスはそれ以上何も言わない。自身の中でも、何を言いたいのか纏まっていない様だった。
 サディアはリファスをきつく睨んだ。
「……私達は、明日の朝発つ。ルシェラの意向だ。お前を置いて、二人で……ジェイさん、明日早朝より、馬車をお借りできますか。馬と、馭者も。……ファナーナ家領メルスティアの街まで。夕時には着けますわね?」
「は、はい。すぐに父へ」
 ジェイは返事をしたが、リファスは絶句したまま動けなかった。
 返事もない。ただ俯く。髪が顔を隠していた。肩が震えている。
「…………ルシェラが心配だ。ジェイさん、すぐに戻っていただけますね」
「はい。な、リファス」
 リファスはジェイにすら反応しない。
 ジェイは困ってリファスの肩を揺すったがやはり反応はなかった。
 サディアはもう一度強くリファスを睨み、飲み物を零さない様に気をつけながら馬車へと戻った。

「待たせたな、ルシェラ」
──いいえ……お手数をおかけして、まことに申し訳のない事です──
 扉の内側に無数の掻き傷が増えている。ルシェラの爪が茶色くなっていた。
 サディアは見ない事にして、ルシェラに茶の入った容器を渡す。
「その茶なら、お前も飲めるだろう」
──……ええ…………懐かしい事……──
 口を付ける。香ばしく、何処か甘みのある味が口に広がる。冷たく冷やされたそれは喉の通りもいい。
 国で飲んだ記憶があった。側付きの騎士や兵士が携えてくれたものだ。
「少し落ち着いたか?」
──ええ。……貴女が側にいて下さるのといらっしゃらないのとで、こんなにも違うものだとは思いませんでした──
「リファス達もじきに戻ってくる。…………ジェイ殿に、明朝発ちたい旨を伝えた。……まだ覆す時間はある。今宵一夜、考えるがいい」
──ありがとう…………しかし、これで良いのです。これで…………。外へ出てみたい。構いませんでしょう? 落ち着いて参りましたし、気分が悪く少し不愉快にはなりますけれど、怖いものではないという事は大変よく理解しました。大丈夫だと思うのです。お願い致します……──
 半分ほど茶を飲み干し、座席に置く。
 返しそうな気配を感じてサディアは咄嗟にそれを手に取った。
「…………そうだな。明日発つなら……ここで試すか。……しかし扉を開け、誰も側にいないだけでそれ程取り乱すのだ。無理は……」
──不安、だったのです……。お側に誰もいて下さらないというのが、とても久しぶりの様に思いましたので…………どなたも、戻っていらっしゃらなかったら……と…………──
「……そうか。独りにしてすまなかった……」
──いいえ。わたくしこそ、貴女方を疑ってしまった…………──
 他人が側にいて自分の為に傷つくくらいなら、独りでいたいと願っていた。
 人がいない、その事をこれ程心細く思うとは、ルシェラにも想定外だった。
 外の世界を何も知らない。知らない事が不安や恐れに繋がる。
 ならば知る事が必要なのだ。

 サディア溜息を吐く。反対できる筈もない。その為に、ここにいるのだ。
「分かった。少し待て」
 身を翻し、側の石の上に飲み物を並べて置く。
 そして、ルシェラに手を差し出した。
「掴まれ」
 素っ気ない、けれども、ルシェラに例えようもなく力強く見える。
 ルシェラその手に自分の手を重ねた。
 やはり、小さく柔らかい。
 取り返してサディアの手を受け、その指の背に軽く口付ける。
「っ、る、ルシェラっ」
──礼を尽くしたいのです。作法は、僅かばかりですが学んでおりますから……──
 サディアの表情が歪む。
 ルシェラは女に憧れている。母、乳母、そして、男に抱かれ続ける自分の中の女性性。確かなものを羨み、尊敬に似た念を持ち合わせているに過ぎない。
 それでも少女の自分が期待している。サディアは手を振り払う事もできなかった。
 ただ、薄紅に染めるよりも青褪めた顔で泣き出しそうにルシェラを見詰める。
──サディア……?──
 ルシェラにはサディアの様子が理解できず、不安げに顔を伺う。
 本当に、何も分かっていない。
 仕方のない事だと分かっていても、込み上げる辛さを堪えるのに多大な精神力を要する。
 必死の思いで手を払い、しかし直ぐに取り直して引き寄せる。
 ルシェラの身体が崩れる様に馬車から降りた。
 抱き留める。サディアが小柄で華奢だとはいえ、ルシェラを支えるくらいの事はできる。
 抱き合う様な形だ。
 リファスが心を尽くしているのだろう。丁度顔に触れる辺りの髪からいい香りがした。
「……どうだ?」
 悟られたくない。しかし、声が震える。
──…………大丈夫……です。あの……貴女が、とてもお優しいから…………──
 ルシェラは気づいていない。
 サディアはほっとして気を取り直した。
 ルシェラの身体を僅かに離し、支えながら側の建物に身体を預けさせる。
「手を離せそうか?」
──少し……待って下さい……──
「茶でも飲むか?」
──ええ……──
 片手を伸ばし、茶の入った容器を取ってルシェラの口に近づける。

