程なくして戻ってきたサディア達と共にリファスの家まで戻る。
 少し昼食には遅い時間になってしまったが、仕方のない事だ。ルシェラの身体をよく包み直し、馬車から家の玄関までの短い距離を守りきる。
 ジェイも礼がてら昼食に誘い、家に招いた。
 玄関を一歩入るや、ルシェラは顔や首元を覆っていた布をさっさと取り払う。
 ジェイが善良な人間である事は半日の同行で十分に分かっている。怖くなどはない。
「はっ……ふ……」
 目映いばかりの白金髪がふさりと溢れ零れる。
 漸く暑さや息苦しさから解放され、ルシェラは軽く頭を振って額や頬や首筋に絡んでいた細い髪を払う。
 ジェイはその姿を目の当たりにしてしまい、呼吸と時を止めてしまった。
「ルシェラ……ジェイが困ってる。奥に行こう」
 リファスは苦笑しながらルシェラを促した。
 ルシェラは小首を傾げジェイを振り返る。
──わたくし……何か致しましたか?──
「お前の顔は、見慣れないと心臓に悪いよ」
──……申し訳ありません。お見苦しいものをお目にかけまして……──
 表情が陰り、軽く身を屈めて床に落とした布を拾うと頭から引っ被る。
「そういう意味じゃないんだけどな……」
 困惑するものの、玄関で溜まっていても仕方がない。
 ルシェラの手を引きさっさと奥へと連れて行く。
「ジェイさん、私達も参りましょう?」
 ジェイの目の前で手を振り、それでも戻って来ないのを知るとサディアはジェイの手を取った。
 強く引くと、漸く一歩踏み出しかけて踏鞴を踏み、戻ってきた。
「あ、あの、っ……さっきの方は……?」
「本日朝より一緒にお外を回りましたわ。私と彼が、こちらにご厄介になっておりますの。リファスが昼食をご用意下さるそうですから、ご一緒致しましょう?」
「は、はい…………」

「あら、早かったのねぇ。外で食べてくるかと思ってたわ」
 午後の診察時間の開始までゆっくりと寛いでいたエリーゼが目を細める。
「お邪魔しまーす」
「久しぶりね、ジェイ。顔を見ないからどうかと思ってたけど」
「……母さんと頻繁に顔合わせる方がどうかと思うけどな」
 食卓にルシェラを預け、側の椅子の背にかけていた前掛けを身につける。
「待ってて。何か簡単なもの作ってくるから」
 ルシェラの髪を撫で、頬を軽く合わせる。
 サディア呆れて溜息を吐いた。
「……私達の分もお忘れなく」
「あ、は、はいはい」
 曖昧な返事は忘れていた証拠だろう。
 軽く肩を竦め、ルシェラを支えられる位置の椅子に着く。
 ジェイもその隣に座った。
「ご加減はいかがですか?」
「何とかなっている様です。リファスの苦労の賜でしょう」
「そうですか」
「明日早朝に、こちらを発つ事になりそうです。後ほど、用意をお願いできますか」
「まあ、そんな…………」
 エリーゼの顔が見る間に曇り、ルシェラの様子を伺い始める。
 ルシェラはまだジェイに遠慮して顔を覆う布を取ろうとはしない。表情までは分からなかった。
「まだ危なくはございませんか?」
 それとなくルシェラへ手を伸ばし、僅かに布を避ける。
 逃れる仕草を見せたが、布の間から見えた顔がエリーゼのものであった事に安堵する。
「今日お外へ行かれて、宜しかったのかもしれませんけれど……ここから市場などへ行くのとは比べものにならない距離ですし、一日で、ファナーナ公のお屋敷までは辿り着けませんでしょう?」
「メルスティアで一泊しようと考えていますが」
「一泊だなんて……一週間程お休みになられなくては、発てないでしょう。殿下、正直に仰有いませ。お疲れではございませんか?」
 もう少し布を払い顔色を確かめる。
 表情は比較的明るいが、頬や唇には血の気が薄い。
 額や首筋に触れ、発熱や脈を確かめる。
 体温は少し上がっている様だった。脈は弱く、早い。