 唇を湿らせる程度に口を付け、ルシェラは両手でサディアの手を包む様に握る。
 少し息が荒い。
 僅かな興奮と往来に漂う感情とに動悸が上がっていた。
 微かに震え、手が震えて強張っている。
「戻ろう、ルシェラ」
──いいえ!……いいえ……もう少し…………──
「強情を張るな。こんなに冷たい手をして……」
「ルシェラ!!」
 横合いから酷く大きな声がかかる。
 ルシェラの身体が大きく震え、サディアに縋った。
 駆け寄ったリファスが無理にその身体を奪う。ルシェラは逃れる仕草を見せたが、乱れた脈や動悸に動く事ができない。
 その後ろにいたジェイも、サディアも、瞬時には動けない。
「っ、ゃ……ぁ…………」
「無理をして……何してんだ!」
──離して……っ……──
「早く馬車に戻れ。外に出るんじゃない」
──厭……厭です……いや……──
「っく、っ」
 強く振り払う。振り払った手の爪がリファスの顔に当たり、頬に傷を付けた。
「ぁ…………ぁ…………」
 紅く筋を引く傷を見て、ルシェラは目を大きく見開いた。
 唇が戦慄き、顔が色を失う。
 リファスの皓い頬に、紅はひどく映えていた。
 ぞくりとした震えが背を走り、ルシェラは更に狼狽する。目を奪われている。紅が、ルシェラの理性を狂わせる。
「っ……ぅ……」
「ルシェラ?」
 ルシェラの様子が酷く変わった事に気付き、リファスはもう一度抱き寄せた。
 傷つけられても、ルシェラに対する感情が変わるわけではない。
「ルシェラ……?」
 腕が、抱き返してきた。
 唇が、リファスの頬に押し当てられた。

「ジェイさん!! 私、買い物を忘れていましたわ。付き合って下さる?」
 サディアは咄嗟に強くジェイの手を引いた。
「あ、あの、」
「急ぎますの。よろしい?」
「はい。でも、あの」
「任せておけばいいわ。早く」
 引きずる様にしてジェイを商店街の方へ連れて行く。
 目の当たりにはさせられない。
 サディアには分かっていた。ルシェラがリファスに縋り、口づけたのは生易しい愛だとか恋だとか、そんなものの為ではない。
 血に魅せられたのだ。
 リファスの生気はルシェラにとって、何より極上の餌なのだから。
 手を握りあうだけで安定できるというのは、ルシェラにとってはそういう事だ。
 ルシェラには必要なもの。
 しかし、それを一般の民に見せる事などできる筈がない。
 角を曲がる最後まで気にかけつつ、サディアは場を離れた。