「昼食は後ほどお部屋までお届け致しますから、少し横になられてはいかがですか?」
 ルシェラは小さく首を横に振った。一人になりたくない気分だった。
 昂じた気持ちはまだ収まらない。
「真っ直ぐ座っていらっしゃるおつもりでしょうが、随分ふらふらなさっていますわ」
 椅子を近づけ、サディアはルシェラの身体を預かる。
──まだ大丈夫です。もう少し……こうしていたい……──
「まだ大丈夫……という事は、これから大丈夫でなくなるという事だろう? 無理をするな。私も共に下がるから」
──でも──
「ルシェラ。下らぬ事に意地を張るな」
──…………でも…………わたくしは……一人で食事を摂るのは、もう……厭…………──
 ルシェラは思い切って何とか思いを告げた。
 サディアは身が竦む思いがする。
 伝わる孤独が辛かった。
「…………ルシェラ…………」
「ルシェラ殿下は、何と」
 未だに声は聞こえない。焦れてエリーゼが尋ねる。
 サディアは眉根を寄せ、困った様にエリーゼを見た。
「……もう……一人で食事を摂りたくないと……」
 皆で食事を摂る事の楽しみを知ってしまった。寝台の上で摂る食事の何と味気ない事か。
 エリーゼはそれ以上無理に寝台行きを勧める事も出来ず押し黙るしかなかった。
 ジェイは何も分からぬまま、成り行きをただ見ている。

 簡単な、と言ったのは確かな様で、リファスは直ぐに戻ってきた。
 皿を手にしながら、何処か薄暗い食堂の空気に戸惑う。
「どうか……?」
「……いや。昼食は?」
「とりあえず、こちらをどうぞ。ルシェラはこっちな」
 サディアとジェイの前に置く皿と、ルシェラの前に置くものは乗せられたものが違う。
 二人には、小麦粉に香草と香辛料を混ぜて練り鉄板で焼いただけの麪包に野菜や肉の薫製を挟んだもの。ルシェラには、火を通した芋を裏ごしし保存してあったものへ、細かく刻んだ野菜や挽肉を茹でたものを混ぜ込んで味を付けたものだ。
──同じものは頂けないのですね──
「まだちょっとな。この麪包は平焼きで堅くて噛みにくいから。さっきの市場でいい肉が手に入ったから、今煮てるんだ。もう少し待ってくれよ」
──はい──
「匙は持てるか? 顔色が悪い。さっさと食べて、少し横になった方がいいな」
──ええ。どうぞ、貴方はお料理の続きを──
「ああ。……直ぐ戻るよ」
 もう一度頬を合わせ、リファスは台所へと戻って行く。
 リファスには何も言わなくても気分の全てが伝わっている様で、ルシェラは思わず微笑んだ。
「先の会話が聞こえていたわけでもなかろうにな」
 麪包の一つに手を伸ばし齧り付きながら、サディアは更に呆れた様に声を上げる。
「……確かに、ルシェラには少し堅いか。噛みごたえがあって美味ではあるが」
「相変わらず、本職並だよなぁ」
 ジェイも口にしながら感嘆の声を上げる。
 街でも一番に仲は良いが、この一ヶ月近く顔を合わせる機会も少なく寂しく思っていたところだった。
 ルシェラが来たからだったのだろう。二人の様子を見ているとそれがよく分かる。
 一番の親友が遠離ってしまった物寂しさはあったが、ルシェラに向けられる柔らかな表情見ているとジェイも嬉しくなる。
 詳細は知らずとも、リファスのこれまでにかなりの曲折があった事は知っている。
 その表情の滲ませる優しさに、ジェイも釣られた様に知らず微笑んでいた。

「殿下、そのままではお召し上がりになれないでしょう。どうぞ、布を」
 そのまま匙を取ろうとするルシェラにエリーゼが促す。けれど、ルシェラは応じない。
──申し訳のうございますから……──
 頑ななルシェラに対して眉を顰め、麪包を皿の端に置いてジェイに尋ねる。
「ジェイさん、ルシェラの顔をご覧になりましたわね?」
「へ? あ、は、はい。さっき、ちらっと……」
「ご不快に思いましたかしら」
「まさか!! あ、あの……リファスとか、ウルガさんとか……あと、リファスのお姉さん達とか、小母さんとか……それより綺麗な人なんて、この世の中にいると思ってなかったから凄くびっくりしたけど」
「ありがとう。……ルシェラ、分かっただろう?」
 布の端を引く。
 ルシェラは暫く俯いていたが、やがて、意を決して布を払い除けた。
 再び、その姿が現される。
 ジェイは目を丸くしてそれに魅入った。
 不躾で無遠慮ながら厭な気はしない視線に、ルシェラも恥じ入りながらも堪える。
──その様に見詰められては……恥ずかしく思います……。お目にかけるに値するものとも思いませんし……──
「ルシェラが照れておりますわ。その様にじっと見詰めておいででは」
「あの……お話は出来ないんですか?」
 ジェイにはルシェラの声は届かない。疑問も尤もだろう。
 ルシェラは強張る頬で僅かに微笑み、小さく頷いた。
「えっと、ごめんなさい。知らなくて」
 首を横に振って応じる。
 年相応の雰囲気は、ルシェラの目には幼くさえ映る。
 目がどうしてもルシェラの姿を追っていた。
 微笑ましい。サディアも苦笑している。
「頂きましょう。次が来てしまう」
 促され、ルシェラも匙を取った。片手では支えきれず、匙を持った手をもう片方で支え持つ。
 掬うのではなく、先の方だけ軽く浸して、口に運び僅かに舐め取る。
 口元に、微笑みが満ちた。
 もう一口は先より少し多めに掬い、口へと運ぶ。
 しかし、そこで匙を置いてしまった。
「もう良いのか?」
 遠慮がちに首が縦に振られる。
「そうか……まあ、もうじきリファスが戻る。それまで待っているがいい」
「私はそろそろ診察に戻らなくては。後ほど、お部屋に戻られた頃にお伺い致しますわ。お薬はこちらです」
 ルシェラの前に幾つかの粉薬と水薬を置いて、エリーゼは席を立つ。
「何かございましたら、直ぐにお呼び下さい」
「お手数をおかけします」
「いいえ。では、失礼致しますわ」
 エリーゼが徹底して年端も行かない少女達に敬語を通しているのを見て、ジェイは不安に駆られてサディアとルシェラを見る。
 どういう身分の者達なのか、想像もつかない。
 二人が美しく、気高く、威厳に溢れ、それが神々しいまでである事は分かるが、ジェイに分かるのは本当にただそれだけである。