 舌が頬を這う。血を舐め取られ、リファスの背にも震えが走った。
 ルシェラの腕の力は強く、振り解く事はできない。
 ただの浅い掻き傷だ。血などすぐに止まる。その上ルシェラの唾液には多分に力が含まれ、瞬く間に傷を掻き消す。
「んっ……ぅ……」
 唇を舐める。
 路地裏に人気はない。馬車の陰に隠れ、誰が通りすがっても見つかる事はないだろう。
 ルシェラは半ば理性をなくし、リファスに縋り、求めた。
 しかしリファスは拒む気はなくとも受け入れきれず、ルシェラを引き剥がしにかかる。
 往来で……「外」で触れるわけにはいかないのだ。互いがどれ程望んだとしても。
「…………帰ろう、ルシェラ……車内か、家でなら…………俺も、お前に…………」
 細い身体に腕を回し、窘める様に背を撫でる。
 そして、手を捻ってルシェラの両肘を掴み、上へ押し上げながら自身は身を屈める。
「ゃあ……ぁ……」
 腕から逃れ、さっとルシェラを抱き上げると馬車の中に押し込んだ。
 続いてリファスも乗り込む。
 扉を勢いよく閉めた。
「ごめん、ルシェラ…………不安にさせたよな……」
 座った状態では膝を詰めても詰め切れない状態がもどかしく、ルシェラを膝の上に抱え上げて抱き締める。
──……リファス殿…………──
 ルシェラは泣いている。
 リファスの態度が一定しない事が、不安にさせているのだろう。
 触れてくれなかったリファス。
 今抱き締めてくれるリファス。
 どちらを信じればよいのか分からず困惑を隠せない。
──離して……下さい……──
「さっきの事は謝る。側にいたい、って思ってるのに変わりはないし、絶対、嘘なんて吐いてない。ただ……俺の中に、お前に伝えられるだけの言葉がない。…………俺の知ってる言葉の中から選んでも、お前にはきっと……受け入れられないから…………」
 昨夜のルシェラの取り乱しようが脳裏を過ぎる。
 それだけではなく、自分自身も言葉で伝えきれる自信など持てなかった。伝えても仕方のない事だ。言葉を尽くす事はできるが、それにどれだけこの胸に燻る想いを乗せられるものか、そして……受け入れて貰えるものか。
──何故……伝える前から、受け入れられぬと分かるのですか……?──
「何故、って…………」
 拒むところを見た、などと言える筈もない。
 「愛」。
 どの様な正の感情も、家族愛だの、友愛だの、結局何らかの愛に含められるのだろう。その言葉を拒まれては、リファスの中に伝えるべきものなどなくなってしまう。
「……選びきれないんだよ。お前に伝えたい事が多過ぎて。もっとお前が混乱するのが分かるから……伝えられないんだ」
 リファスの感情が熱く滾っているのは分かる。
 ルシェラは恐る恐るリファスに頬を寄せた。
 一度でも心を砕いた相手だ。その言葉と、熱い想いまで拒む事はできない。
 リファスが心を尽くそうとしてくれている事は感じる。それが嬉しくないわけはない。

──わたくしは、多くの言葉を存じません。また、知っていてもどの様な状況で用いるべきなのか分かっていない事もたくさんあります──
 ルシェラは一つ一つ、慎重に言葉を選びながらリファスに伝える。
 急く必要はないのだ。そう、自身に言い聞かせる。
──……不適切な事も申しますでしょう。けれど……貴方にお伝えしたい事は、すべてお伝えしているつもりです。言葉だけではなく、態度にも、瞳の色や表情にも、表しているつもりです。貴方も……そうしては下さいませんか?──
 頬を合わせる。
 リファスの頬には血の気がなく冷たかった。その事が悲しく思えて、ルシェラ自身も今日は発熱していない代わりに体温が低いながら、より擦り寄って互いの心の熱で体温を補い合おうとする。
──わたくしは何も知らない。知らないから、分からない事も多い。ですから、教えて頂きたいのです。貴方を、もっと知りたい……──
「俺は……お前にありのままを全て伝えられる程、立派じゃないよ……」
──立派……立派とは、どの様なものなのでしょう──
 その言葉の意味すら知らぬ訳ではない。だが、リファスの定義するものが分からない。
 立派というのは自己判断ではなく、周囲の他人が判断するべき事だ。
──貴方は、わたくしから見て、本当に素晴らしい方だと思いますのに──
「だからだよ。だから……」
──わたくしは…………人の、余り美しくないところは多く見て参りました。けれど……貴方の様に、温かく、優しく、強いものには触れた事などなかった…………わたくしには、ただそれだけで、貴方を賞賛に値すると思うのです。立派だと思うのです。そういった評価は、ご自分でご自分に下されるものではありませんでしょう?──
 感じている事を全て曝け出さなければならない。切迫した気持ちになる。リファスに対してルシェラには躊躇いなどない。
──……側にいたい、側にいて欲しい…………それは束縛…………わたくしは、貴方に酷い束縛を架そうとしている……醜い、それが、わたくし……それは分かっている事です。だからこそ、貴方の本当のお気持ちを知り、わたくしの想いに区切りをつけたい……──
「……違う。お互いが望むなら、それは…………お前が醜いなんてそれこそあり得ないし」
 思い違いだと叫びそうになる。それを奥歯で噛み殺す。抱き合っている為に、ルシェラに表情を見られないのが救いだった。
 想いに区切り……とは、諦めるという事なのだろう。
 そうしなくてはならないのだろうと漠然とした思いを抱きはするが、受け入れられるか、受け入れたいかはまた別だ。
──互いに…………先日貴方も、そう仰有って下さいましたね。側にいて下さると…………信じて……良いのですね──
「嘘なんて、言わない。口にまで上る言葉は、信じて欲しい。隠し事は、確かにあるかもしれないけど……それは、俺の中で整理できてなくて、まだ伝えられる段階じゃないと思うからだ。だから……」
 強く抱き締める。
 ルシェラの身体が歓喜に震えた。
「…………信じて」
──はい……──
 人を疑うという事は、今のルシェラの中にはない。ただ悲しかっただけだ。素直に頷く。