「あのぅ、お二人は、一体どういう方なんですか?」
 とりあえず聞いてみる。
 サディアはにっこりと微笑んだ。
「リファスの古くからの友人です」
「ああ、王立学院とかの?」
「……まぁ……その様なものですかしら」
 三文小説の種にもなりはしない。曖昧に誤魔化す。
 しかしジェイはそれで納得した様だった。
 リファス自身も姉達も、普通ではない。普通でない知り合いがいても、疑う事なく納得してしまう。
「凄いなぁ、やっぱり……」
 ぱくり、と麪包を銜える。
 近いからこそ、リファスが眩しく見える事も多いのだろう。
「殿下!!」
 ふと、エリーゼが戻ってくる。
 どちらを指しているのか分からず、サディアもルシェラもその方へ目を向けた。
「申し訳ありません」
「いや。何かお忘れでも」
「娘が戻っておりまして、殿下にお目通り願えないかと」
「私か? ルシェラか?」
「出来れば、お二方にだと思うのですけど……あ」
 エリーゼの後ろから顔を覗かせる者がある。
 エルフェス、リファス姉弟によく似てはいるがエルフェスより些か年嵩で、全く化粧っ気のない女だった。
「エリファ、失礼でしょう」
「すみません。昨日当家にお越しになられたのは貴女でございましょうか。ご挨拶申し上げておりませんのは、誠に申し訳なく思いますが、火急の事にてお許し頂きたい」
 母を押しのける様にして食堂へ入り、サディアとルシェラの下へ片膝を付き頭を下げる。
 サディアと顔を合わせるのは初めてだが、何かは察しているらしい。
「構わない。何用か」
 エリファの物言いに引き摺られる様に、サディアも素に戻っている。
「わたくしは、我が町アウカ・ラダームの衛兵を務めております、エリファ・グレイヌール・アトゥナと申します。お伺いしたき件がございまして参りました」
「何か?」
「まず、お名前を伺えますでしょうか」
「何故に」
「我が町の町長が姿を消し、その探索に当たっております。ただいま、衛兵総員にて手分けをし、旅人を中心にお名前、お仕事、この町にお越しになった用件などを伺っております。差し支えなければ、教え願いたいのですが。ルシェラ殿下の御名は、以前にティーアの駐ラーセルム大使ノーヴェイア卿より承っておりますが、貴女様にお会い致しますのは初めてでございますので」
 下げていた頭を許しなく上げる。
 真っ直ぐに二人を見詰める視線は険しい。
 サディアは微かに口の端を上げた。
 こんな実直さは嫌いではない。

「ジェイさん。申し訳ないのですが、おうちへお戻りになって明日のお支度をお願いできますかしら。今すぐに」
「え? あ……あ、はい。じゃあ、また……。夕方に、見積もりとか持ってきます」
「ええ。お願い致します」
 人払いの意図を汲み、ジェイはそそくさと麪包を片手に席を立った。
 扉が閉じられるのを見届けて、サディアはじっとエリファを見返す。
 椅子を僅かにずらし、軽く足を組んだ。
「薄々は察している用に見受けるが?」
「不確かな推察など、申し上げるわけには参りません」
「結構。私はサディア。サディア・ウルガ・ファナーナ・レイディエント・アルフェイト・ラーセルムである。他に、何か」
「いいえ。確かに承りました」
「何かの参考になるのか、我が名が」
「少なくとも、素晴らしい身の証となりましょう」
「……馬鹿馬鹿しい。口だけの名乗りが何の役に立とう。これを」
 手を差し伸べる。
 右の中指と小指に、瀟洒な古い指輪が填められている。よく見れば、台座に填められた紅く深い色の石の奥にラーセルム王家の紋章とリーンディルの紋章を組み合わせた印が分かる。
 確かめた証にエリファが深く頭を下げ、サディアは手を納めた。
「しかし、町長が消えたとは? ただの失踪ではないのか?」
「まだ捜索中です。ですが、失踪などではなく、消えたとしか表現できない状況ですので、魔術を使う者の関与があるのではないかという観点の下で探査しております」
「消えた……。それは、いつの話か」
「昨日の、夕暮れ前ほどになりますか。……何かお心当たりでもございますか」
 昨日の夕暮れ。
 何か不安なものが過ぎる。
 陰った表情を見て、エリファは不審げな視線を向ける。
「この街の町長の噂を聞いた事がないではない。中央で、随分息巻いている様だった」
「はい。この町にとって悪い男ではありませんでしたが、中央では政敵が多い様にも伺っておりました」
「中央に関わりがある様であれば、私にも全く無関係という事ではあるまい。疑いがある様であれば、詳細を伺いたい」
「まだそこまでの調べは付いておりませんが、分かり次第必ず」
 はっきりと淀みない言葉は心地いい。
 何処か性格が噛み合う様で、サディアは無条件にこの姉の事が気に入った。
「お寛ぎのところ、お邪魔を致しましてまことに申し訳ございませんでした」
「いや。お勤め、ご苦労。貴女の様によく励んで下さる方が居るからこそ、我が国の治安は維持されているのだ。ありがたく思う。お仕事に戻られるがいい」
「勿体ないお言葉でございます。では、御前を失礼致します」
 サディアに、そしてルシェラに一度ずつ頭を下げ、エリファは職務に戻っていく。
 はらはらと見守っていたエリーゼも、一礼をして仕事に戻っていった。

「美しい上に、颯爽して凛々しいお方だな、リファスのお姉様とは」
──ええ、あちらのお姉上様にお目にかかったのは、まだ二度目ですけれど──
「それで、どう思った」
──どう……とは?──
 ルシェラは小さく首を傾げる。
「昨日の夕方、と言うのが気にかかる。お前が感じ、私が感じなかったものが殺気だとか、消えゆく者の断末魔だったとしたら……どうかとな」
──消えた、と仰せでしたね──
「失踪などでなく消えたとしか言えない……そうなるとな……お前の感じたものが私にも伝わればよいのだが」
──お伝えする…………申し訳ありません。わたくしも、余り思い出したくないものですから……──
「どのみち術がなかろう」
──わたくしが感じたものをそのままお伝えする事は出来ると思います。お手をお借りできましたら恐らくは──
 そっとサディアの手を取る。
 その手を自分の胸に押し当て目を閉じる。
 秀麗な眉を寄せ、昨日の感覚を呼び起こす。指先が熱を失い、肩が震える。
「っ……く……」
「無理はするな、ルシェラ」
──お静かに。集中が途切れます──
 ルシェラの空気が張り詰めている。サディアは思わず押し黙った。
 しかし、代わりに再び掻き乱される。
「お待たせー」
 ……台所と食堂は扉と壁で完全に仕切られている。場を読まないリファスが深皿を手に戻ってきた。
「え、と……あ?」
 妙な形の二人を見て立ち止まり困惑の表情を浮かべる。
「……もう少し静かに出来ないものか」
「すみません。……何かありましたか」
「上のお姉様が戻っていらしてな。昨日の夕暮れ前に、町長が消えたのだそうだ。衛兵も大変な仕事だな」
「そう……ですか。でも何で」
 皿をとりあえず食卓に置き、ルシェラの隣に座る。
「衛兵全員でこの町にいる旅人を一人一人当たっているらしい。難儀な事だ」
「そうですか……で、ジェイは何処に?」
「あまり私の名を公にしたくないのでな。お引き取り頂いた。夕時にはまた、明日馬車をお借りする見積もりをお持ち頂けるそうだ」
「分かりました。……ルシェラ。もうお終い?」
 匙を取り、少し上げてみせる。
 ルシェラはサディアの手を戻し、小さく首を横に振ってリファスに寄り添った。
 サディアは軽くむくれたが、突っ込みは入れない。
 ルシェラにとっては余り思い出したくない感覚と、リファスであれば、どう考えてもリファスに寄り添う事を選ぶだろう。
「仕方ないなぁ……。はい、口開けて」
 リファスの手から食事を摂り始めるルシェラを眺めて、サディアは大きく溜息を吐いた。


作 水鏡透瀏

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