──サディアはどちらへ……早く、貴方の家へ戻りたい……ここは狭いでしょう?──
「待ってれば、そのうち帰ってくるよ」
──ええ、ですが……──
「お前を一人にしたくない」
 少しばかり身体を離し、ルシェラの手を取って指先に口付ける。
 爪の間に茶色の塗料らしいものが付着していた。振り向いて、扉の内側を確かめる。
「引っ掻いたな。爪、痛くなってないか?」
──……すみません…………誰もいらっしゃらなくて……外に……出たくて…………傷を付けてしまいました──
「だからさ。待ってようぜ。俺が呼びに言ったらまた同じ事だ」
──はい…………──
 衣嚢から手巾を出して塗料をよく拭い去る。
 ルシェラの身体を気遣い、世話をしている時のリファスは本当に幸せそうに見えた。
 ルシェラの不安はまだ全てが消えたわけではないが、それでも、リファスに身体の全てを預ける。
「……明日の朝、発つんだって?」
──…………貴方と、ご一緒しない方がよいと思って…………──
「そう……か……」
──でも、側にいて下さるのでしょう?──
「ん…………ぅん…………」
 煮え切らない返事が返る。
 ルシェラの顔が見る間に陰った。
 側にいるというのは、ルシェラが思う以上に、リファスにとっては大変な事の様だ。
──……難しい……ことなのですね…………側にいて下さると、誓って下さっても、現実には……──
 悲しげなルシェラの頬に触れる。
 上手く言葉にできずに誤解ばかりを招く自分がもどかしくて仕方がない。
 それでも、誤解を解く為には言葉を更に尽くしていくしかないのだ。
「…………俺が本当に、身分を手に入れられるなら…………もう少し難しくないかもしれないけど……どれだけサディア様が認めて下さっても、俺……やっぱり、何処かで信じられなくて…………もっと、確かな……足場が欲しい……リーンディルは、遠い……」
──早く……サディアのお祖父様のところへ参りましょう…………祝賀会はまだ随分先ですけれど、この街に居続けるより、少し事が進んだ用に思いませんか?──
 頬に触れているリファスの指先が冷たい。
 ルシェラはそっと手を取り、その指先に口付ける。
「そう……だな……」
──少し、混乱は致しましたけれど……ここに参りましても、大丈夫でしたでしょう? 貴方がすぐにこの車内へわたくしをお連れ下さいましたけれど……もうじきに慣れる事もできましたのに……──
「ごめん。……角を曲がったらお前が外にいたから……俺も慌てちゃって。いきなりなんて……絶対無理だと思ったし」
──貴方と共にある為になら……わたくしは、どこまでも強くなれる……そう思うのです──
 美しい微笑みだった。
 リファスも釣られた様に曖昧な笑みを浮かべる。
 ルシェラの様に、全てを真っ直ぐに考えられはしない。それでも、信じたいものはある。
 自分も、ルシェラが言う様に……側にいれば強くなれる、そう、思いたかった。


作 水鏡透瀏

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